第九十四話 <川を挟んで>
別動隊が出たというのに、クワイ軍もリーエン軍本隊も、いつものようにチョロチョロと矢玉を交わし、大きくぶつかる戦闘のような事はしていない。
夕方になると、クワイ軍は引き揚げようと陣に退く準備を始めたが、リーエン軍には全くそんな気配はなかった。
南西に灰色の煙が上がる。
それは、薄暗くなる前の本日最後の輝きを放つかの如く鮮やかな青空に、一段と映えていた。
「狼煙があがりました!別動隊の準備は整っています!」
伝令兵が報告に来た。
「遅かったな…あと二時間程で日没だ…」
ガロは誰にでもなくそうつぶやくと、号令をかける。
「よし、全軍銃を構え!前進だ!」
夕方近くになって突如前進を始めたリーエン軍を横目に、ミラは川向こうで整列を始めた民兵を睨んでいた。
着ているモノはベストやシャツであり、鎧ではない。
しかし、一千もの人数が銃を構えて並んでいるとなれば、訓練を受けていないと知っていても、さすがに威圧感を覚える。
ミラは、竹の束を持った歩兵を先行させ、鉄盾を構えた兵士に囲まれて川沿いまで急いだ。
そんなミラの姿を見た民兵から、まだ攻撃の下知がないのに、パラパラと弾が飛んできた。
弾は竹束に当たり、跳ねて地面に刺さる。
「これは勝てるな…」
そうつぶやいたミラは、
「この辺りでよい!」
と叫んで一団を停止させた。
そして、ミラの青い目が茶色く濁る。
ミラは手のひらを上にして両腕を上げた。
すると、川岸とその手前の土やら石やら岩やらが宙に集まり、固まって大きな一つの岩になった。
次にミラはそれを放り投げるように、両手を大きく降り下げた。
空中に出来た大きな岩はそのまま放り投げられたように弧を描いて飛んで行き、川の中に落ちる。
ミラがそれを五、六度繰り返すと、川の水は塞き止められ、岩の下流の川底が露になった。
「この機に攻め込むぞ!全軍突撃!」
ミラは大きな声でそう怒鳴る。
すると、気勢を上げてクワイ国の軍勢二千が一気に駆け出し、押し寄せる。
「敵を引き付け、狙いを定めてから撃て!まだよ、まだ早い!」
そう怒鳴ってももう遅い。
パン!パン!パパン!
と、興奮からか、恐怖からか、あちこちで民兵が銃を放つ発泡音が聞こえる。しかし、十分狙える距離ではない。
なのに、後列からも撃つ者が現れた。
こうなると歯止めは効かない。
次々に発砲し、中には味方を撃ち殺してしまう者まで現れる始末であった。
さらに民兵は、迫り来るクワイ軍に恐れをなして後退りする。
こんな事では勝つどころか、戦闘にもなっていない。
ガロの言っていた通り、訓練もしていない民兵では戦闘の真似事すらできない。
彼の忠告は事は正しく、シーアの自信は全く根拠のない放言であったのだと思い知ったがもう時は取り戻せない。
シーアはこの惨状に、退却命令を出そうと思った。
その時、ガロの声を思い出す。
「己の弱い心に勝ちなさい、いいですね…」
シーアは強張った顔のままつはぶやく。
「…私の弱い心…でも、この状態で勝機なんて…」
川を渡り来るクワイ軍を睨んだ。
先行の部隊が渡り終え、丁度ミラの部隊が渡河しようとして、竹束を持った歩兵が川底を歩いていた。
後ろに鉄盾の護衛が続く。
「ミラ…」
そうつぶやくと、ふと、ある考えが思い浮かぶ。
「ここでは届かない…前に出るぞ!十分…いや、五分でいい、敵を押さえて!」
そう周囲の衛兵に叫ぶと、シーアは駆け出した。
慌てて、シーアの護衛に来ていた百名足らずの正規兵士達が走る。
先行のクワイ軍にシーアが突撃する。
「シーア様が…!」
「ヤバい!敵中に飛び込まれるぞ!」
及び腰だったナコンの住民達が叫んだ。
このままでは、先行して渡河しているクワイ兵の真ん中にシーアが突入してしまう。
そうなったら、助けるどころか、シーアは敵兵に囲まれて孤立し、悲惨な最後が待っている。
「ムスイ村の娘みたいなひどい目に、あのシーア様を逢わせてはならん!」
そう叫んだのは、最初に銃を取ったジャラという人相の悪い男であった。
それでナコンの住民達は、クワイ軍に占領された際、村で何が起こったのかを一瞬で思い出した。
村の娘の中でも美しく可憐な娘が乱暴され、抵抗した者は殺されたという事を。
あの時は武器もなく、何も出来なかった。
しかし、今は手元に銃がある。
「救うんだ、シーア様を!」
「後で涙を流すくらいなら、今血を流せ!」
「シーア様に続け!」
口々に叫んだ民兵達は、怒りを呼び起こし、なけなしの勇気を振り絞りシーアの後を追った。
「シーアが突撃してきた!」
「左右を上げて囲い込め!」
「黒いミツカイを仕留めろ!」
クワイ軍に怒号が飛び交う。
シーアの全身からは湯気のような黒い煙が立ち上っていた。
クワイ軍の移動速度が急激に落ちる。
そこへ、シーアの護衛が銃を撃ち込んだ。
クワイ兵の屍を越えた先では、ミラがヨチヨチとおぼつかない足取りで川底を歩いていた。
「行くわよ!」
シーアは両手を前に突き出した。
眉間にシワが寄る。
途端に、川を塞き止めていた岩が動き出したかと思うと、水が全てを洗い流す。
ゴウゴウという音。
ミラと鉄盾隊は濁流となったその水に飲まれて流されていった。
「あぁ…ミラ様が…」
呆気に取られるクワイ軍に、民兵の銃弾が襲い掛かる。
間もなく、シーアの別動隊は足場を確保し、クワイ軍の殲滅行動に入った。
しばらく後、少し下流で川面から突然岩が突き出す。
その頂上には、太った色白の娘がいた。
娘は、四つ這いになりながら、ゲホゲホと咳き込んでいた。
ひとしきり水を吐き、少し落ち着いた後、ゆらゆらと立ち上がり、フイ川の上流、まだ破裂音と怒声が聞こえる戦場を睨んだ。
「おのれ…あの小娘が!」
シーアは物の重さを変える事が出来ると聞く。
だが、人や生き物の重さは変えられないようだ。
その力は、せいぜい弓矢の重さを変えて矢を届かなくするくらいだと思っていた。
岩を軽くして流し、塞き止めていた水を解放して川を歩いていたミラを押し流すとは。
そのような発想も、そのような力もないと勝手に思い込んでいたミラは、己の浅はかさを悔いた。
「このまま勝てると思うなよ…」
ミラは歯噛みしながら、フラフラと不確かな足取りで本陣へ戻った。
辺りは薄暗くなり、茜色にたなびく雲が、暗い紺色の空に不気味なグラデーションを描いていた。
数多くのカラスが鳴きながら頭上を飛び去る。
本陣は悲惨な状態になっていた。
リーエン軍は二列になって、立っては打ち、しゃがんでは弾込めを交互にしていた。
弓矢が届いて幾分かは銃兵を減らせては
いるが、竹の束や鉄盾の後ろに隠れているだけでは、そのうち打ち減らされるのを待つだけである。
「ジャオ!兵をまとめて退却だ!」
分の悪さを感じているミラは、副将にそう怒鳴った。
「今から反撃しようと用意していた所ですが…」
少し不満そうな顔でジャオが言う。
それに訝しげにミラがたずねる。
「何をするつもりだった?」
「ナコンの住民、特に女子供を盾にして、突撃しようと計画を…」
「お前は悪い奴だ」
ミラはフッと笑った。
「盾にはしよう。だが、突撃ではない。退却だ!」
「せっかくの仕掛けを、ですか?」
まだジャオは不満そうであった。
「南方が間もなくリーエンの手に落ちる。そうしたらここは銃撃線の交点になる。逃げ場がなく、全滅するやも知れぬぞ…」
ほぞを噛むような悔しそうな顔でミラはそう言うと、地面を蹴った。
川向こうではあるが、必死で銃撃するナコンの民兵達に押され、クワイ軍は本陣に後退しようとしていた。
「このまま、河原まで前進して銃撃します!」
シーアは号令をかけるが、シーア直属の近衛兵から行動をしないと民兵は動かない。
正規兵率いるシーアが前に出たその時、風を切る音が間近に聞こえたかと思うと、弓矢がシーアを射抜いた。
「シーア様!」
「ミツカイ様!」
その様子を見ていた民兵が、倒れたシーアに声をかける。
シーアはすぐに立ち上がった。
左肩に刺さった弓矢もそのままに、垂れた左腕からは血が滴る。
「攻撃の手を緩めるな!銃撃せよ!」
そう号令をかけると同時に、右手を上げて川の向こう岸へ降り下ろす。
シーアの号令に民兵達は気勢を上げて応えた。
そして、激しい銃弾がクワイ軍を襲う。
クワイ軍の隊長達の制止も虚しく、クワイ兵達は堪り兼ねて本陣まで走った。
総崩れとなった南方面の部隊の後を追って、シーア達は渡河して前進する。
その先で見たのは、荷馬車の荷台に、まるで売られていく牛や豚のように、手足を縛ったナコンの人々を乗せ、それを最後尾にして退却するクワイ軍の姿であった。
「皆!銃撃を止めて!」
シーアが叫ぶまでもなく、民兵達はその様子を見て、銃を撃つ事も前進する事も出来ずに、ただただ立ち尽くしてしまった。
「卑怯な…」
シーアはそう吐き捨てるように言ってクワイ軍を睨んだ。
そうやってクワイ軍は敗走するも退却時に被害を出さずに済んだ。
ナコンから完全撤退した後、その住民達はその場に遺棄され、新たな悲劇を生んだ。
遅い夕食の後、先を潰した竹の棒を口に突っ込んで、歯を掃除しているシーアの所へ、ガロがやって来た。
心なしか、シーアもガロも落ち込んでいるような面持ちであった。
「シーア様…私の予想に反して、あなたは素人同然の民兵をよく導き勝利された…あなたの言う通りでした。この通り、謝罪いたします」
ガロは腰を曲げ、深く頭を下げた。
シーアは慌てて口をすすぐと、その洗面器から顔を上げてガロに向き合った。
「いえ、ガロ将軍。謝るのは私の方なのです…」
そう言うと、シーアも深く頭を下げる。
そして、あの川岸での戦いで、何があったのかを自分の言葉で話した。
聞きながらも、ガロはシーアの左肩にぐるぐると巻かれた白い布を見つめる。
「近衛隊として、護衛をもっと増やすべきでした。そうすればその傷も…」
シーアはガロの言葉を制止するかのように、
「それでも矢玉は届きます。ミラを倒したという私の油断が招いた傷です…」
と、言葉をつないで左肩を押さえた。
「それにしてもミラ…あのミツカイは本当によく禁を犯す…」
ガロは愚痴のように、そう言葉を吐き捨てる。
その顔は苦悶の表情であった。
「そうね…彼女もミツカイ、元は普通の少女です。戦場の禁忌など知らないのでは…」
そうミラの弁解のような事を言いながらも、シーアはあの太った色白の娘が、何をしたのかを思い返していた。
そして、微妙な顔をしているガロに向かって、
「…に、しても非情でとても酷い事でしたけど」
と言って少し笑った。
「例え戦場にあっても、善悪の区別は付けるようなにして下さい」
と、説教をしかけたガロも、「と、これはシーア様には無用でしょうが…」と言って微笑み、頭をかいた。




