第九十二話 <泳げる人>
リーエン国、セキという町の東、川を越え、断切山も越えた東方にマルグ軍は砦を築いた。
最初は軍勢を率いて野営をし、そこへ資材を運び込んだ。
短い期間で兵士達は、田畑を耕したり、家を建てたり、防壁を築いたり、堀を掘ったりしていった。
それは、集団移民のようであった。
リーエン国側もそれを分かってはいたが、攻撃することも破壊する事も出来ず、見てみぬふりをするしかなかった。
と、いうのも、以前バート国とリーエン国の国境付近にあったナコンという地方をめぐって、クワイ国との交戦が激化し始めていた為に、東方へ兵士を回す余裕がなかったからだ。
リーエン国が存亡の危機に陥ってまで、虐殺されるナコンの住民達を救ったという情報は、既にこの世界から消えてしまったリーエン国のミツカイ、ケイによって巧みに各国へ伝えられていた。
噂が噂を呼んでリーエン国の評価は上がり、逆にクワイ国の評判は地に落ちた。
数を頼みに戦闘は継続しているのだが、士気は低く、さらに周辺の住民も友好的でないどころか、敵意が剥き出しの状態である。
よって、物資も人数も多いクワイ軍が全く前進できずに、無駄な睨み合いが続いていた。
「今日のところはここまでで引き上げ時では?」
と、筋肉質な男が言う。
「黒いミツカイめ…!」
巨体を揺らしながら、岩落としのミラは歯軋りをした。
朝から夕方まで、主に遠距離でやりあって、向こうの被害は軽微なのに対し、こちらは数十から多いときには百弱くらいの死傷者が出る。
その理由な主は二つ。
一つは、黒いミツカイの恐ろしい力で、クワイ軍からの矢はほとんど届かないという事である。
もう一つは、銃という兵器の力。
これはこちらの攻撃範囲外からも攻撃出来るくらいの威力がある。
つまり、矢が届かないが、弾は届くくらいの重力を、あのミツカイが戦場にかけているのだ。
対策として、全裸の暗殺者を何度か放ったが音沙汰はないし、黒いミツカイはピンピンしている。
「夜襲だな…」
ミラはそう言って立ち上がると、自らの野営転とへ向かった。
筋肉質の男が、唇の上の短いヒゲをなでながらたずねる。
「しかし、また黒いミツカイにあの力を使われては、敵陣にたどり着ける兵士はいないのでは?」
歩くミラは振り返り、
「だろうな…」
と、つぶやいた。
「これから三日間、撃ち込む矢の数を三倍にしろ。二日目は夜通し、ひっきりなしに矢を放つんだ」
「敵陣に届きもしないのに、ですか?」
「あいつを、シーアを疲れさせるんだよ!」
はっとした筋肉男は、少し考えてから、
「それでは矢の数を揃えなければなりません。長引く戦闘で、補給も滞り…」
と弱気な発言をする。
「ならば、ここの住人の持ち物を押収しろ!家からは木材、農具からは鉄が取れるだろ、それで矢を作れ!ついでに矢を作るのもここの住人を徴集して使えばいい!」
ミラは、「ですが…」と反論しようとする男を制して、
「張り倒されたくなきゃ、今すぐやりな!」
と怒鳴った。
「シーア様、ここの住民代表が来ています」
夜、食事を済ませてアクビをするシーアの元に訪れたのは、ナコンの地に住む住民三名であった。
一人は白いヒゲの長い老人で、白くて長い眉、その頭はハゲていた。
老人の右側は白髪混じりの中年の男で、帯剣していたが、シーアを見るとベルトから剣を外して片手で背中に回す。
もう一人は目の間の少し離れた黒い短髪の色黒な初老の女で、こちらはかなり憔悴しきった顔をしていた。
ヒゲの長い老人がゆっくりと口を開く。
「お美しいミツカイ様、どうか私共の頼みを聞いてくだされ」
白い眉の奥の瞳は悲しみにうるんでいた。
バート国の滅亡時、すぐに東へ侵攻したクワイ軍は、ナコンで西侵するリーエン軍とナコン西部でぶつかった。
しかし、リーエンは戦わず、ナコン東部まで引き上げた。
クワイ軍はこの時、リーエン軍を追わず、取り合えずナコンの中部までを支配する。
ところが、クワイ国は旧バート領に新体制を敷くために、元バート国体制下の有力者を次々と処刑し始めた。
それは小さな村の村長一家にまで及ぶ。
その虐殺から逃亡者達は、クワイ国の支配下にならなかった旧バート国領、ナコンに集結する。
クワイ国はリーエン国へナコン東部へ逃げ込んだ政治犯の逮捕送還を要求した。
当時外交にあたっていた紫のミツカイ、霞みのケイは、この要求を二つ返事で拒否し、クワイ国はナコン東部へ侵攻しようと軍を立ち上げた。
ところが、ナコンの中部で住民が蜂起し、リーエン軍を招き入れた。
その運動はナコン地方全体に広がり、ナコンは事実上リーエンの支配下に収まった。
クワイ軍はその時、ナコンへ侵攻せずにナコンの西部で待機していた。
バートの神を殺した赤いミツカイ、炎のジルが死に、混乱と住民の蜂起がある程度終息へ向かった今、クワイ軍の東部侵攻が始まった。
ところが、住民の抵抗は凄まじく、誰もクワイ軍に協力的な者はいない。
住民の方も、接収や暴行を繰り返すクワイ軍に不満が爆発しそうなところで、さらに今回、東部侵攻の司令官ミラが家を壊し、田植えの季節に農具を押収し、労働力までも提供するように要求し、強制的に物と人をさらっていった。
「秋の収穫どころか、明日の生活すら困る者が出て、今我らは困窮しています…」
老人の話が終わると、その隣で涙を拭っていた初老の女は、
「シーア様、今すぐナコン西部へ出陣し、ただちにクワイ軍を征伐なさって下さい…リーエンの進軍に合わせて、我々も蜂起する覚悟です…」
それを聞いたシーアは立ち上がると、涙ぐむ女の傍にひざまずいた。
そして、手をとって真っ直ぐに厳しい瞳で見つめる。
「あなた方の苦痛は千言万語でも語り尽くせない程のものでしょう…」
シーアの言葉に、白髪の老人も、この初老の女も涙を禁じ得なかった。
シーアはさらに続ける。
「しかし、泳げない人々に、サメのいる海を泳いで向こう岸へ渡れと言えるでしょうか?」
意外な質問に、女はきょとんとしてシーアを見つめ返した。
「私は、泳ぎの訓練をしていない人々に、泳いで海峡を渡れなどとは言えません」
シーアは力強い瞳でそう言うと、握りしめた手に力をこめた。
「くれぐれも、無謀な真似はしないで下さい。あなた方は大切なリーエンの民となったのです。一人一人が私達の仲間なのですから…」
その言葉を聞いて泣き崩れる色黒な女は、感謝の言葉を何度も繰り返した。
「それでは、御出陣して下さると…」
白いヒゲの老人は、すがるような目で黒のミツカイを見つめる。
「日時は確約できませんが必ず」
シーアの言葉に、満足した三人は、感謝の言葉を何度も繰り返して帰って行った。
「いつ御出陣なさいますか、シーア様?」
三人を見送った直後、師団長のガロという男がたずねる。
彼は、リーエン国の第五師団長で、西の防備にあたっていた。
第五師団は、今回のナコン事件において、ナコン東部へ侵攻した中核の部隊であった。
シーアは涼しい顔でまた席に戻ると、一口お茶を飲んでから、
「今の住民の様子ならば、一番いいのは再来年だな」
とさらっと答えた。
驚くガロの顔を尻目に、シーアはまたお茶を飲んでから続けた。
「だが、クワイ軍の方が待ってくれない。せめて住民が蜂起して戦ってくれていれば、楽になるのだがなぁ?」
「シーア様、どういう…?」
呆気に取られるガロに、シーアは説明した。
リーエン国が占領したナコンの東部中部は、統治初年の税や、労働、徴兵といった賦役を免除するという措置を取っている。
これは、ケイがナコンの有力者と交わした約束であった。
その約束が余計に、ナコンの西部での反乱を煽った傾向がある。
それほどに、クワイ国の統治は厳しいものだったのだ。
前回の住民蜂起は自然発生したものであった。
リーエン軍はそれに乗じて中部まで手に入れた。
だが、今回は蜂起する前に、ワザワザ危険を犯してまでリーエン陣営に助けを求めに来た。
「どういう事だと思う?」
シーアはガロに鋭い視線を向けた。
「それほどまでにリーエン国に統治してほしいのでは?」
その答えに、シーアは不満げに頭を振った。
「違う。どうしてもリーエンに統治して欲しいなら自ら血路を開いてリーエン軍を招き入れればいい。それだとリーエン軍は無傷だし、後からクワイ軍が襲って来ても追い返せる可能性が高くなる。現に前回はそうしたのだ。しかし、今回はそうしなかった…」
「なるほど…」
ガロは納得した。
「つまり、ナコンの住民は我らリーエン軍を試している、と?」
「うーん」と、うなりながら胸の前で両腕を組んだシーアは、
「我々の出方をうかがっているか、本当に戦える力がないかのどちらかだろうな…」
と、つぶやいた。
「しかしいずれにせよ、物資の接収を行い、労働力を狩って武器を作っているという事は、近く大攻勢をかける気なのだろう」
「では、その前に攻め込まれるつもりで?」
ガロはたずねる。
シーアはうなずきながら、
「泳げる人間が海を泳ぐのよ、泳げない人々でなく、ね…」
と答えて、寂しく笑った。




