第八十一話 <丘を目指して>
遥か東の空が微かに白み始め、赤い太陽が低い位置から闇をかき消していく。
生き物たちが動き始める新しい日がやって来る。
青黒い鎧兜、黒い三日月を額に戴いたシーアは、第三師団の先頭を行く。
夜明け前から行進して、流され橋を渡り、明け方にはトウム川の東の丘まで接近した。
「ここまでは順調です…流され橋で攻撃を受けるかと思いましたが…」
軍勢を整列させている間に、カン将軍は納得できないという顔でシーアに話し掛ける。
これで渡河の為に用意した計画はおじゃんになった。
「サーヤとは、策を弄する相手ではないが、そこまで鈍くはない…はず、か…」
シーアは眉を潜めたまま小高い丘を睨む。
明るくなったとはいえ、低い太陽の陽が届かず、目の前の斜面は影になっている。
その影には所々に、篝火や松明の灯りが見える。
マルグ軍にとってはまだ闇の中である。
夜中に出てまだ影の中にある明け方に開戦する。
これはシーアを黒のミツカイとしか認知していない敵軍に、精神的な圧力をかけるためである。
さらに、ワザワザそうする事で、黒のミツカイの力を誤解させる狙いもある。
カン将軍はだいたい陣形が整ったのを確認して、
「シーア様、号令を…」
と声をかけた。
シーアは、後ろの四騎が牽いてきた台車と馬を繋ぐ馬具を外すよう指示し、その台車の後輪も外させた。
ガタン
と鈍く大きな音とともに台車が傾き、その上に乗っている、おおよそ人が振れないような大剣も傾いた。
それで、騎馬しているシーアの胸の高さに剣の柄の部分が、ちょうど突出する。
シーアは青い瞳を黒く光らせた。
朝日を浴びる全身から、黒い湯気のような煙がうっすらと立ち込める。
そのまま馬を進め、巨大な剣の柄を左手で握った。
そして、その剣を軽々と持ち上げ、垂直に振り上げる。
細い左腕だけで簡単に上がった大剣は、朝日を浴びて灰色の刀身を輝かせた。
キラリと眼を射すその光を眩しそうに見ながら、リーエン軍兵士は気勢を上げた。
「私は!」
シーアが整列しているリーエン軍全員にそう叫ぶと、リーエンの軍勢はたちまち、しんと静まった。
「この世に降ろされ、何を成すべきかまだ分からない!」
そう叫ぶシーアの声はリーエン軍をどよめかせる。
「だが、皆の成す事は明確だ!この美しい国を守り、この国に暮らす人々を守る!そうだろう!」
シーアの言葉に、静まっていたリーエン軍は、
「おう!」
「その通り!」
「ミツカイ様!」
と声を上げる。
「しかし!これまではあの金のミツカイに好き勝手されている!皆の力はそんなものか!」
兵士達は険しい顔になった。
それを見て、ブン!と剣を振って切っ先を兵士達に向けたシーアは、
「目を閉じろ!」
と号令する。
そしてなおも思いの丈を叫んだ。
「国を守っていた水龍は天に帰り、敵の目を眩ませていた霞は消え去った!東側の領土は敵国に切り取られている!それらは全部リーエンの兵士達がふがいないからだ!想像しろ、エミーの傷みを!慮れ、ケイの無念を!そして、共に死んだ多くの戦友たちの想いを想像しろ!」
暫く、無音の時間が過ぎた。
早朝の、冷たく澱みない空気がピンと張り詰めている。
そんな中、リーエン軍の兵士達の中には、肩を震わせている者も、嗚咽を漏らす者もあった。
彼等の中には、マルグ軍の侵攻で親兄弟や恋人を亡くした者もいる。
「私は!エミーに銃を教えてもらいたかった!ケイに、この世界へ降ろしてくれたお礼を言いたかった!」
兵士の中にむせび泣く者も現れた。
カン将軍は、戦前にこれだけ士気を下げてどうしたものか、と心配していた。
サーヤの首級を挙げた者は報酬が思いのままだとか、勝って首都キヨトへ凱旋しようとか、そういう景気のいい話ではない。
全軍の意気が、放って置いた味噌汁のように沈殿してしまっている。
目を閉じ、沈痛な面持ちの兵士達に、シーアは命令する。
「刮目!」
目を開いた兵士達の涙が頬をつたう。
涙のない者も、痛々しく暗い顔をしていた。
シーアは巨大な剣を後ろへ振り、切っ先で丘の上を指して叫んだ。
「あの丘だ!あの丘に、我等を引き裂き、平和を喰らった化物がいる!皆の幸せも、誇りも奪った憎き敵だ!」
兵士達の目の色が変わり、彼らの悲しみは憎しみとなって、丘に陣取る侵略者を睨み付けた。
「奴等は、平和に暮らす人々を不幸にし、リーエンの神聖な領土を踏みにじった!そして、我等の友を沢山殺したのだ!」
痛々しく暗い顔は、怒りと悲しみを湛え、その感情が今にも溢れ出しそうであった。
「怒れ!奴等に我等の怒りをぶつけよ!奴等に殺された者達の無念を撃ち込んでやれ!」
シーアの叫びは兵士達の心に憎しみと怒りの炎を燃え上がらせた。
哀れみや悲しみが憎悪や憤怒に一変し、彼らの口から咆哮となって沸き上がる。
「全軍突撃!奴等をあの山から追い落とせ!」
シーアのこの号令で、リーエン軍の兵士達が全員が、全身から黒い煙を上げているような気焔を発し、マルグ軍の左軍に突撃を開始した。
「サーヤ様!来ました!」
マルグ軍本陣のテントに転がり込む伝令兵。
それを聞いたサーヤは、椅子を蹴って立ち上がった。
「よし!戦闘開始だ!」
サーヤがそう指示すると、隊長達がパラパラと席を立ってテントから出ていく。
残ったのは、伝令隊長とハラルド、それに、マントを羽織って片膝をついた三名の兵士であった。
サーヤは銃を取ると、その片膝をついている三名の兵士達を見下ろした。
「暗殺はこの銃を使え。失敗したらそのマントも脱いで、全裸で飛びかかれ。いいな?」
その三名は深い緑色に茶色や薄緑の模様が入ったマントを羽織っていて、中は何も着ていない。
ミツカイから直の命令を受けた三名は、いい返事をしてテントを後にする。
それを見送ったサーヤは、伝令隊長に、
「くれぐれも右軍の状況は細かく報告しろ」
と念を押してテントを出た。
リーエン軍の兵士の達は、銃を抱えながら走る。
息が上がって来た頃、目の前にマルグ軍の左軍一千が現れた。
鉄の盾と竹の束で銃弾を警戒している。
まず、マルグ陣営から弓矢の洗礼が浴びせられる。
シーアは、弓の飛んでいる方向に右手を突き出す。
同時に、シーアの瞳は一段と黒く光り、全身から黒い煙が立ち上る。
すると、矢はそのままリーエン軍を追い越して、風に流されてあさっての方向へ飛び去っていってから、パラパラと地面に突き刺さった。
それでも、幾つかの矢はリーエン軍の兵士達を貫く。
「気勢を上げよ!」
「怒りを叫べ!」
隊長達が次々にそう命令すると、兵士達は恨みを込めた咆哮を放つ。
弓矢が外れたという事は、リーエン軍は物凄い速さで行進しているという事だと普通は思う。
さらに口々に発せられる咆哮。
その憎悪はマルグ左軍を怖じけさせた。
「こちらも気勢を上げ返せ!」
マルグ軍に檄が飛ぶ。
しかし、虚しく響いた声は、雰囲気を覆すに至らなかった。
マルグ軍は押され気味の劣勢を耐えるべく、竹や鉄の盾の後ろに隠れて身を固めた。
そこへ、リーエン軍の銃弾が襲いかかる。
銃の援護を受けながら近付き、盾を破壊し、内側からの銃撃。
マルグ左軍は瞬く間に劣勢を強いられた。
「リーエン軍三千、左軍と交戦!」
次いでサーヤの元に駆て来た伝令兵は、
「左軍劣勢!」
と叫び、次いで入れ代わりに入って来た兵は、
「リーエン軍の勢い凄まじく、止まりません!」
と報告する。
報せを聞き流しながら、隣にいるハラルドにサーヤはたずねる。
「今、弓矢が外れたような?」
眼下で戦っているそれを指差しながら、サーヤはすこし頭をひねった。
「リーエンの奴等、凄い速度で走って来たのか、それとも…風に流されたのかと…」
ハラルドはそう返しながらも少し奇妙な顔をしていた。
「矢が風であんなに流されたのなら、丘の上の私達も飛ばされてるぞ?」
と、不機嫌そうな顔でサーヤが言い返す。
「では…サーヤ様のおっしゃる通りなのですね…」
小男はそう言って頭をかいた。
「だろうな…あの黒いミツカイは、物質の重さを変えられるんだ。手も触れずに、な。矢を紙の様に軽くした。だから予想以上に飛んで行った…」
サーヤはそうつぶやきながら、親指の爪を噛んだ。
そして、遠くに見える黒いミツカイを睨み付ける。
「アイツを何とかしない限り、この戦は負けるぞ…」
それをあざとく聞き取ったハラルドが、
「例の作戦は中止で?」
ときいた。
爪を噛んだまま、サーヤは「チッ」と舌を鳴らして悪態をついてから、
「強行しろ、でなければ全滅かも知れん…」
とうなった。
「どういう事だ?」
騎馬のシーアは、左手に持った巨大な剣を左肩に担いでカン将軍に問う。
「すぐに敵は全滅ですな…一時はどうなることかと思いましたが、凄い士気です!」
少し興奮気味のカン将軍は、シーアの問いには答えていない。
それで、シーアは眉を潜めてもう一度問う。
「左軍とは攻撃の部隊…そう言ってなかったか?」
カン将軍は細かくうなずきながら、
「ええ、そうです。左利きのあなた同様、軍は左の部隊の方が攻撃し易いのです」
と答える。
「では、あの左軍は何だ?あれでは身を固めたアルマジロじゃないか!」
シーアはそう言って剣を振って、切っ先を前へ突きだした。
そこには、竹と鉄の盾を持って銃撃に耐えるマルグ兵達がいた。
その時、
「シーア様!カン将軍!」
と、叫びながら、白地に墨色の鷲の紋章が描かれた旗を背負った兵士が馬を走らせて来る。
リーエン軍の伝令兵である。
伝令兵は走り寄るなり、
「マルグの右軍が丘を上りました!」
と伝える。
「右軍が本隊に帰ったという事か?!」
カン将軍がきき返す。
「それが…本隊が一千づつの三隊に分かれ、山を下りこちらへ向かってきます!」
と伝令兵が続けた。
伝令兵の言っている事はつまり、右軍が丘の上に戻って本陣を守り、本隊三千が一千づつに分かれて、正面、右手、左手の三方から取り囲もうというのであろう。
目の前には、倒せそうでいて守りを固めている為に討ち果たせない餌が用意されている。
先ほどの演説と、その後の突撃でリーエン軍兵士達の突破力は凄まじい。
しかし、この状況では突破してしまうと、今度は前後からの挟み撃ちに合う。
かと言って、左軍一千を撃破できそうな事態になっている今、士気の高い兵士達を一時撤退させるのは至難の業であろう。
あの演説後の突撃というのも相まって、兵士達が素直に退却するとは思えない。
「このままでは不味いな…」
シーアは涼しい顔をしてそうつぶやいた。




