第七十八話 <投了前の一手>
フラン軍第一師団は翌日朝早くに戦場を離脱した。
後軍から順に退却し、朝食前には前線の部隊も退却した。
隊列の最後尾は大ブリュノが務める。
退却にあたり、その大ブリュノは自身の部下達にこう言った。
「最後尾は一番大変だ。しかし我等が敵を通せば、我等の天使に危害が及ぶ。少し痛い目を見ても、後で天使の祝福を受けられる。痛みを惜しむな!」
その頃、エリーゼから頬にキスを受けた青年兵士の噂は全軍に広まっていた。
その張本人がいる大ブリュノの部隊では、それが噂ではなく現実として知れ渡っている。
さらにこの隊長の言葉で、最後尾という不幸に少し暗くなっていた大ブリュノ隊は一気に活気付いた。
戦場で退却時の最後尾というのはとても過酷な位置である。
追撃する敵は逃げる相手を背中から攻撃できる。
目が前に付いている人間は、当然背後からの攻撃に弱い。
その背後を敵に晒しながら走り続けなければならないのだから、当然肉体的にも精神的にも相当応える。
そんな最後尾の部隊がこうやって活気付くことなど、そうそうある事ではない。
「キスの力は偉大だ…」
大ブリュノはそうつぶやいた。
「ヤツラ逃げるぞ!」
リンダは妙にはしゃぎながら、ジャンにそう叫んだ。
顔が近いせいで、リンダの唾がジャンの顔にかかった。
ポード軍第五師団副長のジャンは、その唾を拭いながら、「追撃の命令を?」とたずねる。
「勝った…あのフラン軍に…」
ジャンの質問が聞こえていないかの如くリンダは喜んでいた。
「どのみち数日以内に、首都ロンドから五千、港町セゲロから三千が援軍として到着します。そうすればヤツラに勝ち目はなかったのです。退却が早まっただけかと」
レーリンの死を知ったジャンは急いで首都ロンドへ帰り、今は攻め時だと援軍の要請、ポード軍はとにかく兵をかき集めて援軍を出すことを決定した。
その援軍は早ければ明日にでもこの戦場へ到着するとの事だ。
それから大攻勢をかけようとしていた矢先のフラン軍の退却である。
こちらの動きが読まれていたのか、はたまた内通者や密偵がいるのか。それともただの偶然か。
「援軍の到着前に勝ったんだ…やったな!」
リンダは嬉しそうに両手を握り締め、胸の前に何かを抱きかかえているかのような格好でテントの中をウロウロしている。
対照的に、ジャンは少し納得できないようであった。
「タイミングが良すぎませんか?増援が明日にも到着しようかというこの時期に…」
それに対し、リンダはニコニコしながら言う。
「それなら援軍を知った時に退却しているさ。多分、フラン軍の退くタイミングと重なっただけよ」
ジャンは、指揮官がこれじゃあしょうがない、と思いながらも、リンダが直感でそう言うなら違いないのだろうとも思っていた。
「それで、追撃なさいますか?」
と改めて聞く。
「当たり前だ!こっちは数百人はやられてる。二度とここまで来れないくらいの打撃は与えたい…」
そしてふと、「それに…」とつぶやいて言葉を続けた。
「それに、雪が帰って来る前に、ネストは取り返しておきたいだろ?」
追う方のポード軍は、テントを片付ける事も荷物もまとめる事もせずに兵士を参集して追撃態勢に入る。
片付けや荷物のまとめなんかは、後から来る補給部隊がゆっくりやればいい。
それよりも今は追いかけてフラン軍を減らす事が先決である。
ポード軍は隊列を整え次第にすぐに追走を始めた。
そんなポード軍の動きは、後方の伝令から逐一報告が入る。
「とりあえず後方の事は考えずに急ぐわよ!」
言葉とは裏腹に、エリーゼが後ろを気にしながらそう叫んだ。
馬の背で首をしきりに後ろへ回す。
「エリーゼさん、ここから少し行けば分かれ道に出ます。そこを南側へ向かって下さい!」
並走するヒーナがそう言うと、エリーゼは素直にうなずいた。
「悔しいけれど、戦場での指揮はあなたの方が上よ。任せるわ…」
そうつぶやいた言葉は、多くの馬蹄の喧騒にかき消された。
「南が砂糖楓の並木です!あとは手筈通りに!」
ヒーナはエリーゼにそう叫ぶと馬足を早め、ベッヘル隊百名と共に先頭へ上がって行った。
「くれぐれも罠にハマらない様に伝えなさい!そこにいるフラン兵の指示に従うのよ!」
エリーゼの指示で蜻蛉兵達が飛び立つ。
いよいよ、逃走する隊列は分かれ道を南へ走り、砂糖楓の並木道に入った。
道幅は十から二十メートルはあろうか。
左右には背の高い楓の樹が立ち並び、普段なら爽やかな風が吹き抜けそうな美しい景色である。
西はネストの町へ、東はミュルエル湖へつながるこの道は、砂糖楓から出る樹液を運ぶ為に整備されている。
この樹液でメイプルシロップを作り、ポード国のこの地の生産量で世界のほとんどの消費を補っている。
東のミュルエル湖の方が地形的に少し高く、西のネストの方が少し低い為に、緩い傾斜になっている。
ここで採集した樹液を乗せた馬車は、少しの傾斜を上ってミュルエル湖近くにある工場へ行き、そこでシロップを作って、一部はまたこの道を下ってネストの町から流通する。
その道は硬く固められた薄茶色の道である。
だが、逃走するフラン軍が差し掛かった時は、道の半分以上の大きさの濃い茶色の箇所が、何かの模様のように十メートルくらいの間隔で左右交互に並んでいた。
セルド隊の兵士達が、その四角くて濃い茶色の地面の前に十名づつくらい並んで居て、ヒーナが駆け抜けると、
「ここが落とし穴です!避けてお通り下さい!」
と叫んだ。
それにヒーナはニッコリと笑うと、その道の濃い茶色の四角を避けるようにジグザグに走り抜ける。
「急に遅くなったな…」
馬の手綱を引っ張りながらリンダはつぶやいた。
「前方がつっかえてるんでしょうが…」
ジャンはそう言いながら後ろを振り返った。
「さっきの分かれ道で何か細工をするかと思いきや、全く無しですか…」
そんなジャンの心配を他所に、リンダは少し嬉しそうに、
「エリーゼの戦い方を見るに、今までそんな、ちまちました計略はなかっただろ?」
と言いながらもう一度手綱を引っ張る。
「この先は楓の林です…伏兵の心配があります。偵察させましょう」
そう言うとジャンは伝令兵に指示した。
「確かに…何か嫌な臭いがする…」
リンダはそう言うと馬の背をまさぐった。
そこにひっかけていた白いターバンのような兜をかぶり、前方の兵士達を押し退けて前へ行こうとする。
「何をしに?!」
ジャンは思わずたずねた。
「何かある…あと、後ろから何か来る…」
リンダはそばかすの散らした顔を歪めた。
「背後から伏兵?!」
ジャンが振り返ってみるが、後続には自軍の兵士がいるだけである。
「後ろから来るのは、そんな嫌なモンじゃない…」
そう言いながら兵を掻き分けて前を睨むリンダの視線の先には、十メートル以上は有ろうかという広い幅の道を、茶色の土の部分を避けるようにジグザグに進むフラン軍がいた。
兵士達が戦う怒声の合間から、かすかに、「土の色の違う部分は踏むな!罠にはまって死ぬぞ!」という声が聞こえる。
それを見たジャンは笑った。
「明らかに失策ですな。先攻させた部隊に落とし穴でも掘らせたんだろうが…ここで渋滞し、しかも罠で自分の首を絞めている…」
ジャンと共に失笑する伝令隊長がたずねる。
「リンダ様、あの茶色の部分はどうやら落とし穴ですな…それを避けて追撃しますか?」
リンダはふと、
「あんなにワザとらしく宣伝してるのは怪しいな…本当に落とし穴か…?」
とつぶやいた。
その時、押し合いになっているフラン兵士達が濃い茶色の土の穴の上に乗ってしまい、濃い色の土は崩れ大きな穴が開いた。
「あいつら…いや、エリーゼは本物の馬鹿だろう!」
ジャンは堪えきれずに大笑いした。
「こんなマヌケと戦って、もっと早く勝てなかった自分が情けない…」
そう嘆くジャンは、また大きな声を上げて笑っていた。
対照的にリンダは厳しい表情をしたままであった。
「その手前にいる、アイツは笑えないぞ…」
リンダの睨み付ける視線の先には、大きな鉈のような武器を振り回す大男がいた。
十名弱の兵士達がその大男の背後を守り、それ以外のフラン兵を逃がしている。
「第一師団の中でも勇猛果敢で知られるブリュノ隊長ですな…」
伝令隊長がそう教える。
「ジャン…アイツは私がやる!腕利きを数名寄越してアイツ以外を私に近付かせるな!それと、他の者はどんどん追撃させるんだ!」
そう言うと馬を前に走らせた。
「俺も行きます!」
慌ててそう言うジャンにリンダは、
「ここにいて指揮をしろ!」
と、振り返って叫んだ。
「戦場に女?…白い鎧…空のリンダか…」
そう言いながら、人の身長はあろうかという大鉈を振っているのは、大ブリュノであった。
灰色の鎧には返り血が赤茶色くこびりついている。
この大ブリュノが強いのは、怪力だからのみではない。
鎧といっても胸や腹、足や腕など所々が鉄の板でできているが、その隙間は革を繋ぎ合わせた鎧下だけを着て、全身を覆う鉄の鎧ではないのだ。
その訳は、「身体を護る為に戦場に立つ訳ではなく、敵を殺す為に戦をするのだ」という、何とも攻撃的なもので、大鉈を振るのに邪魔なものをなるべく排除した結果である。
このように動き易さを重視するしたのは、大きな図体に関わらず、彼は身軽に動くからだ。
怪力で尚且つ素早く動き、長い大鉈を繰り出す。
大ブリュノは相当な怪物であった。
近付くリンダに、大ブリュノは腰の短剣を投げる。
雷光のように鋭く正確なその短剣は、リンダの眉間を狙っていた。
リンダは馬を飛び降りてその短剣をかわした。
「せっかちだなぁ…」
そうつぶやきながら、大ブリュノを睨み付ける。
大ブリュノは細い声で、
「騎馬したままの無礼な小娘かと思ったのでな」
と言う。
大きな身体に似合わず、高くて小さな声であった。
「ブリュノ…噂通り可愛い声だな」
そう言って笑うリンダは、その顔を隠すように深く白いフードをかぶった。
そこへ、走り寄ったブリュノは大きな鉈を横に振り抜く。
刃は確実にリンダの首をとらえていた。
そうやって人の首を跳ねる時は、まるで小枝でも刈り取るような手応えを感じるが、今は虚しく空を切るだけ。
リンダの身体は一瞬で霞のように消え、刄が通り過ぎた直後にまた戻る。
鉈が作った風で白いフードが横へ流されて揺れる。
リンダは、両方の腰に刺してる、刃が二十センチくらいの短剣を両手を交差させて抜き放つ。
「声がコンプレックスか?」
そばかすの頬をつり上げてニヤリと笑い、小娘はふっと目の前から消える。
ブリュノは眉をしかめて後ろ足に駆け出す。
案の定、リンダは懐に潜り込もうと前屈みで走り込んでいた。
そこへ鉈が一閃。
リンダは難なく後ろへ飛び退いてかわす。
ブリュノの兜の中の顔が険しくなり、アゴの筋肉がさらに太くなった。
それを見逃さなかったリンダは、土を蹴って前へ飛び込む。
当然、ブリュノは前に踏み出し、切り返した大鉈が戻って来る。
刃の線上にあるリンダの姿は霞のように消え、鉈が過ぎ去ったあと現れて短剣を突きたてる。
ガチン!
ブリュノは、喉元を襲う短剣に合わせて、左腕の籠手でその一撃を防いだ。
直後、再びリンダの姿が消える。
ブリュノは大きく後ろへ飛び退き右手だけで、刃を立てた大鉈を振る。
ブン!
という風の音。
ふわりと現れたリンダは、苦い顔をした。
うちわで扇がれたようなそんな風が起こっては、空気になったリンダは近付けない。
かといって、ブリュノは体格に似合わず機敏な動きをする。これではいずれ一撃を受けてしまうだろう。
「ブリュノ様!ここはもう…」
ブリュノの周りを護る兵士達が悲鳴を上げる。
フラン兵は既に落とし穴の間を縫うように通るジグザグの道へ入り、ブリュノの周りはポード兵で埋め尽くされていた。
その様子に、リンダは何も考えずにまた飛び込んだ。
鉈の刃が迫る。
少女は目を光らせて能力を使い、空気になってかわす。
元に戻った瞬間、顔の前に短剣が飛んできた。
リンダは慌ててまた空気になる。
そこへ、刃を立てた斧を振るブリュノ。
ブオン
という風の音、切り替えしてもう一度。
ブン
そうやってリンダを吹き飛ばしたブリュノは、部下と共に後退した。
去って行くブリュノを見ながら、額の汗をぬぐいながら、
「久々に冷や汗をかいた…」
と、何故か清々しい顔でリンダは笑った。




