第七十三話 <残された者達>
時折、春の強い風が吹く。
湖で冷たく冷やされた突風は、暖かい筈の気温を寒く感じさせる。
風だけでこんなに冷たいのだから、湖上でゆらゆらと波に揺られる水鳥はさぞや寒かろう。
昇ったばかりの陽にキラキラと輝く湖の水は、その見掛けに反して驚く程冷たい。
両手でそれをすくった少女は、冷たさに驚きながら、顔を洗って金髪をとかした。
「おはよう御座います。エリーゼ様、今朝は随分と早いですね…」
湖の側で身支度しているエリーゼに、給事係セレナがそう言って声をかけた。
給仕係はまだ起きたばかりの様で、ボサボサの金髪を急いで束ねながら歩いて来た。
「いいのよ、私が早く起きてしまっただけ…」
そう微笑みかけるエリーゼは少し寂しそうでもある。
そんなエリーゼを見たセレナは暗い顔になった。
「…やっぱり…昨日は眠れませんでしたか…」
それに答えらしいものは何も答えず、エリーゼは湖の波を眺めてこうつぶやいた。
「砦に侵入した敵に、暗殺されたような最後だったとか…」
セレナは、やはりこの人はレーリン様の事で悔やんでおられるのだと実感して、沈痛な顔になった。
エリーゼは独り言の様に続ける。
「これで一時代を築いた四ミツカイは全員帰ったわ…」
湖岸に強い風が吹き付け、遅れて大きな波が打ち寄せる。
「最後の四人目が暗殺のような殺され方だなんて…無念でしょうね…」
エリーゼの、寂しそうな笑みを浮かべた顔は、湖に跳ね返る陽光を受けてキラキラと輝いた。
「彼女は…私が降ろされた時にはもう第一線で活躍していて、色々教えて貰ったわ…」
エリーゼは、フッと何かを思い出して笑った。
「レーリンはケチャップパスタが好きでね。いつも口の回りはケチャップだらけで真っ赤になって…なのに、こっちを指差して『口の回りが真っ赤よ』と言って笑うのよ」
そう言うと、エリーゼは笑い出した。
その笑いは止まらず、お腹を抱えて大笑いする。
笑いながら、だんだんとしゃがみ込み、そのまま泣いていた。
泣き声は、段々と大きくなっていき、しまいには、泣き声で水鳥が逃げる程の大声になり、肩をゆすってしゃくり上げる程の号泣になっていた。
フラン国にたった二人しかミツカイが居なかった長い期間、二人の間にどれくらいの親交があったのか、回りの人間には断片的にしか分からない。
一番近くで見ていたセレナですら、彼女達がやり取りした手紙やお喋りの内容まで全ては知らない。
しかし、敵軍と対峙しているにも関わらず、死の報せを聞いて一日呆けてしまい、眠らないで朝を迎え、こうして誰が居るか分からないような場所で号泣してしまっているエリーゼを見て、セレナは胸が詰まってしまい、何も声をかけられずにいた。
エリーゼはいっこうに泣き止まなかった。
それどころか、今度は暴れ出した。
だだをこねている子供のように「いや!いや!」と叫んで手足をばたつかせ、湖面に石を投げたりしている。
いつの間にか、泣き叫ぶエリーゼの回りには、彼女の指揮下の兵士達が集まっていた。
普段気丈で理知的に振る舞うエリーゼの、そんな態度を見るのは、誰しもが初めてであった。
その沢山の兵士達、何事かと集まって来た隊長達、誰しもが驚き、そしてその理由に思い至って、うつ向いて押し黙った。
エリーゼに声をかけられる者は誰一人としていなかった。
時々吹く春の突風に、涙を飛ばされながら、少女は狂ったように泣き続けた。
第五師団の代理師団長を務めるリンダは、真っ白なフードを背中に放り投げる様にして外し、銀髪をかき上げた。
「お帰りなさいませ、首尾はどうでしたか?」
問い掛けて来たのは伝令隊長のベンという中年である。
鼻の下、唇の上にだけ、もっさりとした茶色の口髭を生やした、神経質そうな細身の男だった。
「今日は風が強い…止めだ…」
リンダのそばかすだらけの顔には、苛立ちと共に悲哀の情も見てとれた。
「風が…ですか…」
ベンはそれが、エリーゼ暗殺中止の理由だとは思っていない。
腑に落ちない態度のベンを置いて、リンダは自分のテントに入る。
直後、顔だけテントの外に出して、
「副長のジャンを呼べ」
と言ってまた引っ込んだ。
テントの中には、タンスやテーブルといった調度品が並び、中央寄りの奥に天幕付きのベッドが二つ並んでいる。
リンダのベッド以外の全ては、雪が使っていたものだ。
ベッドだけは自分の物を運ばせてそこで寝起きしていた。
その隣に雪の物を置いているのは、彼女が何時帰還してもいいように、である。
リンダはテントに入ってから、雪の執務用の大きな背もたれの付いた革の椅子に深く腰掛け、デスクに両足を上げた。
あの、エミュエル湖の南東の湖岸で見た光景が胸をよぎる。
エリーゼは、あんなに激しく泣いていた。
それも、同輩の死を悼んでの事である。
もし雪が死んだら、私はあのような泣き方を出来るだろうか。
いや、逆に、私が死んだら、雪はあの様に泣いてくれるだろうか。
リンダはどうしてもそう考えてしまう。
今まで自分は、命を失う危険のない異世界に降臨し、その能力から暗殺にばかり挑んできた。
苦しかった元の世界に戻った時に、この世界で活躍して願いを叶え、元の世界の苦しみを少しでも減らせるようにと願っての行動である。
しかし、それは本当に正しいのだろうか。
あの様に泣いてくれる同輩を持つ必要、この世界での楽しい思い出など全く必要ない。
殺し殺されて、元の世界に戻った時に、敵国に殺された両親と弟が生き返れば、家族で幸せ暮らせればそれでいい。
ずっとそう思っていた。
しかし、あのエリーゼの姿は、嫌が応にも考えさせられる。
そのミツカイの力から、人の死には誰よりも多く関わり、最期を看取ってきたであろう。
そのミツカイが、同い年くらいの少女が、大勢の部下の前であの様に取り乱す。
それくらい大切な人を、その深い関係を、元々縁も所縁もない、強制的に降ろされたこの世界で作ったという事だ。
自分が居なくなった後も、この世界の人々の生活は脈絡と続く。
その永久とも思える人の営みの中で、コチラの意志とは関係なくとはいえ、選ばれて特殊な力を持って呼び寄せられた。
それが幸運な事なのだろう。
なら、ここでの生を十分に満喫し、楽しみ、悩み、苦しみ、何より人を慈しむべきなのだろうか。
リンダは答えの出ない思考に入った。
これはミツカイ全員に課せられたテーマなのかも知れない。
自分の気持ちに正直になったとすれば、エリーゼとレーリンの仲を羨ましいと思ったのは隠しきれない事実である。
だからといって、それがミツカイの取るべき行動かと問われれば、正解であるなどとは到底言えない。
取り乱して泣いている所を討ち取れば、案外簡単だったかも知れない。
リンダは久し振りに、頭から煙を吹き出しそうなくらい悩み考えていた。
その時、
「お呼びでしょうか?」
と声をかけて、テントの中にジャンが入って来た。
「副長…いや、実質的な師団長。私がエリーゼを殺るという作戦、あれは白紙に戻して欲しい…」
リンダはデスクから足を下ろしながらそう言って、髪の毛をかきむしった。
背の高いジャンはそんな様子を見下ろしながら、
「…しかし敵の戦略…倒しても倒しても元気になって戻って来る兵士をなんとかしないと…」
と反論をした。
怪我をさせたくらいでは、すぐに前線に戻って来る兵士達は、数で劣るポード軍にとっては驚異以外の何物でもない。
穴を掘っては埋められるという作業を繰り返しているようなものである。
それを元から断つ為にエリーゼを殺す計画を立て、こうやって出陣し、わざわざ湖岸という風が吹き抜け易い場所を選んで対陣しているのだ。
「すまない…これは勘なんだが、今アイツを殺したらダメな気がするんだ…」
リンダは本当に困ったような顔をしていた。
「それではよき代案をご提示下さい。我々は命をかけているのですよ…」
ジャンの言うことは尤もであり、リンダの方は理屈も道理も通っていない。
しかし、リンダの顔は、そんな事などとっくに分かっていて、それでも暗殺は中止と言っている様子である。
「代案など、到底提示できない…私は雪じゃないんだ…」
リンダはそばかすを散らした顔を歪めた。
「それでは隊長や兵士達が納得しません」
毅然とそう言い放ったジャンであったが、リンダがどういう人物かも分かっている。
これ以上問答しても無駄だ。
見下ろすようなジャンに対して、怒られている子供のように、姿勢を糺して両手を膝に乗せ、椅子にちょこんと座るリンダは、無駄だと思いながら言い訳をする。
「敵陣に行ったら、レーリンが死んだという話をしていた…エリーゼの落ち込みようといったら、それは…」
「なんですって?!」
そこまで聞いたジャンは叫んだ。
「それは確かですか?!」
驚いたリンダはビクッとなって頬をひきつらせながらも、何度もうなずいた。
「エリーゼの取り乱し方ったら、それはもう…」
と、話を続けようとしたところで、
「作戦会議ですよ、リンダ様!一大事です!」
と叫んで、慌ててテントから飛び出すジャンを、リンダはポカンと口を開けて見送っていた。




