第六十九話 <山の上から>
「なんだこりゃ!」
「空っぽだ…」
「誰もいない!」
苦労して昇ったトモイ山の頂上には、発砲する相手どころか、人っ子一人見当たらない。
マルグ軍の残した、食料、テント、料理そのままに、まるで忽然と人だけが喪失したような有り様であった。
「ケイ様…これは一体…」
痩せた髭男がつぶやく。
ケイと呼ばれた紫鎧の少女が、テントの一つを覗き込んで小首を傾げる。
「逃げたの?」
その時である。
左翼の一軍がにわかに騒がしくなった。
「どうした?!」
と、ケイが叫ぶ。
それとほぼ同時に左翼の一軍も騒がしくなる。
何発も銃声が響く。
戦闘になっている。
ケイは直感した。
「これじゃ…奇襲するつもりが、逆に奇襲を受けている…」
苦々しい顔の少女が厚目の唇を歪めた。
「如何します?このままでは…」
髭の男は焦った顔でケイにたずねた。
「本隊を前へ、右前方のカルイ山へ一度引くわ…」
その言葉を伝令兵達が伝える。
紫鎧の少女は、斜面を下って霧の中のへ入って行った。
道はない。
このトモイ山は山とはいえど、急な崖は少ない。
しかし、なだらかな斜面とも言えない、ともすれば転げ落ちそうな斜面を、部下の乗った足の太い馬が跳びながら駆け下りる。
ケイはその後ろから、立ち木を掴み掴み、おぼつかない足取りで斜面を走って下っていった。
歩兵隊がその後を続く。
暫くすると視界が白く濁り、見通しが全くきかなかくなった。
いくつもの銃声が聞こえるが、山の上からのものか、先程駆け下りた部下の発した物か分からない。
大きくも聞こえるし、小さくも聞こえる。
沢山の射撃なのか、山々の斜面に反射した一発の音なのかも不確かである。
足取りを確かなものにするために、掴み掴み下りている草木も、十歩以上前が分からない。
駆けて行った馬も、何かにぶつかって転げ、落馬する者もいた。
そんな中、次に抱き付こうとした白い霧から見える立ち木の影が、赤色である事を見て咄嗟に足を踏ん張る。
立ち木ではなく人だ。
しかもコチラを向いている。
その上、手には抜き身の細い剣が光る。
むこうも下り降りる人影を見てとったのか、剣を前に構えた。
ケイの斜面を下る足は止まらない。
ニヤッと笑った赤鎧、赤い兜の少女は、迫り来る紫鎧の少女に剣を突き立てようと腕を伸ばした。
その細い剣が紫鎧を貫く、かと思いきや、ケイの体はその鎧ごとかき消えた。
瞬時に赤鎧の少女サーヤは、はっとして身を屈めた。
パン!
破裂音がして山肌の土が跳ねる。
紫鎧の娘はサーヤの背後、斜面の下側に瞬時に移動して、短銃をサーヤの背から撃ったのだ。
サーヤは咄嗟に屈んでそれを交わし、振り向きざまに剣を振る。
紫鎧の娘の足を剣が一閃、と思いきや、ケイは今度はサーヤの右側、大きな木の幹の下へ、また一瞬で移動していた。
チッと舌を鳴らしたサーヤは、ニヤニヤ笑いながら、
「霞のケイって二つ名だから、この霧はお前が出したのかと思ったぞ…」
と言ってまた剣を構えた。
ケイはしかめっ面で赤鎧の少女を睨み付けながら首を振った。
「私がどう呼ばれようと知った事ではないわ…」
そう言って短銃の銃口はサーヤの方を向けている。
「その短銃は弾切れ…だといいんだが…」
サーヤはそう言いながらも、短銃ではなく、ケイの顔を見つめていた。
「まさか、あの受け答え…。それもこの場に誘い出すための罠なの?」
ケイはゆっくり後退りしながら問う。
「私はあまり演技はしないが…どうだ、楽しめたか?」
サーヤは不敵な笑みを浮かべる。
五日前、マルグ軍七千とリーエン軍四千は、この山岳地帯の東でトーネル川を挟んで対峙していた。
二軍の間を流れるトーネル川は、南から北へ一直線に流れる、幅三十メートル程の急な流れの川である。
対峙して丸一日が経った夜、マルグ軍に四人の使者がやって来た。
墨色の鷲印の旗を背中に差した伝令兵が一人、清閑な服装に軽い革鎧を着て一見好青年である。
一方、後ろに控える三人は背も高くなく、黒い装束で黒いマントで覆われ、深くフードを被り顔も見えない。
好青年を前にした四人は、サーヤの前で深々と礼をして屈んだ。
先頭の青年のみが立ち上がって、
「休戦の申し出をしに来ました…」
と話し始める。
サーヤは思わずぐっと息を飲んだが、明らかに不快な顔であった。
「トーネル川以東は差し上げましょう」
使者の青年はそう言うと、サーヤをじっと見据えた。
背もたれの高い椅子に深く腰掛け、足を組んでいたサーヤは、無表情になってアゴを突き出して立ち上がる。
手のひらを上に向けて前に出し、人差し指と中指を曲げては伸ばし、伸ばしてはまた曲げて、使者の青年を呼んだ。
青年はニコリと微笑んで二、三歩前に出たが、さらにサーヤは指を曲げ伸ばしして二枚目を近くへ招いた。
あと一歩の距離まで青年が近付いたところで、サーヤは青年の開いた胸元、鎧の首元に指を掛けて引き寄せる。
青年がふらふらと近付いて来ると、サーヤは腰を曲げ、青年の顔にぐいっと顔を寄せ、耳元で囁いた。
「私が欲しいのはリーエンの命だ。それがこの川の東側で手に入るのか?」
青年はビクリとして背筋を伸ばす。
顔は微笑んだままだったが、額から一筋の冷や汗が流れ落ちる。
少し沈黙した青年は、意を決したように息を吸い込むと、
「お前達ゴキブリのごときマルグ軍に与える物など川の東側で十分だ!」
と叫んだ。
サーヤが眉をしかめ、間近で青年の端正な顔を見つめる。
それにめげず、ぐっと咽を鳴らしてから好青年は続ける。
「特に、…思い上がったマルグ軍の総大将、黄金のサーヤとかいうメスゴキブリには人としての言葉が通じるのかさえ…」
青年の言葉はそこで途切れ、代わりに頬を打つ乾いた音がテント内に響いた。
左の頬を押さえながら、涙目の青年は続ける。
「そのミツカイの周りをチョロチョロするハラルドとかいう小ゴキブリは知恵も浅く、他のゴキブリに取り入ってそのフンを喰うくらいしか能がない。その周りも偉そうな髭だけのボンクラ、その髭はゴキブリの触角より役に立たない!」
青年は上擦った声で、ほぼ叫ぶようにそう言いながらガタガタと震えていた。
「そんなゴキブリ以下のマルグ軍にトーネル川以東を差し出そうという、我等の慈悲深い精神を称え、害虫は二度と顔を見せるな!」
恐ろしい程眉間にシワを寄せたサーヤは、周囲が殺気立つ中、どかっと椅子に腰を下ろして足を組んだ。
右手を手のひらを上にして横に出し、給仕係の少年から陶器のキセルを受け取ると、一服煙を吹いた。
「後ろの三人は何だ?」
サーヤはゆっくりとした口調できく。
好青年は冷や汗を垂らし、震えて何も答えられない。
サーヤはゆっくりと立ち上がり、腰を曲げて青年の顔に近付くと、ふうっと顔に煙を吹き付けて囁いた。
「後ろの三人も、殺してしまっていいのかときいているのだが?」
青年はビクッとして、顔が青ざめる。
「…う…後ろの三名様は…私の成り行きを見守る為の…」
そこまで聞いて、サーヤは「ふーん」とうなずくと、
「じゃあ殺せないわねぇ…」
とつぶやいて口角を上げた。
「ではこの伝令のまぬけ野郎は殺してよろしいですか?」
ハラルドがたずねる。
サーヤは冷たい目でじっくりと青年を見つめながら、
「そんな事をしたら、マルグ軍は余計に野蛮なゴキブリ野郎と言われるぞ?」
と言った。
「後ろは使者の脳ミソだ、何もするな。その男は…殺さない程度で丁重にオモテナシして差し上げろ!」
そう言って陶器のキセルの先を青年の首の付け根に押し当てた。
ぎゃ!
と、好青年は転がりながら叫ぶ。
「おいおい、これくらいで何だ。もっと痛いのがこれから待ってるのに…」
薄ら笑いを浮かべたサーヤの、そんな言葉も届かないだろう。
真っ青な顔で冷や汗を流した好青年は、サーヤの周囲のギラギラした目の隊長達に脇を抱えられ、テントから連れ出された。
それで、不気味な三人の黒い装束もテントから退出する。
サーヤは再び椅子に腰を下ろし、足を組んだ。
そしてキセルを吹かす。
暫くすると、テントから大笑いする少女の声が漏れた。
その後、好青年は命だけあるという状態でリーエン軍に返された。
髪の毛はまばらに禿げ、顔といわず身体中アザだらけで、歩くのに必要な骨以外は折られていたという。
直後、リーエン軍はトーネル川沿いの陣を放棄して西へ遁走し、南の山奥へ退いた。
サーヤが目指すのはその西にある、リーエン国の首都キヨトである。
ならばどうせ、川を渡ってそこは通らねばならない。
然るに、南方の山岳地帯のリーエン軍四千を放置すると、西進した際に背後を襲われるだろう。
さらにあの使者の口上が問題であった。
休戦などと最初に口走っておきながら、その直後、マルグ軍をゴキブリ呼ばわりして挑発した。
その口上を考えたのは霞のケイというリーエンのミツカイであろう。
そのミツカイは、ミツカイでありながら外交や内政に長け、軍などはついぞ率いていなかった。
普通そこから考えられるケイというミツカイの性格は「臆病者」で、虚勢を張っていると見るであろう。
だが、その普通の印象をサーヤは感じなかったのだ。
好青年とのやり取りの最中、背後の黒づくめの三人の中の一人から、常にサーヤに注がれる鋭い視線を感じていた。
観察しているかのような、殺気はないが、同じような熱心さを感じる視線。
それがサーヤの直感を刺激していた。
この黒づくめ一人はケイというミツカイで、彼女は臆病者などではない。
そう思わせておいて、何かを狙っているのだと。
「分かっててあの山に行くんですかい?」
南に行軍指示を出したサーヤに、ハラルドはそう言って不可解な顔をする。
しかし当のサーヤは、
「お前はあんな事を言われて怒ってはいないのか?」
と、なかば楽しそうな顔で答える。
そこまでして山岳地帯へ誘い出したいというのだから、乗ってあげなければ可哀想だ。
それに、何があるのか、何をするつもりなのかを見てみたい。
山岳地帯に進軍したマルグ軍は、カルイ山に布陣している敵を見下ろす事ができるトモイ山に布陣した。
そして、朝霧の中、両軍は激突する事になったのである。




