第六十八話 <朝霧の中>
朝靄の中に混じった炊事の煙を見付ける事は不可能だ。
白と白の中に白の境目はない。
そんな白い霧の海の上に頭だけを出す山々が幾つか見える。
この山々の存在を誇張する為に朝靄が出ているようにも見えるし、反対に、山を消そうと霞が集まり一寸先も見えないようにしているのかも知れない。
マルグ軍は高い山の一つに陣取り、朝霧を見下ろしながら朝食を済ませた。
そのマルグ軍を率いるサーヤは、赤い派手な鎧を着て食後の一服をしていた。
この世界の煙草はキツイのだがとても香り豊かである。
甘くて脳ミソがとろけるようなその煙もまた白い。
この陶器のキセルから出る煙もまた、山を降り、眼下に広がる霧を作っているのではないか、このまま煙を吐いていてはずっと霧が濃いままなのではないか、という錯覚さえも覚える。
この霧の中の何処かにリーエン軍がいる。
昨日の夜まではマルグ軍が陣取る山の、左前の山の麓に居た。
霧のせいで、今もそこにいるのか、居ないのかはわからない。
硬い革の鎧を着た小男が黒いマントをひきずりながら、眼下の白い雲海のような霧を眺めている赤い少女の背中まで歩いてきて声をかけた。
「サーヤ様、朝食はお気に召しませんでしたか?」
顔を横に向け、左の肩越しに小男を見たサーヤは、何も答えずにまた眼下の霧を眺める。
それで小男はサーヤの前まで歩み進んだ。
「また、フランから使いが来まして、その使いがサーヤ様宛のこの手紙を持って来たそうです…」
そう言って差し出した手紙を、サーヤは冷たい眼で一瞥してから、「ん」と声を出した。
右手を伸ばしてキセルを横へ突き出す。
給仕係の少年がそれを受け取ると、その右手で手紙を受け取る。
びりっと封印の蝋の紋章部分を破り、おもむろに手紙を読んだ。
「良き内容が書かれていましたか?」
と、早々にたずねる小男をジロリと睨んで、
「このミツカイとはいつか殺し合いになるだろう。しかもお互いに憎み合ってな…その相手と仲良く文通なんか出来るものか」
と冷たく言い放った。
「では返信はされぬので?」
との言葉に、
「馬鹿を言え。せっかくこのサーヤ様が直々に罠をかけようというのだ。下準備は念入りに、な…」
と言ってニヤニヤ笑う。
少しの後、今度は一転して眉を寄せ、雲海のような霧を睨み付けて、
「リーエン軍が何処にいるか、どうやったら分かる?」
と、小男ハラルドにきいた。
ハラルドは「うーん」と唸ってから、
「斥候を放つにしても、この霧では見付けた時には相手にも見付かるでしょうし、無事に戻っては来れないでしょう…」
と答えた。
「もっとマトモな案を出せるヤツは居ないのか?」
と無愛想に返すサーヤは、手紙を給仕係に渡して、代わりにキセルを受け取った。
「参謀は必要ないとおっしゃったのはサーヤ様でして…」
ハラルドが言い難そうにそう言うと、サーヤは無言でキセルを吸った。
赤い鎧のミツカイは、しばらく山の斜面から湧き出ている霧を眺めていた。
キセルの甘い香りを楽しんでいる様子であったが、一つ咳払いをしてからニヤリと笑った。
そして、
「銃を持って来い」
と命令する。
ハラルドが給仕係の少年が走ろうとするのを制して、自分がマントをひきずりながら走って、銃を取って来た。
リーエン軍から奪った銃を見本にして、マルグ国でもやっと生産が始まったという報せを聞いた。
この銃と大砲があれば、この世界の戦争をひっくり返せる、とサーヤは考えていた。
「その銃で、何をするのですか?」
小男は笑顔できいた。
「二、三発撃ってみるんだ」
と、サーヤが答える。
それでハラルドは、霧の中に目を凝らしながら、
「この霧では敵なんか見えやしないですよ…」
と覗き込む様に首を回した。
「射撃の的は、敵で無くてもかまわない。なんなら、お前を的に二、三発…」
そう言いながら銃を構えるサーヤに、ハラルドは「ひー!」と声を上げて両手で頭を隠してしゃがんだ。
パン!
銃声が山々に響く。
霧の中のにも確実に届いているだろう。
サーヤはニヤニヤ笑いながら、
「私が可愛い部下にそんな事をする女ではないだろう?」
と猫なで声で言う。
それはわからない。
とハラルドは瞬時に思ったが、口に出す事が出来よう筈がなく、ただただ苦笑いした。
「…そ、それで…なぜ銃を?」
とハラルドがきく。
「敵は霧の中、コチラから敵を見えないが、当然、向こうは自分達の姿を見ることも出来ない…」
そう言いながら弾を込めたサーヤは、もう一発、空に向けて銃を放った。
パン!
銃声が霧の中をこだまする。
「銃はリーエン軍に常備され、マルグ軍にはまだない。つまり、何発も銃声が響くと、霧の中、味方の姿も見えない奴等はどう思う?」
また弾を込めながらそう問うサーヤのリドルに、少しだけ考えたハラルドは、
「味方の一部が、敵を見付けて銃を撃っている、と…」
と答えた。
パン!
ともう一発銃を放って、「正解」と言ったサーヤは、ハラルドに微笑んだ。
「ただでさえ味方も見えない霧の中、もしコチラに攻撃しようと画策してれば、焦って攻撃を早めるか、中止命令を出すだろう。逆に、まだ動きもしてなければ、敵襲かと思って守備を固める。余計に動かなくなって、コチラは霧が晴れるまでティータイムだ」
その時、
パン!
と、遠くで乾いた音がした。
サーヤの眉がピクリと動いて、口角が引き上がった。
この銃声はサーヤのではない。
かといって、マルグ軍から発せられるはずは断じてない。
マルグの兵達はまだ銃を持っていないからである。
と、なれば、可能性はただ一つ。
サーヤは片方の眉を上げた顔のまま、
「いたぞ…」
と囁いた。
ハラルドが何か喋ろうと息を吸い込むと、サーヤはその口を手のひらでふさいだ。
その時、
パン!パン!
と連続して銃声が鳴る。
先程の銃声でどこかが突撃を受けたとか、誰かが攻撃されたとかいう報告が来ない。
ならば、この銃声は敵の誤射であろう。
なぜ誤射するのか。
銃声を鳴らした誰かはコチラの何発かの銃声を聞いて誤射した。
となると、その誰かは極限の緊張状態にいるに違いない。
普通にしている時に銃声を聞いたならば、身を隠し、それが本当に銃声か、何処からしたかを確かめようとするものだ。
そうでなく銃を撃ってしまうのは、銃を握って人を撃とうとしている時や、明らかに撃たれるかも知れない状況にいる緊張状態で、先に銃声を聞いた場合に限られるのではないか。
つまり、リーエン軍はこの霧に乗じて奇襲攻撃を仕掛けようとしている。
さらに、この霧はそんなに遅くない時間に晴れる可能性が高い。
一日中霧が出るのなら、朝食後のこんな時間に攻撃を仕掛ける必要はないからだ。
奇襲なら、普通は背面か側面から仕掛けるだろう。
マルグ軍から動きが見えないなら尚更だし、第一、銃声は正面から聞こえなかった。
ハラルドがサーヤの手首を握ってバタバタ暴れながら、考え込む少女に必死に何かを訴えかけている。
「あぁ、すまない…」
そう言うと、サーヤは小男の口から手を放した。
小男は「プハッ」と言いながら空気を吸い込み、ゼーゼーと肩で息をしている。
「ハラルド、静かに伝令兵を呼べ。そして各部隊に、テントや食料、資材はそのままに早急に山を降りろと伝えろ。前方の山のふもとまで急行し、霧の中、斜面が登った所で待機とな。いいか、静かに、早急にだぞ!」
サーヤはそう厳命すると、まだうつむいてゼーハー言っている小男の尻を蹴った。
「早くしろ!」
ハラルドは山の斜面を転がるように駆けて行った。
「どこの部隊が発砲したの?」
黒髪で浅黒い肌の少女がたずねる。
彼女が着ているのは、黒い小さな金属の板を、紫色の太く平たい紐で繋いだ鎧である。
これを見た者は紫の鎧と表現するであろうほど、黒い金属の板は多くの紫の紐で繋がれ、覆われていた。
少女の真っ黒な瞳は、霧の中でも見える程近くに立つ、立派なアゴ髭の男を見つめていた。
この男、アゴ髭だけは立派だが、痩せていて背も低く少女と同じくらいしかない。
いや、少女の背が高いのであろうか。
この少女は周りの男達と同じくらいの身長はあった。
真っ白な霧の中で、小声で話し合うボソボソが聞こえて、
「発砲したのは右翼、カマモの部隊かと…」
と髭の男が答える。
「戦闘に?」
少女がたずねると、
「そうではないかも…」
と髭が答える。
「では何?」
「見張りや斥候を発見して射殺、ではないですかな?」
あやふやな物言いに明らかな不満顔の少女は、眉を吊り上げながら両手のひらを上に向けて肩をすくめた。
「こうなったら仕方ないわ。全軍突撃、トモイ山を占領するわよ!」
少女は元気よくそう命令する。
霧の中、楽隊の太鼓が響き、リーエン軍はトモイ山の斜面を昇った。




