第六十七話 <満天の星空>
二人の少女はが、砦の物見塔の一つに登って周りを見渡した。
空には無数の星が輝き、手入れしたての爪の先のような細い月が浮かんでいる。
大地には暗闇が、冷めたジャガイモのスープのように沈殿していた。
その暗闇の中を蠢くオレンジ色の光。
その松明の灯りが煙を上げてこの砦を取り囲んでいく。
あれがクワイ軍であろうが、どこが本陣だか、どこにジルが居るのかも分からない。
闇を見渡してすぐ、二人のミツカイは足早に塔を降りて、砦の中の会議小屋へ移動した。
「南、東西の門の前は明らかに弓の届かない位置で待機しているわ…」
会議小屋へ着く前から、レーリンがヒーナに向かってそう言った。
村のあちこちには篝火の準備がされ、兵士たちが忙しく動いている。
「北門だけ、少し遠いところまで松明の列が伸びていました…何か意味があると?」
ヒーナが問い返す。
「ある…とすれば、湿地だから隊列が伸びて思うように展開できていないとか、大型の獣が居てそれを警戒している、とか…」
レーリンはそこに、「分からないけど」と付け加えた。
それからしばし無言で歩いて会議小屋へ入った。
中にはすでに、第二師団と第八師団の各隊長が鎧を着込んで勢揃いしていた。
レーリンが真ん中の、ヒーナがその左手の席に座ると、給仕係がコーヒーを用意して座席のサイドテーブルに置いた。
湯気を上げて小さなテーブルに乗るそれをつまみ上げると、レーリンが言う。
「皆さんお疲れ様。敵の狙いはよく分からないわ。そこで、意見を聞きたいの。屈託のない意見を出して下さるかしら?」
レーリンの呼び掛けに第二師団の副長パトリスが答えた。
「防戦の経験深い緑のミツカイ様の眠る時間を狙っての攻撃でしょう。それ以外に考えられません…」
皆が一様にうなずいた。
第二師団で新鋭部隊の隊長を務めるフィンが、
「それとも…敵は今更ながら、砦を囲まないと持久戦に持ち込めないと気付いたとか」
と言って笑顔になった。
「南門も修復しましたし、それほど容易くは入れないでしょう」
白波のロウがそう言ってから、アクビをするのを噛み殺してコーヒーを飲む。
皆笑みを浮かべ、攻め込まれようというのに、穏和な空気が流れた。
しかし、レーリンは不満そうな顔でサイドテーブルにカップを置いた。
「皆、考えが甘くはなくて?」
そして立ち上がり、見上げる全員を見渡した。
「守りきれる、勝てるものと思ってませんか?確かに私たちは連戦連勝しています。それはただ運がいいだけよ。分かっているのかしら?」
ヒーナはレーリンの言葉にうつむいた。
確かに、この砦は守りきれると思っている。
あと一ヶ月もすれば春が訪れ、クワイ軍は退却するであろう。
食料は充分あり、水も武器も充分にある。
何より、フランの西側の命題は、ここでクワイ軍の気を引いておくことだけであり、東のポード国を侵攻中のエリーゼこそがフラン国の本命の作戦部隊なのだから、急いで戦い、必死になって敵を皆殺しにする必要など一切ない。
この少女は、その弛緩した雰囲気に警鐘を鳴らしているのだ。
レーリンは深いため息を吐いて、
「昔話をするわ…手短にするから皆、黙って聞いていて…」
と言って席に座った。
「私の最初の負け戦、それでこのシュルベルの地を失ったのです。今から何十年も前の話よ…」
レーリンはそう言うと目を潤ませて赤い絨毯を見詰めた。
「そこで最初に愛した人を失い、最初に死にかけました…」
レーリンは隣に座るヒーナをじっと見詰めた。
ヒーナはその訳も分からずに、ただ茶色いミツカイの少女を見ていた。
「私はそれまで負けはなかったし、愛する人も私を愛していると確信していたわ。とても楽しかった…私が世界を回していると思っていた…」
レーリンは少しひきつった笑みを見せた。
「この世界に来る前は、ただの草花を育てるしか能のなかった、読書好きの内気な女の子が…一転して無敵の英雄よ」
そして今度は、真面目な顔になって続けた。
「このシュルベルでクワイ軍と戦いになり、私は完全に負けたわ…愛する人も戦死した。私は、その人に私の想いを伝えてすらいなかったのよ…」
ヒーナが悲しそうな顔をする。
すると、レーリンはゆっくりと首を振った。
「その時の、戦の前の雰囲気が、今のここの空気と同じだわ…」
隊長たちは皆、押し黙っていた。
彼らの顔から笑みは消えている。
それは、弔辞を聞いている時の空気に似ていた。
第二師団の副長パトリスが、
「それでも、その後はどんな敵の攻撃も退けて来られた」
とミツカイを称えると、レーリンは首を左右に振りながら、
「それは、その時の恐怖から逃れる為に、常に頭を使い、準備を怠らなかった結果です…」
と答え、新米のミツカイを見詰めて、
「次は負けるかも知れない、死ぬかも知れない、死にたくない、と、常に思う心を忘れないで…」
と悲しく潤んだ瞳で言った。
茶色のミツカイの話はそれで終わったが、それからは活発な意見どころか、一言も出ない。
そこでヒーナは、真剣な表情で全員に向かって言った。
「敵には奇策を好む軍師がいるとか…自分がその軍師なら、どんな奇策を練るか考えてみましょう」
軍議はもう少し長引いたが、結局クワイ軍の手の内を特定できず、東西南北の各門に千づつ派兵し、三千を予備として砦の西門寄りに置いておく事で決した。
軍議がお開きになって各隊長が部隊に戻る中、初老の給仕係はコーヒーに代えてハーブティーを主人のサイドテーブルに乗せた。
レーリンはその紳士に少しの微笑みを返して、ハーブティーのカップを摘まんだ。
ヒーナは椅子から立ち上がって、そんな様子を眺めていた。
「まだ夜は長いわよ…」
レーリンはそんなヒーナを見もせずにそう声をかけた。
「少し夜風にあたりましょうか?」
そうヒーナを誘って、二人はマントを羽織って会議小屋を出た。
夜風はまだ冷たい。
地上に赤々と篝火を焚いていても、満天の星空が頭上に輝く。
全ての光が降り注いで来そうなくらいの輝きであった。
「綺麗ね…」
星空を見上げるヒーナにレーリンが言う。
「はい…」
ヒーナはうなずきながら、レーリンの先程の話を思い出していた。
「その愛する人は…」
ヒーナが戸惑いながらたずねると、レーリンはニッコリと笑って、
「カッコ良かったわよ?」
と答えた。
その時、「レーリン様…」と女の声がした。
ヒーナはその声を聞いた瞬間、冷水をかけられたように総毛立った。
緑のマントを翻してレーリンが振り返る。
そこには、フードを深く被った、泥だらけの黒いマント姿の兵士がいた。
レーリンの顔がみるみる強張る。
その兵士は汚いマントの中から抜き身の曲刀を出すと、一気に緑のミツカイに走り寄る。
そのまま曲刀を下から上へ振り抜いた。
咄嗟に退けぞって交わすレーリンは、腰の剣を引き抜く間もなく後ろへ倒れた。
そこへ飛び込むように襲い掛かる黒い兵士は、次の瞬間には、左腕をレーリンの首の付け根辺りに突き立てていた。
そこへ、老紳士の給仕係が走ってきて体当りをした。
黒い兵士は地面に転がる。
「レーリン様!」と、老紳士の給仕係が叫ぶ。
ゆらりと立ち上がった兵士の左手は三本の鉤爪になっていて、そこから黒い血が滴っていた。
「レーリン…討ち取った…」
黒いフードから、つぶやくようにボソッと聞こえた。
「貴様!」
レーリンを診ていた老紳士の給仕係が彼女の腰の剣を引き抜き、暗殺者に迫り来る。
黒い兵士は後退りしながら、左腕のレバーを腰の金具に引っ掛けて肘を曲げて引っ張った。
ジャキン、という金属音と共に三本の鉤爪が開く。
そこに赤い炎を凝縮したような塊が現れ、その左腕を振る。
赤い球がごうと音を上げて剣を振ろうとする老紳士に当たり、轟音と共に爆発し、火柱が上がった。
老紳士の給仕係は声も上げず、その場に崩れ落ちた。
ヒーナは全く動くことができず、そんな光景を、まるで劇でも見ているかのように呆然と眺めていた。
「ヒーナだな!」
その女兵士が叫ぶ。
ヒーナは我に返った。
「見ろ、レーリンが天に帰るぞ…」
曲刀でヒーナの隣にいるレーリンの方を指す。
ヒーナは横目でレーリンを見た。
その身体はすでにレーリンの形ではなく、いくつもの小さな光になってふわふわと空中に浮かび始めていた。
この一瞬で二人が死んだ。
レーリンに付いていた老紳士の給仕係アレンと、そして緑のミツカイ、レーリンである。
レーリンには、まだまだミツカイとして教えてもらえることが沢山あった筈だ。
美味しい食べ物も教えて欲しかった。それに、恋の仕方も。
デキャルトの町の夜店で、頬を赤くしながらケチャップパスタを食べていたレーリンの顔が瞼に浮かぶ。
「ジル!」
ヒーナは黒い暗殺者に向かって叫んだ。
視界が歪む。
右手で小剣を引き抜きながら、左手で涙を拭う。
ジルは左手を腰にやってまた鉤爪を閉じると、無言で曲刀を振るってきた。
ヒーナは慌てて剣を当てて交わしながら身体を避ける。
そこへ、ジルの鉤爪が襲い掛かる。
ヒーナは涙を飲むと同時に屈んでそれを避け、足でジルの足を払う。
見事に足払いが決まってジルは地面を転げた。
ヒーナは屈んだまま、そこへ剣を降り下ろす。
金属がぶつかる音が鳴る。
炎のミツカイは義手のカギ爪で刃を払いのけた。
ヒーナは慌てて剣を戻して立ち上がる。
ジルも素早く立ち上がった。
「お前が奪った左手がこの鉄の爪になり、レーリンの命を奪い、お前の一撃から私を守ったのだ…礼を言おう」
ジルはそう言って冷たく笑う。
そして、
「だが、左手の仇はとらせてもらうぞ!」
と叫ぶが早いか、ジルは腰の金具で鉤爪を開き、赤い球を投げた。
ヒーナは眉を寄せ、歯をくいしばってその赤い球を避けると、迫り来るジルに左手から白金の光を発射した。
それは細く短い光であったが、ジルが二つ目に投げようとした炎の球を飲み込み、炎のミツカイを掠め、会議小屋を貫いた。
「レーリン様!」
「ヒーナ様!」
やっと二軍の兵士達が駆けつける。
ジルはチラッと首を回して辺りに気を配る。
逃げるとしたら南か。
舌を鳴らしてヒーナを斬り付けようと曲刀を振り上げた。
その時、目の前にヒーナがいた。
周りを確認した隙に、間合いを詰めて来ていたのか。
ヒーナは怒りに任せてジルのヘソの下辺りに剣を突き刺した。
満天の星の下、二人のミツカイは、まるで抱き合うように寄り添う。
ジルの黒いのマントは、腰の辺りに突起が出て突っ張っている。
両軍の兵士達はその様子に息を飲んだ。
ヒーナにもたれかかるジルの呻き声が耳元で大きく聞こえた。
その呻きの中でジルはつぶやく。
「ミツカイを一人倒したわよ…クワイ様…弟とママを生き返らせて…パパの足を元に…戻し…て…」
苦しそうな息の下、ジルはハッキリとそう言っていた。
ヒーナは目を吊り上げていたが、ジルのつぶやきはその目尻を下げさせ、眉をいっそうひそめさせた。
目の回りと鼻の先が赤くなり、ヒーナも苦しそうな呼吸をする。
しばらくして、ジルは小さな光の集まりになって、ふわふわと夜空に上がっていった。
駆け付けた多くのフラン兵達は、言葉もなく、ただその様子を眺めていた。
ヒーナは膝から崩れ落ち、両手を付いて地面に四つ這いになった。
その時、
ピィー!
という暗闇を破り裂くような音が鳴る。
にわかに、南門の方から兵士達の怒号が聞こえ騒がしくなった。
「矢笛だ。何かの合図ですね…」
兵士の誰かがつぶやく。
ガモが駆け付けて声を張り上げる。
「南門が内側から開かれました!」
その場の兵達が騒然となった。
それでもまだ地面に四つ這いなままの少女を見下ろして、ヤードが言う。
「ヒーナ様、ここにいる司令官はもうあなたダケです。ご命令を…」
少女は両肩をがっくりと落としたまま立ち上がった。
ヒーナは顔をあげてヤードを見る。
篝火でオレンジ色に照らされたその顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃであった。
ヤードは少し眉を動かしてためらった。
しかし、ぐっと息を飲み込むと、
「ここにいる者達はまだ生きている!第八師団の兵士達が、あなたのかわいい給仕係達が、あなたの指示を待っている!このままだと皆死んでしまう、取り返しがつかなくなるのですよ!」
と真正面から叫んだ。
少しの間、何度かしゃくり上げたヒーナは、鼻をすすってから、
「待機の兵士は南門に向かいなさい」
と涙っぽいぐずぐずの声で言った。
一度しゃくり上げた後、続けて、
「開いた南門の正面は空けて下さい。…私が、光の力で敵を一掃します」
と言い、南の方へ歩き出した。
ヤードはガモに目配せする。
ガモは大きくうなずき、伝令兵を集め指示した。
このシュルベル砦の攻防戦、最後の戦いは始まったばかりであるが、あらかた決着はついてしまっていた。




