第六十二話 <不吉な予感>
目の前は幾筋かの黒い横棒がある。
視界は遮られているが、前が見えない程ではない。
そして、その前で竹刀を構えて奇声を発する防具を着た人。
だが、その奇声より体育館に響き渡る他の試合の声や応援がうるさい。
むしろ、上気した息で蒸せ返る程熱く、息苦しい。
剣道の試合か。
でも、ジルと、リンダと、そして力自慢のスベンと戦った時の方がもっと緊張した。
明らかに相手の方が力も経験も上だったし、不意討ちだったりした。
その時に比べれば、責任も緊張も比べようがない程軽く、ましてや負ければ存在を断たれるという重圧もない。
思わず笑みがこぼれる。
なんと気楽な剣であろうか。
竹刀とはこんなに軽かったのか。
負けて命を断たれない事、勝っても相手の命を奪わなくて済む事が、これ程開放的とは思いもしなかった。
思い切りやろう。
そう思って、冷たくもない体育館の板を踏みしめた。
そして、目が覚めた。
そこは赤い夕陽の射し込む部屋の中である。
窓枠の影が顔にかかっていた。
薄暗い部屋を見渡す。
ベットの傍らで腰掛けた給仕係の金髪の少女が、小さく頭を揺らしてウトウトしていた。
外から聞こえるのは戦闘の声だろうか、ワーワーとうるさい。
ヒーナが上半身を起こした事に気付くと、その少女は、
「あっ、すいません…」
と言って立ち上がった。
「いえ、いいのよ。…それよりソフィア…イヌガルであなたを危ない目に合わせてから、絶対に戦に加えないと誓ったのに…。またさせてしまって、すいません…」
ベッドの上であったが、ヒーナは深々と頭を下げた。
「そんな…ただヒーナ様に似た格好をして、石垣の上に立っていただけです。…それより、灯りを持って来ますね」
赤い夕陽の色に染まる部屋から外へ出ようと、ソフィアが扉に手をかけたその時、ヒーナの記憶に電撃が走った。
――― 良くない事が起こる! ―――
根拠もなくそう思って、思わず
「ソフィア!」
と、ヒーナは叫んだ。
ソフィアは振り返る。
「どうしました?」
ヒーナは何て言えばいいか分からなかった。
ただ直感でイヤな予感がしただけであった。
呼び止めたのはそれだけの理由だし、具体的に何が起こるなんて事も分からない。
当然、なんでそう予感するのかなんて理由も理屈もない。
そんなとりとめのない事は、まるで子供が母親と離れたくなくて駄々をこねているようで恥ずかしくて言えない。
「あの…あ、今日の晩御飯は何かしら?」
ヒーナは無理矢理別の話題で誤魔化す。
そうして、ベッドから下りて枕元にある短めな剣を確かめた。
「うーん」と考えたソフィアが、
「すみません、まだ今日はまだ材料も見てなくて…すぐ作りますね。何かご希望はありますか?」
と、きいた。
ヒーナは鎧下の赤い上下姿であった。
そのまま革鎧を着ようとする。
「ソフィア、食事より先に戦況を確認しないと…」
「あ…はい、そうですね」
ソフィアが慌てて鎧を着る手伝いに戻った。
革鎧を着ながら、ヒーナがたずねる。
「ヤードさんは?」
ベルトを少女の身体に回しながら、ソフィアが答える。
「第二師団副長のアジル様とこの砦の指揮を採っておられます。敵の声が少なくなって来ていますから、善戦しておられる事と思います」
ヒーナはその雄姿を思う。
それはキリッとしていて勇壮であろう。
少し笑みがこぼれる。
その後、革の鎧を装着したヒーナはマントを羽織って部屋を出た。
もう陽が落ちかけ、辺りは暗闇に包まれようとしていた。
「だから、何の用だと聞いている!」
ジルは椅子に深く腰掛け、テーブルの上に両足を投げ出してたずねる。
傍らに軍師のガンリョとテムが立っていた。
「ですから、クワイ軍第四軍団は壊滅の危機にあると…」
伝令兵はそう言って頭を下げた。
伝令兵は、書類の束が山のように積み上がったテーブルの前に突っ立っていた。
「イフサンは死に、副将グロウと三千程の兵しかいない…それはさっき聞いた。確かに壊滅の危機だな…」
ジルが首を回しながらそう言い、両手を頭の後ろで組んだ。
「はい…」
伝令兵はうつむくだけであった。
伝令兵の煮え切らない態度にジルはイライラしていた。
「それを報せに来ただけか?」
伝令兵は答える。
「私が伝えるべきはそれだけです…」
「ふーん…」と、ジルは意地悪に鼻息を吐いた。
「では、後はグロウが引き返して来るまでここで待ってればいいんだな?」
突き放された伝令兵はハッと困った顔を上げた。
「それでは…グロウ副将を見捨てるとおっしゃいますか?!」
それを聞いたジルは笑う。
「見捨てる?そんなバカな…」
そう言い捨ててから真顔になって、
「私は特に助けてくれとも、援軍を寄越せとも言われてない。助けて欲しいならここまで退いてくればいいじゃないか!」
と怒鳴った。
それに伝令兵は食い下がる。
「しかし、壊滅を分かっていながら…」
伝令兵の言葉が終わらないうちに、ジルの怒りが爆発した。
テーブルに上げていた足を下ろし、椅子を跳ね飛ばして立ち上がり怒鳴り散らす。
「誇りか名誉か知らないが、人にモノを頼む時は慎重に礼を尽くすべきだろう!」
ジルの怒りも分からない訳ではない。
後詰めとして一万の兵を持ってチチェンに滞在していたジルは、当然クワイ軍第四軍団の危機にあたっては出撃しなければならない。
そういう役目である。
しかし先の、シュルベル砦が陥落された際、ここまで退却してはいたが軍議にジルを参加させる事もなく内々で済ませた上に、テム一人に敗因を擦り付けた。
ジルは軍議に呼ばれる事もなく、要請に従って七千の兵士を融通したのだが、その連絡もただ伝令兵が一人来ただけであった。
見兼ねたガンリョが口を挟んだ。
「ジル様、冷静に…」
そんなガンリョにもジルは噛み付く。
「冷静でいて欲しいなら、冷静でいられる様に配慮しろ!」
ガンリョは困った顔をしてジルに歩み寄った。
少し屈んで顔を寄せ、小さな声で、
「今出撃して指揮権を乗っ取れば、グロウ副将も配下となるでしょう。それに…自軍の兵士があと三千死ぬという悲劇を避けられます…」
と囁いた。
ジルの眉がピクリと動いた。
赤黒く蒸気した顔から赤みがすっと消えていく。
テムはじっと眼を閉じて成り行きに身を任せていた。
テムにとって、古巣を貶されるのは勿論気持ちいいものではない。
しかし、この少女の言い分は尤もである。
もしこれが、少女の軍団でないなら、イフサンもグロウも礼を通して使者を派遣していたのではないか。
彼等が戦果を妬み、ミツカイの力を軽んじてきた結果がこれである。
フラン軍のミツカイにはやられるし、自軍のミツカイには助けられ、しかも礼儀もなっていない。
これでは、敵のミツカイにやられるのは必然だし、ジルが怒るのも当然だ。
テムはゆっくりと眼を開いた。そして、覚悟を決めた顔でツカツカとジルの前まで歩み寄り、足元へ屈んで深く頭を下げた。
「ミツカイ様、どうか第四軍団の残兵をお救い下さい。元同僚の非礼はこの通り深くお詫びいたします…どうか…」
ジルは少し驚いた。
そしてテムの傍に屈んでその顔を見た。
「…テム…。罪を擦り付けた奴らだぞ、憎くはないのか?」
テムは少し涙を溜めた目でじっと少女の顔を見つめた。
「誰が生き残っているか分かりませんが、敗戦の責を負うべき将軍は死んだのです。ならば、残りの者にいささかの責任がありましょうや。助けに行って頂けるなら、私はジル様に心服し、生涯お仕え致します」
ジルは少し考えて立ち上がった。
そして、伝令兵に向かってこう言った。
「副将グロウへ伝えろ。ジルが四千の兵をもって駆け付ける、とな!」
その言葉を承った伝令兵は、彼女の気が変わらない内にと、そそくさと退室する。
その背中に向かって、「それまで全滅しないようにと伝えろ!」と叫んだ。
そして、足元のテムに向かって、
「テム、私はお前の運命を知らない。こんな事で心服などするな。本当に仕えたいと思う大将に生涯を捧げるべきだ」
と言う。
テムがハタと顔を上げてジルを見つめた。
ジルは最後につぶやく様に付け加えた。
「ただ…それが私だったら、嬉しい…」
テムはさめざめと泣いた。
その日中に出撃準備をしたクワイ軍第二軍団は、四千の兵を引き連れてチチェンを発ち東へ向かった。
先頭に立つジルと、その両脇に二人の軍師が従っていた。




