第8話:最後の約束
「クソ、ザラメのストックが切れた! 倉庫から取ってくる!」
遠野がそう叫んで教室を飛び出したのは、お昼過ぎ、客足が一番のピークを迎えた頃だった。
熱気で頭がどうにかなりそうな教室を出て、ひんやりとした渡り廊下を、遠野は急ぎ足で走る。
その時、廊下の突き当たり、誰もいない非常階段の踊り場に、見慣れた後ろ姿があることに気づいた。
「……朔? お前、そんなところで何してんだ。ザラメなら俺が今――」
遠野が声をかけながら近づき、そして、言葉を失った。
朔は、壁に背中を預けてへたり込んでいた。
その身体から、かつてないほど強烈な「熱」が、陽炎のように立ち上っている。
そして、彼の両足、両手、そして制服のシャツが、まるで水に溶ける砂糖のように、下から順番にサラサラと透明な光の粒子に変わって消えかけていた。
「遠野君……か」
朔がゆっくりと顔を上げた。
その瞳だけが、まだ人間のふりを保ったまま、澄んだ光を放っている。
「悪いな、ここまでみたいだ。……嬉しかったんだ。みんなと過ごす時間が温かくて、熱が止まらなかった」
「おい、冗談だろ……? お前、今、消えかかって……」
遠野は慌ててザラメの袋を放り出し、朔の肩を掴もうとした。
けれど、遠野の手は、朔の身体を虚しくすり抜け、ただ熱い空気だけを掴んだ。
触れることすら、もうできない。
「だめだよ、触ったら遠野君まで火傷してしまう」
朔は優しく微笑んだ。
その背中からは、もう羽の一枚すら残っていない。
ただ、彼の「芯にある熱」だけが、最後の輝きを放っている。
「お願いだ、彼女には……僕がこうなったこと、まだ言わないでくれ」
朔の言葉に、遠野は憤るように声を上げた。
「なんでだよ! あいつはお前のことが一番大事なんだぞ!? 最後くらい、あいつのそばに行ってやれよ!」
「……行きたいよ。本当は、最後の瞬間まで彼女の隣にいたい」
朔の瞳から、一筋の透明な光の粒子が零れ落ちた。
「でも、僕がこの姿で戻ったら……あの子は僕を止めようとして、また無茶をして自分の身を削ってしまう。僕の消滅を目の前で見せるのも、あまりに残酷だ。それに、もうこの足じゃ……あそこまで歩くことすらできないんだ」
朔は、愛おしそうに教室のある方向を見つめた。
「彼女はいつだって、自分のことより僕の熱を受け止めようとしてくれた。だからこそ、最後くらい笑顔のままでいてほしい。僕が今、彼女の目の前で消えたら、あの子は自分を責めて、二度と前を向けなくなってしまうから……。だから、遠野君。君にお願いがあるんだ」
遠野は拳を強く握りしめ、歯を食いしばった。
世界の端っこが見えてしまう遠野だからこそ、目の前で起きている「理の消滅」を止める術がないことを、誰よりも理解していた。
「……何をすればいい」
「僕が消えたら、あそこにある『わたあめ』を、彼女に食べさせてあげてほしい」
朔は静かに、だけど確かな声で言った。
「僕たちの世界の『記憶を蓄える雲』。口に含むと一瞬で溶けて、愛おしさだけが残る。僕のこの最後の熱を、あのわたあめ機の中に全部残していくから。それを食べれば、僕の想いはきっと、彼女の心に届くはずだ」
朔の身体が、いよいよ光の霧へと変わっていく。
「遠野君。人間として、君という友人に会えて、僕は本当に幸せだった」
「朔……!」
「……彼女を、よろしくね」
それが、最後の言葉だった。
次の瞬間、眩いひかりが非常階段を包み込み、そして――あとに残ったのは、ただ、焦げつくような甘い匂いと、皮膚にじんわりと残る強い余熱だけだった。
遠野は、誰もいなくなった空間で、溢れ出しそうな感情をぐっと胸の奥へ押し殺し、立ち尽くしていた。
「……応、任せとけ」
絞り出すような声が、静かな廊下に響いた。
(第8話・おわり)




