第13話:命への想い
ハルを育てる日々のなかで、私の世界は驚くほどの速さで広がっていった。
ただ仕事と部屋を往復し、かつての記憶の熱をひっそりと守るだけだった私の生活に、新しい「繋がり」が満ちていく。
その発端となったのは、ハルを連れて通っている、街の小さな動物病院での出会いだった。
「あら、ハルちゃん、今日も毛並みがツヤツヤね。大切に育てられているのがよく分かるわ」
声をかけてくれたのは、待合室でいつも顔を合わせるボランティア団体の女性、真壁さんだった。
彼女は地域で保護された行き場のない動物たちの里親探しや、過酷な環境にいる野良猫たちの不妊去勢手術(TNR活動)を個人で支援している人だった。
待合室のベンチに座り、ハルをキャリーケースに入れたまま、私は真壁さんと様々な話をした。
彼女がスマートフォンで見せてくれたのは、ハルがいた神社とはまた別の場所で、ガリガリに痩せ細りながらも必死に生きようとしている動物たちの姿だった。
「人間の医療も大変でしょうけれど、言葉を持たない動物たちの命はね、本当にあっけなく人間の都合で消されてしまうのよ」
真壁さんは寂しそうに言った。
その言葉が、私の胸の奥に、かつてない強い波紋を広げた。
言葉を持たない、小さな命。
それは、あの日、雨の境内で泥にまみれて震えていたハルの姿そのものだった。
もし私が通りかからなければ、ハルは誰に知られることもなく、静かにその短い命を終えていただろう。
病院からの帰り道、私はハルを抱えながら、自分のなかに芽生えた小さな、けれど確かな「思い」を見つめていた。
私は今、人間の看護師として働いている。
それは私の誇りであり、朔の熱に向き合い続けるための大切な仕事だ。
けれど人間の命を守る知識と技術がある私だからこそ、もっと別の、声なき小さな命たちにも差し伸べることができるのではないか。
「……ハル。私ね、やりたいことができたかもしれない」
部屋に戻り、キャリーケースから出たハルが私の足元にすり寄ってくる。
私はその温もりを感じながら、部屋の隅にある古いわたあめ機を見つめた。
ゴトゴトと、いつもよりどこか力強く響く機械の音。
そこから湧き出る白銀の糸が、まるで私の背中を押すように、温かく揺らめいている。
私のなかの小さな思いは、そこから一気に具体的な行動へと変わっていった。
私は真壁さんの所属するボランティア団体に連絡を取り、休日の時間を使って、保護施設の医療サポートボランティアとして参加することを決意したのだ。
看護師としての知識は、動物の応急処置や衛生管理、病気の蔓延を防ぐための消毒管理に驚くほど役に立った。
「あなたみたいな医療のプロが手伝ってくれるなんて、本当に心強いわ!」
施設の人たちに感謝され、たくさんの傷ついた犬や猫たちと向き合う。
衰弱した体を温め、生きようとする命の灯火を絶やさないように寄り添う。
それは、人間の病院でやっていることと、本質的には何も変わらなかった。
どちらも、もろくて、愛おしくて、かけがえのない命の熱だからだ。
ある日の午後、施設のケージの前で作業をしていると、私のスマートフォンが鳴った。
遠野くんからだった。
彼に、最近ボランティアを始めたこと、そして将来的に、人間の医療と動物の保護活動を繋ぐような、命のケアができる場所を作りたいという夢をぽつりぽつりと話した。
『……へえ、お前らしいじゃん』
電話の向こうで、遠野くんは少し呆れたような、だけど本当に嬉しそうな声で笑った。
『人間だけじゃなくて、全部抱え込もうとするあたりがさ。でも、いいと思う。もしお前がいつかそういう「場所」を作るなら、俺もリハビリの知識で手伝ってやるよ。老犬や老猫のケアとか、力になれるだろ?』
「遠野くん……」
『朔だって、きっと上から見て、お前のそういうお節介なところ、笑いながら応援してるって』
遠野くんの言葉に、視界が少しだけ潤む。
そうだ。
私が今、こうしてたくさんの命に手を伸ばせているのは、あの夕暮れの教室で、一人の青年の命の熱をこの手に受け止めたからだ。
そして、私を支えてくれる仲間がいるからだ。
一人では乗り越えられないことも、誰かの言葉が、また前を向いて立ち上がろうとする力になる。
私の小さな部屋から始まったハルとの生活。
それが動物病院での出会いを経て、今、多くの命を救うための「大きな活動」という形になりつつある。
部屋に帰り、私の夢の原点であるわたあめ機に触れる。
その鉄の冷たさの奥にある、永遠に消えない熱を感じながら、私はハルを抱き上げ、窓の外の夜空を見上げた。
(第13話・おわり)




