第12話:小さな出会い
朔の遺した熱を胸に、医療の現場で命と向き合う日々。
張り詰めた毎日を送る私の生活に、ある雨の日の夕暮れ、予期せぬ「もう一つの命」が飛び込んできた。
その日は朝から容態が急変した患者さんの対応が続き、緊張の切れない一日だった。
夕方になってようやく容態が安定し、胸を撫で下ろした途端にどっと疲れが押し寄せて、私は心身ともにクタクタになって帰路についた。
土砂降りの雨ですっかり暗くなった街並みを抜け、アパート近くの神社脇を通りかかったとき。
激しい雨の音に混じって、かすかな、本当に今にも消え入りそうな声が聞こえた。
「……みゃあ……、……ん」
立ち止まり、傘を傾けて周囲を見回す。
生い茂る植え込みの根元、泥にまみれた段ボール箱の中に、それはいた。
手のひらに収まってしまうほど小さな、生まれたばかりのような仔猫だった。
全身が雨で濡れそべり、体温を奪われてガタガタと震えている。
閉じたままの瞼は目ヤニで塞がり、呼吸は浅く、手に取れば潰れてしまいそうな綿雪のように儚かった。
「……!」
私は傘を脇に置き、泥だらけの段ボールからその小さな体をそっとすくい上げた。
冷たい。
人間の命の危機には何度も立ち向かってきたけれど、これほどまでに小さな、今にも指の隙間からこぼれ落ちてしまいそうな命を前にして、私は一瞬、激しい恐怖に襲われた。
『もろいからこそ、人は誰かを愛し、記憶を遺そうとするんだ』
脳裏に、あの部屋の片隅にあるわたあめ機のゴトゴトという音と、朔の言葉が蘇る。
「逃げない。私はもう、迷わないよ」
私はカバンから清潔なタオルを取り出すと、泥だらけの仔猫をそっと包み込んだ。
衛生面や感染症のリスクは、医療を学ぶ身として痛いほど分かっている。
この冷え切った体温を今すぐ温めなければ、この命は消えてしまう。
私はタオル越しに仔猫を上着の胸元へ抱き寄せ、体温を、そして私の中に生き続ける「あの熱」を届けるようにしっかりと抱きしめた。
そのまま、私は自分のアパートへ走った。
部屋に戻るとすぐ、乾いたタオルで優しく泥と水分を拭き取り、ドライヤーの温風を遠くから当てた。
ぬるま湯で薄めたミルクをスポイトで口元へ運ぶ。
最初はぐったりとしていた仔猫だったが、私の指を必死に吸うようにして、一滴、また一滴とミルクを飲み干していった。
やがて、小さな胸が規則正しくゆれ始める。
仔猫は、私の手のひらの上で、トクトクと力強い心音を響かせながら、深い眠りに落ちていった。
「……よかった」
床にへたり込み、大きく息を吐き出す。
その時、部屋の隅のわたあめ機が、心なしか小さく「カタッ」と音を立てたような気がした。
見ると、そこから湧き出る白銀の糸が、いつもよりほんの少しだけ、温かく揺らめいているように見えた。
まるで、新しい命の誕生を祝福しているかのように。
翌日、私は動物病院へ仔猫を連れて行った。
獣医さんからは「危機を脱した。あなたがすぐ温めたのが良かった」と言われ、心の底から救われた気持ちになった。
この小さな生き物との出会いは、私の静かだった生活を大きく動かし始める。
一人きりだった部屋には、小さな足音と、小さな甘える鳴き声が響くようになった。
名前は「ハル」と名付けた。
あの日、物理準備室で見た雲のような白い毛並みと、これからこの子にたくさんの温かな春が訪れるように、という願いを込めて。
ハルを育てるために、私は毎日の生活リズムを見直した。
朝は早く起きてご飯をあげ、部屋を綺麗に保ち、どんなに仕事が忙しくても「守るべきもの」が待つ家へと真っ直ぐ帰るようになった。
それだけではない。
ハルをきっかけに、アパートの隣人や、いつも行くペットショップの店員さん、さらには動物ボランティアの人たちなど、これまで自分の殻に閉じこもりがちだった私の世界に、新しい「人との繋がり」が次々と生まれていったのだ。
「お、なんだその可愛い生き物は」
ある休日、ハルを動物病院へ連れて行く途中で遠野くんに呼び止められた。
遠野くんはハルの小さな頭を大きな手で不器用に撫でながら、目を細めた。
「お前、なんかいい顔になったな。前はさ、命を背負いすぎて、いつか折れちゃうんじゃないかって心配だったんだよ」
「……そう、かな」
「おう。そのちっこいのに、救われてるんじゃねぇの?」
遠野くんの言葉に、私はハルを抱きしめる腕に少しだけ力を込めた。
確かに、遠野くんの言う通りかもしれない。
私は命を「救う」側の人間になろうと必死だった。
けれど、この小さな生き物は、ただそこに生きて、私を必要としてくれるだけで、私の心を温かく満たしてくれる。
朔が遺してくれた雲が、私の心の土壌となり。
そこで出会った小さな命が、私の生活に新しい風を吹き込み、動かしていく。
(第12話・おわり)




