気持ちを伝える
セシル様へ相談をしてから数日が経った。
あの日、セシル様のおかげで自分の気持ちを「悲しかった」と言葉にしてもらえただけで胸の奥へ溜め込んでいたものは少し軽くなってくれた。もちろん、何かが解決したわけではない。それでも、もしまた同じようなことがあれば、今度こそ「私は悲しかった」と、自分の気持ちとして伝えてみよう。そう思えるようになっただけでも私にとっては大きな変化だった。
その日の放課後、図書館で借りていた本を返却し、貴族科の校舎へ戻るため渡り廊下を歩いていた時だった。
「アシュリー」
聞き慣れた声に呼び止められて振り返ると、そこには騎士科の運動服姿のカレン様が立っていた。どうやら訓練を終えたばかりらしく、麻で織られた運動服の袖は少しまくられ、額にはうっすらと汗が滲んでいる。それでもさすが騎士を目指す方らしく、疲れた様子はまるでなく、いつものように人懐っこい笑みを浮かべながら、こちらへ歩いてきた。
「ちょうど良かった。言わなきゃいけないことがあるから会いに行かなくちゃと思ってたんだ」
「私に、ですか?」
「うん」
カレン様は私の前まで来ると、少しだけ困ったように頭を掻いた。
「昨日あったこと、謝っとこうと思って」
突然そんなことを言われ、私は思わず首を傾げた。
昨日、お会いしただろうか。そう考えていると、カレン様は何でもないことのように続けた。
「あたし、昨日一晩アランと一緒だったからさ、謝っとこうと思って」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がどくりと鳴った。
一晩、一緒だった。
そのたった一言が頭の中で何度も繰り返され、他の言葉が耳へ入ってこなくなる。
昨日は騎士科の皆様で親睦を兼ねた飲み会があると、アラン様がおっしゃっていたのは知っている。
一晩一緒だったということは、もしかしてその後。
そこまで考えたところで、喉の奥がひどく渇いていることに気付いた。何か返事をしなくてはと思うのに、言葉がうまく出てこない。
「え……あ……」
ようやく漏れた声は、自分でも驚くほど小さかった。
まだ状況を呑み込めてない私の様子を見たカレン様は一瞬きょとんとした顔をした後、大げさに目を丸くし、それから堪えきれないというように吹き出した。
「あははっ!」
渡り廊下へ明るい笑い声が響く。
私は何がおかしかったのか分からず、ただ戸惑うことしかできなかった。
「違う違う」
笑いながら手を振る。
「男と女が同じ部屋にいただけで、そういう方に考えちゃった?」
「……え?」
「昨日は騎士科の連中みんなで飲んでたんだよ。潰れたやつが何人もいて、そのまま飲んでた店の個室で雑魚寝したんだ」
雑魚寝……その言葉を聞いて、張り詰めていた息が少しだけ漏れる。
そういう意味では、なかったのだ。
良かった。そう思いつつも、「一晩一緒だった」と言われたことを違う意味へ勘違いしかけた自分が急に恥ずかしくなってしまう。
「ご、ごめんなさい……」
「謝らなくていいって」
カレン様は笑いながら肩を竦めた。
「そんな反応するってことは、アランのことよっぽど好きなんだな、って思っただけ」
悪気はないのだろう。それに、勘違いした私が悪い。
そう分かっているのに、何だか居たたまれなくて俯きかけた、その時だった。
「カレン!」
カレン様がやってきた訓練場の方から、聞き慣れた声が響く。
思わず顔を上げると、カレン様と私が立ち話をしていることに気付いたらしいアラン様がいつになく慌てた様子で駆け寄ってくるところだった。
「またアシュリーに変なこと吹き込んだのか?」
息を整えるより先にそう尋ねるアラン様へ、カレン様は「ばれたか」とでも言いたげに笑う。
「変なことなんて。ただ、昨日騎士科の連中で飲みに行った話したら、アシュリーが、アランがあたしと二人っきりだったんじゃないかって勝手に疑ってショック受けてるだけ」
私はその言葉に、喉の奥がきゅっと締まるような苦しさを感じた。
確かに、言葉にするならカレン様の言う通りだ。他の方もいる騎士科の親睦会の話だったのに、ちゃんと全部聞かないで、勝手に悲しくなってたのだから。
「お前が変な言い方したんだろう。そもそも何でわざわざアシュリーに言うんだ」
「だって本当のことじゃん」
困ったように息を吐いたアラン様は、すぐ私の方へ向き直った。
「アシュリー、誤解しないでほしい」
真っ直ぐな眼差しだった。真正面から、私の目を覗き込んで、胸の前でキュッと握っていた手を大きな手で包んでくれる。
「昨日は騎士科の仲間で十人近く集まって飲んでただけなんだ。途中で酔い潰れたやつが何人もいて、帰れなくなったから、そのままその個室で過ごしただけなんだよ」
そう説明してから、念を押すように続ける。
「俺とカレンだけじゃない。他にも友人が何人もいた。本当に、ただ酔って雑魚寝しただけなんだ」
その言葉に嘘はないのだろう。
焦ったように走ってきたことも、誤解だけは解いておきたかったからなのだと分かる。私はアラン様を安心させるように口の端を持ち上げると、小さく頷いた。
「……そうだったんですね。」
その返事を聞いたカレン様は、何だか急に興味を失ったように肩を竦める。
「誤解も解けたみたいだし、あとは婚約者同士で話しなよ。あたしは邪魔みたいだから」
そう言ってひらひらと手を振ると、返事を待つこともなく踵を返し、そのまま騎士科の校舎の方へ歩いて行ってしまった。
その後ろ姿を見送りながら、私はようやく胸を撫で下ろす。
けれど安心したはずなのに、胸の奥にはまだ説明のつかない小さな痛みだけが残っていた。
アラン様はいきさつまできちんと全部説明してくれて、その言葉にも隠しごとや嘘はないようだった。
だから安心……するべきなのに、私の胸に生まれた小さな痛みはどうしても消えてくれなかった。
それが何なのかを、私はもう知っている。あの日、セシル様が「悲しかったんだね」と言ってくださったから。
私は一度だけ小さく息を吸ってから、アラン様を見上げた。
「あの……少しだけ、お話ししてもよろしいでしょうか」
「もちろんだ」
アラン様はすぐに頷いてくださった。
その真っ直ぐな返事に少しだけ勇気をもらいながら、私はアラン様に包まれた手を自分から握り返した。
「私は、お二人のことを疑っていません。何もなかったというアラン様の言葉を信じています」
最初に、それだけは伝えておきたかった。
「昨日のことも、ご説明を聞いて安心しましたし、アラン様がカレン様をただの友人としか思ってないことも、本当なのだと思っています」
アラン様は真剣な面持ちで、黙って聞いてくれている。
だからこそ、ここから先を言うのは少しだけ怖かった。自分でも分かるくらい声が小さくなる。
「でも……今日みたいなことは、もうしないでいただきたいんです。他に人がいても、アラン様がカレン様のことを何とも思ってなくても」
アラン様が少しだけ目を見開いた。私はそのまま言葉を続ける。
「他の女性がいるところで一晩過ごしたと聞いて……私は悲しかったんです」
その一言を口にした瞬間、不思議なくらい胸の奥が軽くなった。
私はアラン様を責めたかったわけではない。ただ、私は悲しかった。その気持ちを分かって欲しかったのだ。
その言葉を聞いたアラン様はしばらく何も言わなかった。
私を見つめたまま考え込むように視線を落とし、それからゆっくりと頷く。
「……そうだったのか。すまなかったな、アシュリー」
静かな声で紡がれたその謝罪に、私は思わず息を止める。
「俺は、アシュリーが不安になったんだと思っていた」
やはりそうだったのだ。だからあの時、「男友達みたいなものだから」と答えて、それで安心させたから大丈夫だと思っていたのだ。
「でも、違ったんだな」
「……はい」
「分かった」
アラン様は真っ直ぐ私を見て、もう一度頷いた。
「これからは、カレンであっても、同じ場所で一晩過ごすようなことがないように気を付けるよ」
その言葉を聞いて、胸の奥へ張り付いていたものが少しだけ剥がれ落ちるような気がした。
良かった、今度こそ自分の気持ちをちゃんと伝えることができたのだと。
「……分かっていただいてありがとうございます」
ホッとしたら、自然と笑みがこぼれていた。私が笑うと、アラン様も少しだけ安心したように微笑みを浮かべる。
「アシュリーに心配を掛けてしまったみたいだな。悪かった」
「いいえ」
私は首を横へ振る。
「私も、もっと早く自分の気持ちをお伝えすれば良かったんです」
その言葉にアラン様は「そんなことはない」と苦笑した。
「俺はガサツな男だから、これからもアシュリーが気になることをしてしまってたら、遠慮なく教えてくれよ」
「ありがとうございます、アラン様」
きっと、これでもう大丈夫だ。私はそんなことをされると悲しいと伝えて、アラン様も分かったと言ってくださった。
だからもう、同じことで悩むことはない。
そう信じながら、私はアラン様とにこやかに別れて教室に向かって歩き始めた。カレン様の言葉を聞いた時の苦しさは、もう残ってなかった。




