お姫様みたいな幼馴染
私は自分の中にじわりとにじむ痛みに気付かないフリをしながら、この婚約について思いを巡らせていた。これは政略ではなく、アラン様の側から申し込まれた婚約だったから。
当時の私は騎士科主席のアラン様の存在と名前だけは知っていたものの、どうしてそれまで関りがなかった私に、家同士のしがらみがあるわけでもない、学園の中でも目立つ快活なタイプのアラン様から突然婚約が申し込まれたのかいまいち理解が追い付かず、私は距離を測りかねていた。父も兄も物静かなタイプで、今まで自分の周りにアラン様のような方がいたことがなかったのもある。
けれど顔合わせをしてから少しずつ付き合っていくうちに、アラン様は自信に満ちた振る舞いとは逆に、少し不器用なところもある誠実な人で、私に好意を向けてくれていることを知っていった。
あれは何度目の顔合わせの時だっただろうか。課題で使う本を探しに来た時に丁度当番だった図書委員の私が相談に乗ったことがあって、その時の事を覚えていたアラン様が婚約相手に私の名前を挙げたのだと教えてもらったっけ。
図書委員の仕事の何でもない一幕で、そんなことがあったのも言われるまで忘れていた私はとても驚いた。けど今は、私もアラン様に惹かれ始めている。
だからこそ、今日の昼食で感じたあの小さな痛みを私はどう受け止めればいいのか分からなかった。
アラン様は、私を大切にしてくださっている。
遠回りになると分かっていても私を気遣い、貴族科の校舎まで送って、私が焼いたクッキーを美味しいと喜んでくださった。その優しさは決して嘘ではなくて、きっとカレン様のことだって、本当に男友達と同じような存在としか思っていないのだろう。
だから、悪いのは誰なのだろうと考えてしまう。
カレン様は思ったことを口にしてしまう方なだけで、悪意があって言ったわけではないようだし。アラン様も、私を安心させようとしてくださっていた。
それなら、あの場で胸が苦しくなった私はやはり気にしすぎだったのだろうか。
そんなことを考えながら教室へ戻ったものの、結局答えは出ないまま午後の授業が始まってしまった。
先生の声を聞きながらノートへ黒板の文字を写していても、気付けば昼食の時のことばかり思い返してしまう。
――あいつは男友達みたいなものだから。
あの言葉は、確かに本心だった。けれど、私が言いたかったことは正しく伝わらなかった気がする。
私が嫌だったのは、お二人が男女の仲なのではないかと疑ったからではない。婚約者である私の前で、他の女性と同じコップへ口をつける姿を見ることが悲しかった。ただ、それだけだった。
それなのに、その気持ちを上手く説明することもできず、「分かりました」と引き下がってしまった自分のことまで思い返してしまって、私は小さく息を吐いた。。
気持ちを切り替えたいのに、頭の中へ浮かんでくるのは教科書の内容ではなく、昼食の席で交わされた言葉や、自分が伝えられなかったことばかりだった。そのせいで授業の終わりを告げる鐘が鳴り、生徒達が席を立ち始めても、私はすぐには立ち上がることができなかった。
「……アシュリー? どうしたの、何か悩みごと?」
聞き慣れた声に名前を呼ばれ、顔を上げる。気が付くと私が座ったままの席の隣には、一人の青年が立っていた。
柔らかな銀色の髪は背中の真ん中よりも長く、後ろでゆるく結ばれている。その髪を留める今日のリボンは制服と同じ深い紺色で、両端に銀色のカラーチップが被せてあって彼が動くたびにキラキラと揺れる。
男子共通の紺色のジャケットの襟には、普通男性が着用しないフリルが重ねられている。袖口のボタンは外されて、白いレースのシャツの袖が広がってまるでベルスリーブのように着こなしている。指定のネクタイはリボンのように飾り結びをして銀細工のブローチで留められていて、決して華美ではないのに、とても華やかに見える。
背も男性としては決して低くない。
それでも、女性的な美しい顔と長い睫毛、穏やかに細められた青い瞳のせいだろうか。机に座っていて、スラックスを穿いているのが見えなければ、令嬢だと思われても不思議ではない、そのくらい美しい人だ。
「セシル様」
私が名前を呼ぶと、いつものようにふっと柔らかい笑みが返って来た。
「やっぱり、元気ないね。どうしたの?」
この方の、姉として私を見守るような優しい目には全てお見通しなのだろうか。
セシル様はアシュクロフト侯爵家の三男であり、私とは幼い頃から親しくさせていただいている方だ。
もっとも、初めてお会いした時の私は、セシル様が男の子だとは思ってもいなかったのだけれど。
あれは確か、まだ私が七つくらいの頃だった。
父に連れられて初めてアシュクロフト侯爵家を訪れた日、大人達がお話をしている間、私は広い庭園を歩かせてもらっていた。
色とりどりの花が咲く庭園の奥には、小さな東屋があり、その中で一人、本を読んでいる子がいた。セーラー襟の活動的なお洋服を着ていて、それがとても似合っていたのを今でも覚えている。
風に揺れる柔らかな銀色の髪は肩につくくらいの長さで、陽の光を受けてさらさらと輝いている。伏せられた睫毛は驚くほど長くて、白い指先が静かにページをめくる様子は、まるで絵本に出てくるお姫様のようだった。
私は、その子が侯爵家のお嬢様なのだと疑いもしなかった。そのお姫様みたいに綺麗な子が、本を読んでいる。私と同じで読書が好きなら、お話をしてみたい。
そんな軽い気持ちで近付いていき、少し緊張しながら声を掛けていた。
「こ、こんにちは」
本から顔を上げたその子は、ぱちりと瞬きをしてから、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「こんにちは」
優しそうなその笑顔に安心して、私も小さく笑い返す。
「わたくし、アシュリーと申します。ウェルズ伯爵家の娘です」
「僕はセシル。よろしくね」
可愛らしいお名前だと思った。それ以上何も疑問に思うことはなく、私は自然と続ける。
「セシルちゃんは、何を読んでいらっしゃるのですか?」
セシル様は一瞬だけ目を丸くしたものの、すぐにくすりと笑って、膝の上に置いていた本の表紙をこちらへ向けてくださった。
「お城から家出した王女様の冒険譚だよ。読む?」
「わぁ、面白そう。いいんですか?」
「もちろん」
そうして私は、セシル様の隣へ座らせてもらった。
最初は一冊の本を一緒に覗き込んで読んでいただけだったのに、物語の続きを話し合っているうちに夢中になってしまい、気が付けば今読み終わった本の好きな登場人物の話や、お気に入りの場面の話をして盛り上がっていた。
セシル様も本がお好きで、私はまだ読んだことのない物語をたくさんご存じだった。
お互いに知っている本の感想を話している時間が楽しくて、私はすっかり初対面だということも忘れてしまうくらいに話が弾んでいた。
しばらくして、大人達のお話が終わったのだろう、庭園の方から穏やかな声が聞こえてきた。
「セシル、そろそろお帰りよ。お見送りの準備をして」
「はーい」
返事をしたセシル様へ近付いてきたご婦人は、私を見るとにこやかに微笑んだ。
「アシュリー嬢、息子と仲良くしてくださってありがとうございます」
その一言を聞いた瞬間、私は何を言われたのか分からず、ぽかんとそのご婦人を見つめてしまった。
――息子?
今、この方は確かにそうおっしゃった。では、私がさっきから「セシルちゃん」と呼んでいた相手は。
恐る恐る隣を見ると、セシル様はいたずらっ子のように笑いながら私を見返している。そこでようやく、自分がとんでもない勘違いをしていたことに気付いた。
「も、申し訳ありません! 私、てっきり同じ女の子だと思って、セシルちゃんだなんて呼んで……!」
顔から火が出そうな思いで慌てて立ち上がり、勢いよく頭を下げると、頭の上から堪えきれなかったような笑い声が聞こえてきた。
「ふふ、ごめんね。途中で言おうかとも思ったんだけど、アシュリーが楽しそうにお話ししてくれていたから、何となく言いそびれちゃって」
その声はからかうようなものではなく、本当に少し困ったような、それでいて楽しそうな笑い方だった。
私は恥ずかしくて顔が熱いまま何度も謝ったけれど、セシル様もご両親も笑っていて、誰一人セシル様の性別を間違えた私を責めたりはしなかった。
それどころか、その日以来、顔を合わせるたびにおすすめの本を教え合ったり、お互いに読んだ本を貸し借りしたりするようになり、気付けばセシル様は私にとって、何でも本の話ができる大切な友人になっていたのだった。




