世界の外
どうして泣いているのか。セシル様にそう尋ねられても、私はすぐに答えることができなかった。
食堂を飛び出した時から、ただ胸が苦しくて、これ以上あの場にいたら二人の前で泣いてしまうと思ったから逃げてきただけで、自分が何にこれほど傷付いたのか、どうして涙が止まらなくなってしまったのかは、私自身が分かっていなかったのだ。
「私にも……分からないんです」
どうにかそれだけ答えると、セシル様はそれ以上問い詰めることなく、胸元から取り出した白いハンカチを差し出してくださった。縁が灰色の糸でかがってあって、コーナーに銀糸で小さな花が刺繍された、セシル様らしいオシャレで綺麗なものだった。
「ありがとう、ございます」
受け取ったハンカチで目元を押さえるとふわりと柔らかい柑橘系の香りがした。泣き止まなければと思うのに、優しくしていただいたことに安心してしまったせいか、かえって涙が次々と溢れてきてしまう。
セシル様はそんな私を急かすことなく、渡り廊下のすぐ先の中庭に置かれた長椅子までゆっくり連れていってくれた。私が腰を下ろして少し落ち着くまで隣には座らず、近くの柱へ背を預けて待ってくれる。
「大丈夫? 何があったか聞いても……いい?」
「……はい」
何から説明すればよいのか分からず、私は手の中のハンカチへ視線を落としたまま、少しずつランチであったことを思い返して最初から話していった。
「先ほどまで、アラン様と昼食をいただいていたんです。そこへカレン様がいらして……昨日、体調を崩したところをアラン様に介抱してもらったからと、お礼を言われたんです」
「何かあったの?」
「昨日……アラン様は私との観劇の約束へ来られなかったんです。親睦会のあとで眠ってしまわれて、朝起きた時に具合の悪いご友人がいたから、医者を呼んだり、お薬やお水を用意したりしているうちに時間が過ぎてしまったのだと、昨夜家に謝罪に来ていただきました」
セシル様の青い瞳が僅かに細められたけれど、途中で何かを尋ねることはなく、そのまま私の話を聞いてくださっている。
「私は、別に怒ってはいないんです。劇場へいらっしゃらなかったことは悲しかったですけれど、具合の悪い方を放っておけなかったのなら仕方がありませんし、アラン様にもそのご友人にも何事もなくてよかったと思いました。けれど今日、その方がカレン様だったと知って……」
そこで、また喉の奥が詰まった。
カレン様が、アラン様に水や薬を用意していただいたことを楽しそうに話し、アラン様の髪へ触れようとした時の光景が頭へ蘇る。アラン様にとっては何でもない、気心の知れた友人とのやり取りだったのだろう。だからこそ、あの場で一人だけ胸を痛めていた自分の方がおかしいような気がして、言葉にすることが難しかった。
「カレン様は、アラン様がとても優しく介抱してくださったことを話して、優しい婚約者だと褒めてくださっただけなんです。それに、お二人は何もやましいことをしていません。それは分かります。カレン様が二日酔いで動けなかったから、アラン様がご友人として助けただけで……本当に、それだけなのに」
ハンカチを握る指へ力が入る。
「どうしてか、あの場にいられなくなってしまったんです。泣きそうになって、逃げ出してきてしまって……昨日は仕方がないと思えたのに、カレン様だったと知っただけでこんなふうになるなんて、やっぱり私が嫉妬深いのでしょうか」
最後まで話し終えると、セシル様はしばらく何も言わなかった。私の言葉を一つずつ頭の中で確かめるように黙ってから、やがて穏やかな声で尋ねる。
「アシュリーが今悲しいのは、アラン様が観劇の約束を破ったことだけなのかな」
「それ、だけでは……ないと思います。相手がカレン様だと知って、もっと悲しくなったんです」
「じゃあ、具合の悪い友人を助けなければよかったと思ってる?」
私はすぐに首を横へ振った。
「いいえ。困っている方を助けたことを責めたいわけではありません」
「うん。そうだよね」
セシル様は私の答えに頷くと、少し考えるように長い睫毛を伏せた。
「僕は聞いていて、二人で決めた約束があったのに、後からカレンさんだけ例外にされてしまったことが悲しかった……そう聞こえたかな」
「……例外」
「アシュリーは一度、女性のいる場所で朝まで過ごされるのは悲しいと、ちゃんと自分の気持ちを話したんだよね? それでアラン様も、もうしないと約束してくれた」
私は頷いた。
「でも実際に同じことが起きたら、カレンさんは『男友達みたいなものだから』って、その約束が適用されない特別扱いにされてしまった」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が小さく痛んだ。
私は、アラン様がカレン様を男友達と同じように思っていることを疑っていない。それでも私にとって、カレン様は他の女性と何も変わらない。だから嫌だったのだと以前伝えたつもりだったのに、結局アラン様の中では、カレン様だけは最初から約束に含まれていなかった。
「でも、アラン様はわざと眠ったわけではありませんし、泊まらずに帰るつもりで気を付けてくださっていたんです」
「そうだね。でも約束を破ろうとしたわけじゃなかったことと、結果としてアシュリーがまた傷付いたことは、どちらも本当なんじゃないかな」
セシル様は、アラン様を責めるような言い方をしなかった。ただ私がこれまでどちらか一方しか認めてはいけないと思い込んでいた二つの事実を、並べて見せてくださった。
アラン様に悪意はなかった。けれど私は悲しかった。
それは、同時に存在していてもよかったのだろうか。
「それに、嫉妬が混じっていたとして、それの何が悪いの?」
セシル様の声が、ほんの少しだけ強くなる。
「婚約者が別の女性と朝まで同じ部屋にいたんだよ。嫌だと思うのも仕方ないんじゃないかな」
私はセシル様のその言葉に、目をぱちくりとさせた。
「それに、ほかの人が平気だとしても関係ない。アシュリーは一度、嫌だときちんと伝えて、アラン様も約束したんでしょう?」
「……はい」
「なら、約束を守ってもらえなくて悲しいと思うことまで、君が申し訳なく思う必要はないよ」
いつも柔らかく笑っているセシル様の顔には、今は笑みがなかった。私の代わりに怒ってくださっているような真剣な眼差しを見ていると、涙の理由も分からないまま自分を責め続けていた心が、少しだけ軽くなっていく。
セシル様はそこで一度言葉を切ると、ふと思い出したように続けた。
「そういえば午前中、アシュリーが教室で『野営術』なんて本を読んでいたから、珍しいなと思っていたんだ。いつも選ぶ本とは随分傾向が違うよね」
「それは……アラン様のことを、もっと知りたくて……共通の話題に出来るかとおもって選んだのです」
カレン様とお茶をした時、普段のアラン様についてたくさん話を聞いた。私には分からない話ばかりだったから、せめて知識だけでも知って、いつかアラン様ご本人からお話を伺えるようになりたいと思ったのだ。
そう説明すると、セシル様は悲しそうにも見える目で私を見つめた。
「アシュリーは、ずっとアラン様の世界を知ろうとしているよね。普段なら選ばない本まで読んで、カレンさんとも仲良くなろうとして、自分の気持ちもどう言えば伝わるのか一生懸命考えていた」
「私は婚約者ですから、それくらいは……」
「うん。婚約者のことを知りたいと思うのは自然なことだよ。でも婚約者同士って、本来なら片方だけが相手の世界へ歩み寄るものではないはずでしょう?」
そう言われて、私はすぐに返事をすることができなかった。
「もちろん、アラン様がアシュリーへ何もしていないと言いたいわけじゃないよ。君のために店を調べたり、早くから待ち合わせへ来たり、歩幅を合わせたりしているのも僕は知ってる。でも、カレンさんとのことについては、君ばかりが二人の『普通』に自分を合わせようとしているように、僕には見えるんだ」
二人の『普通』。
その言葉に、以前感じた小さな痛みがふいに蘇った。
あれは、まだカレン様と仲良くなろうとお茶へ誘うより前のことだった。
放課後、アラン様と中庭でお話をしていたところへ、カレン様が分厚く野暮ったい外套を抱えて現れたのを思い出す。
『アラン、これ返す。前に借りて、そのままになってた』
『遅い。いつまで持ってるつもりだったんだ』
『悪かったって。それより、袖のボタンが取れかけてたから付けといたよ』
そう言って広げられた濃紺の外套には、地味な布地へ似つかわしくない桃色の糸でボタンが縫い付けられていた。
『桃色の糸ぉ? もっと他になかったのかよ』
『手元にこれしかなかったんだよ。取れるよりマシだろ』
アラン様が本気で嫌がっている様子はなく、訓練中に着るものだからボタンが留まれば何色でも構わないと、そのまま受け取ろうとしていたので、私は白い糸で付け直しましょうかと申し出た。
『いや、いいよ。たかが訓練用の外套だし、わざわざアシュリーにやり直してもらうほどのものじゃないから』
『ボタンが取れかけてるの、気付かなかったの? 駄目じゃんアシュリー。婚約者なら、こういうところをちゃんと気にしてあげないと。がさつなあたしに先に気付かれるなんて相当だよ?』
冗談めかして笑われて内心ショックを受けていると、アラン様はすぐに私を庇うように言ってくださった。
『こんなダサい学校指定の外套なんて、アシュリーの前で着たことがあるわけないだろ。使うのは、冬の模擬試合の順番待ちの時くらいだ』
『へえ。じゃあ、あたしといる方がアランは素を見せてるってことだね』
『当たり前だろ。アシュリーには格好いいところしか見せたくないからな』
あの時は、アラン様の言葉は嬉しかった。
私には格好いい姿を見せたいと思ってくださっている。それは、婚約者として大切にされている証拠のはずだった。
それなのに同時に、カレン様だけは野暮ったい外套を着た姿も、取れかけたボタンも、格好をつけていない普段のアラン様も知っているのだと見せつけられたような気がして、二人の間には、私には入れない場所があるように思えてしまったのだ。
あの時に感じた小さな惨めさと、今日、寝癖のついたアラン様を何度も見たと笑うカレン様の言葉を聞いた時の痛みはよく似ている。
ただ、今日の痛みは、あの時とは比べものにならないほど大きかった。
「私……」
自分の中で、ばらばらだったものが少しずつつながっていく。
「カレン様が、私の知らないアラン様を知っていることが嫌だったのでしょうか」
「それもあるかもしれないね。でも、ただ知っていることに嫉妬しただけなら、こんなに苦しくはならなかったんじゃないかな」
セシル様は答えを決めつけることなく、私が自分で考えられるように静かに待ってくださった。
私はアラン様を知ろうとしたし、分かってもらおうとした。
普段なら手に取らない本を読み、カレン様とも仲良くなろうとして、自分が悲しいと感じたことも、どうすれば理解していただけるのか一生懸命考えて伝えた。
それでも、カレン様だけは例外になる二人の『普通』があり、その中へ私はどれだけ努力しても入れてもらえないように感じている。
「私は……お二人だけの世界の外へ、取り残されたように思って悲しかったのですね」
その言葉を口にした瞬間、胸を締め付けていた痛みにようやく名前が付いたような気がした。
この痛みは、私の心が狭いから生まれたものではない。
私はアラン様のことを知ろうとして、嫌だったこともきちんと伝えた。それでも、カレン様だけが例外にされてしまう。二人がいる世界の外へ、私だけが取り残されたように感じたから、こんなにも悲しかったのだ。
「そうだったのですね……」
今度流れた涙は、先ほどまでのものとは少しだけ違った。
悲しみが消えたわけではないし、何かが解決したわけでもない。それでも、自分の感情をそのまま認めることができただけで、呼吸が少しだけ楽になった。




