喪失
翌日の昼休み、私は昨日ご一緒できなかった時間を少しでも取り戻せたら、思いながらアラン様と待ち合わせていた食堂へ向かった。
昨夜、アラン様から事情を伺い、観劇の約束を守れなかったことを何度も謝っていただいた。次の公演は必ず席を取り直すと言ってくださったし、具合を悪くしたご友人にも大事はなかったのだから、もう気にする必要はない。捨てられずに引き出しの奥へしまったチケットを思い出すとまだ少しだけ胸が寂しくなったけれど、それもきっと今日アラン様とお話をすれば薄れていくのだろうと思っていた。
先に席を取って待ってくださっていたアラン様は、私を見つけると立ち上がり、もう一度申し訳なさそうに昨日のことを謝ろうとした。
「昨夜も十分に謝っていただきましたから、もう大丈夫ですわ」
「でも、せっかく楽しみにしていたのに」
「次の公演へご一緒してくださるのでしょう?」
「もちろんだ。今度こそ絶対に行く」
真剣に頷く姿を見ていると、昨日のことを本当に後悔してくださっているのが分かり、責めたい気持ちなど最初からなかった私は自然に笑うことができた。
料理を注文し、今日は何を話そうかと考えていたところで、聞き慣れた声が後ろから飛んできた。
「アラン、昨日は迷惑かけて悪かったね。これ、お詫び!」
振り返ると、見慣れた騎士科の制服を着たカレン様が、茶色い紙袋を片手にこちらへ歩いてきたところだった。
アラン様は肩を叩かれながら渡されたそれを受け取ると、中身を確認することなく少し呆れたように眉を上げる。
「お詫びなんてよかったのに」
「いやいや、本当に悪かったって思ってるからさ」
カレン様はそのまま当然のように空いている椅子を引き、私達と同じテーブルへ座った。今日は二人だけで昼食をいただくつもりだったけれど、昨日アラン様へ迷惑を掛けたお詫びを伝えに来たのだから、私には先に着くのを遠慮して欲しいなどとは言えなかった。
「昨日、ですか?」
しかし、今のやり取りには気になることがある。
私が尋ねると、アラン様は紙袋を脇へ置きながら、少しだけ言いづらそうな顔をした。
「あー……例のさ。昨日話した、体調を崩していた友人っていうのが、こいつなんだ」
「……カレン様が?」
思わず聞き返した声は、自分で思っていたよりも掠れていた。
アラン様は、前日の親睦会のあとで眠ってしまい、目覚めた時には体調を崩したご友人がいたため、医者を呼んだり水や薬を用意したりしている間に観劇の約束へ遅れてしまった……と昨日説明してくださった。
その場にいたご友人がカレン様だったのなら。
「カレン様のいらっしゃるお部屋で、朝まで過ごされたのですか?」
尋ねると、アラン様は私から気まずそうに目を逸らすと、曖昧に首を横へ振った。
「いや違う、アシュリーとの約束を忘れていたわけじゃないんだ。カレンと言えど女がいる場所で朝まで過ごさないように、酒の量にも時間にも気を付けていた。でも……気付いた時には眠ってしまっていて、もう朝だったんだ」
「昨日はあたしがこいつに結構飲ませちゃったんだよ」
カレン様が、申し訳なさそうな口調とは裏腹に、どこか軽い笑顔で肩を竦めた。
「ごめんね、アシュリー。あたしが悪いんだ」
「本当だ。一昨日のお前はかなりしつこかったぞ。帰るって言ってるのに、あと一杯くらいいいだろって何度も注いできて」
「いやあ、その辺は酔ってたから全然覚えてないんだよね」
「反省してるのか、お前は」
アラン様が呆れたように言うと、カレン様は楽しそうに笑いながら、その肩へ馴れ馴れしく手を置いた。
「だから謝ってるじゃん。こうしてお詫びも持ってきたし」
「ものを渡せば許されると思うなよ」
「でも受け取っただろ?」
二人にとっては、いつもの軽口なのだろう。アラン様も本気で怒っているわけではなく、昨夜のことも、カレン様に悪意があったわけではないのだからと、すでに大きな問題とは思っていないように見えた。
けれど、私は二人と同じように笑うことができなかった。
アラン様は、私が悲しいと伝えた時、もう女性がいる場所で朝まで過ごさないと約束してくださった。今回も守ろうとはしてくださったのだろうし、わざと眠ったわけではないことも分かる。
それでも実際には、またカレン様と同じ場所で一晩を過ごし、そのせいで私との約束へ来ることができなかった。
「アラン様……私と約束しましたよね。女性のいらっしゃる場所で、朝まで過ごさないと」
「ああ。それは本当に悪かったと思ってる」
アラン様はすぐに謝ってくださったけれど、その表情には、どうして私がこれほど動揺しているのか分からないという戸惑いも浮かんでいた。
「でも、わざとじゃないんだ。それに女と言っても、最後まで残っていたのはカレンだけだぞ? こいつは男友達みたいなものなんだから、何か心配するようなことは本当にない」
また、その言葉だった。
以前は、カレン様を女性として見ていないことと、私が悲しいことは別なのだと伝えたつもりだった。アラン様も分かったと言って、これからは気を付けると約束してくださったと思った、のに……。
……カレン様だけは例外で、特別で、その約束に含まれていないかのような言い方をされで、胸の奥にじわりと痛みが広がる。
「でも、私は……」
「昨日事情を話した時は、友達思いなんですねって言って、怒ってなんてなかったじゃないか」
責める口調ではなかった。アラン様はただ、本当に不思議に思っているだけなのだろう。
昨日の私は、体調を崩したご友人が誰なのか知らなかった。男性なのか女性なのかも考えず、ただ具合の悪い方を助けたのなら仕方がないと思った。
けれど、そのご友人がカレン様だったと知った途端に悲しくなった自分は、やはり嫉妬深く、心の狭い人間なのだろうか。
「そうそう。アランはダチのあたしが具合悪くなったのを放っておけなくて、面倒見てくれただけだって」
カレン様はアラン様の肩へ置いた手を離さないまま、私へ向かって笑った。
「でもアランって本当に優しいよね。昨日も起きたら、あたしが二日酔いで動けなくなってるのを見て、すぐに水を持ってきて、医者を呼んだり、薬を用意したり、かいがいしく世話してくれたんだよ」
「お前があのまま吐きそうな顔で唸ってたからだろ。いつも世話になってる店に迷惑を掛けるわけにいかないし、焦るだろ」
「そんなこと言っちゃって、優しいって言われて照れてるのか? 可愛いとかもあるんだな」
アラン様は心底呆れているようだった。
面倒をみたこと自体は、体調を崩した友人なら誰にでもしたことなのだと思う。そこに特別な意味などなく、アラン様の優しさと責任感から取った行動にすぎない。
分かっているのに、私が劇場の前で一人待っていた朝、アラン様はカレン様へ水や薬を運んだりとお世話されたのだと知ると、胸の奥に残っていた寂しさが急に膨らんでいく。
「こんなに優しい婚約者で、アシュリーは幸せだね」
そう言って笑うカレン様の言葉に、どう返せばいいのか分からなかった。
そう、幸せ……な、はずだった。
アラン様は私に優しくしてくださる。昨日も何度も謝ってくれて、心から反省されてるのも分かったし、次は必ず埋め合わせをすると約束してくださった。
けれど、今目の前で交わされている二人だけの朝の話は、完全に二人だけの世界だった。事情を説明されるたびに、知らなかった光景が増えていき、まるで私だけが置き去りにされているようだった。
「お前なあ、反省してるのか? そもそもお前がしつこく酒を勧めてきたせいなんだからな」
「だからごめんって。酔ってたから、本当に覚えてないんだよ」
カレン様は悪びれた様子もなく笑い、ふと何かに気付いたようにアラン様の髪へ手を伸ばした。
「それにしても、毎回お前の寝癖ってすごいことになってるよね。昨日も後ろが変な方向へ跳ねてたけど、あれ、いつもどうやって直してるの? 今は綺麗にセットされてるけど」
「おい、髪に触るなよ」
アラン様は顔をしかめ、カレン様の手を軽く払い除けた。
「水で濡らして櫛を通して乾かして整髪剤を使ってるんだよ」
「へえ。毎回あんなに爆発してるのに器用だな」
二人が笑いながら続けるやり取りを聞いているうちに、呼吸が上手くできなくなった。
寝起きのアラン様の、髪を整える前の誰にも見せるつもりのない姿。
私が一度も見たことのないアラン様を、カレン様は何度も見ている。
そのことが悲しいのか、約束を破られたことが悲しいのか、私との観劇よりカレン様の介抱を優先されたことが悲しいのか、それともカレン様へ嫉妬しているだけなのか、自分でも分からなかった。
分からないのに、目の奥が急に熱くなり、このままここにいれば泣いてしまうということだけは分かった。
「……申し訳ありません。少し、気分が悪くなって」
「アシュリー?」
アラン様が心配そうにこちらを見たけれど、今顔を上げれば涙を見られてしまう。
「昼食はこれで失礼します。少し外の空気を吸ってから教室に戻りますね」
「大丈夫か? 俺も行くよ」
「いいえ、一人で大丈夫です」
止められる前に立ち上がり、鞄を抱えて食堂を出た。
背後から名前を呼ばれた気がしたけれど、振り返ることはできなかった。人の多い廊下を足早に進み、誰にも顔を見られない場所を探して、校舎の裏手へ続く細い渡り廊下へ逃げ込む。
昼休みの終わりが近いせいか、そこには誰もいなかった。
石造りの柱の陰まで来たところで、張り詰めていたものが切れたように力が抜け、私は壁へ背を預けた。
泣いてはいけないと思うほど、涙が溢れてくる。
私が泣く理由なんて何もないはずなのに。
アラン様は私を裏切ったわけではないし、カレン様を女性として見てもいない。
具合の悪い友人を助けただけで、それを責める方がおかしい。
そう分かっているのに、どうしてこんなに苦しいのだろう。
「……アシュリー?」
誰もいないと思っていた渡り廊下へ、驚いたような声が響いた。
涙で滲んだ視界のまま顔を上げると、少し離れた場所にセシル様が立っていた。
いつも柔らかく微笑んでいるその顔から笑みが消え、私を見つめる瞳が心配そうに揺れている。
「どうしたの……? 何があったの?」
そう尋ねられても、私は答えることができなかった。
自分でも、どうして泣いているのか分からなかったから。




