約束
王立劇場の正面玄関へ着いた時、開演まではまだ四半刻ほど残っていた。
今日は以前から楽しみにしていた新作の観劇を、アラン様と二人で楽しむ約束をしている。英雄とヒロインの恋模様を描いたお話そのものももちろん原作を読み込むくらい好きだけれど、それ以上に、この劇を一緒に観たあとで登場人物の選択について感想を話したり、帰りにどこかへ寄って夕食をいただいたりする時間を楽しみにしていた私は、いつものように約束の時刻より少し早く着くように家を出てきていた。
けれど、劇場の前にはまだアラン様の姿がなかった。
いつもなら私がこのくらい早く到着しても、アラン様は必ずそれより先に待っていてくださる。朝が苦手だと知った後は、待ち合わせの時刻をもう少し遅くすることを提案したこともあったけれど、「アシュリーを待つのも楽しい時間だから」と笑って、それからも一度だって私を待たせたことはなかった。
だから、今日もきっと先にいらしていると思っていたのだ。
劇場前には、同じ公演を見るらしい人々が次々と到着していた。華やかなドレスをまとった令嬢を男性が馬車から降ろし、腕を差し出して劇場へ入っていく。きっと私たちと同じようにテラス席のチケットを取っているのだろう。
家族連れや友人同士で来た方々の楽しそうな話し声が辺りを満たしている中、私は付き添いの侍女とともに、邪魔にならないよう入口から少し離れた場所でアラン様を待った。
「何か事情があって、少し遅れていらっしゃるのでしょうか」
侍女が気遣うように声を掛けてくれたので、私は頷いた。
「ええ。急な用事が入ったのかもしれないわ」
そう答えながら、少しだけ不思議に思う。何か事情ができたなら、アラン様は必ず事前に知らせてくださるから。
そもそもこの観劇だって、「アシュリーは観劇が好きだったよな。この劇は有名な英雄譚が原作だそうだから、俺も楽しめそうだし一緒に見てみたい」と誘ってくださったのだから、約束そのものを忘れているとも思えない。
それに、本来の待ち合わせの時刻まではまだ少しある。
私は行き交う人々の間に見慣れた金色の髪を探しながら、鞄の中に入れてきた入場券へそっと触れた。焦る必要はない。何か事情があるとしても、アラン様ならきっと間に合うように来てくださる。
……けれど、約束の時刻を過ぎても、アラン様は現れなかった。
劇場の係員が、開演が近いことを知らせるため玄関先の鐘を鳴らす。先ほどまで外で談笑していた人々も少しずつ中へ入り始め、劇場前は急に人が減っていった。
どうしたのだろう。
遅れていることよりも、連絡がないことが気になった。もしかして、アラン様の身に何か起きたのではないだろうか。訓練中に怪我をしたのか、それともここへ向かう途中で事故に遭ったのか。考えたくない想像ばかりが浮かび、胸の内側がひどく落ち着かなくなってきた、その時だった。
「ウェルズ伯爵令嬢!」
人通りの少なくなった道の向こうから、こちらへ向かって駆けてくる男性がいた。
見覚えのある顔だった。何度か、クロフォード家を訪ねた時に案内をしてくださった、アラン様付きの従者の方だった。普段はきちんと整えられている髪が乱れ、息を切らしているうえ、顔色も青ざめているように見えた。
「どうなさったのですか。アラン様に、何か……?」
「申し訳ございません。若様は、まだこちらへいらしておりませんか」
「いいえ。私もずっとお待ちしていたのですが……」
その返事を聞いた従者の顔が、ますます強張った。
「……実は、若様は昨夜から屋敷へお戻りになっておりません。昨晩は騎士科のご友人方と親睦会へ参加なさるとは伺っていたのですが、今朝になってもお帰りにならず、使いを出して学園やお心当たりのある場所を探しているところでございます」
「昨夜から……」
アラン様が、家にも戻っていない。
その事実を知った瞬間、遅刻しているアラン様に感じ始めていた不満など吹き飛んでしまった。
「これまでに、連絡なく外泊なさることはあったのでしょうか」
「ご友人とのお酒の席ですと、稀に……。ですが、今日はウェルズ伯爵令嬢との大切なお約束があると、若様ご自身が何度も話しておられましたので……なのにお戻りにならないというのは、私共にも考えにくく」
この方も戸惑っているようだった。
連絡もなく一晩戻らないこと自体は今までにもあったらしいが、それでも今日に限っては何かがおかしいと感じて探しに来た。そう理解すると、胸の中に広がる不安がますます大きくなった。
「近隣の病院などは確認されたのですか?」
「はい。この付近で若様と思われる患者が運び込まれた記録はございませんでした。今は親睦会に出席されていた方々を探して順に訪ねておりますが……」
「でしたら、事情は分かりましたから、私のことは気にせず引き続きアラン様を探してください。ただ、何か分かりましたら、ウェルズ家にも知らせていただけますか」
「かしこまりました。本当に申し訳ございません」
何度も頭を下げる従者へ、謝る必要はないと伝えて送り出す。
劇場の前には、もうほとんど人が残っていなかった。開演を知らせる最後の鐘が鳴り、係員が入口の扉を閉める準備を始めている。
「お嬢様、いかがなさいますか」
侍女から心配そうに尋ねられたけれど、一人で劇を見る気にはなれなかった。アラン様が来ないなら、観劇を楽しむどころではない。それでも、もしかしたら今にも姿を現すのではないかと思うとすぐに帰ることもできず、私は開演の時刻を過ぎるまで、閉じられた扉の前で待ち続けた。
けれど結局、アラン様が現れることはなかった。
帰りの馬車の中でも、劇を見ることができなかった残念さより、アラン様の身に何かあったのではないかという不安ばかりが頭を占めていた。窓の外を流れていく王都の景色を見ていても、アラン様が劇場に向かって走っていないかと無意識に探してしまう。
屋敷へ戻ってからも落ち着かず、そわそわと外を気にしてしまう。
家族からは、クロフォード家から連絡が来ればすぐに知らせるから休んでいなさいと言われたけれど、自室へ戻っても本を読む気にはなれない。何度も同じページへ目を落としては、文字が少しも頭へ入ってこないまま窓の外が暗くなっていった。
本当だったら、今頃アラン様とレストランに向かっていた頃だろうか。
もう一度クロフォード家へ使いを出した方がよいのではないかと考え始めた頃、廊下から慌ただしい足音が聞こえ、ほどなくして使用人が扉を叩いた。
「お嬢様。クロフォード家のアラン様がお見えです」
その言葉を聞いた途端、私は椅子から立ち上がった。
応接室へ急ぐと、そこには少し疲れた顔をしたアラン様が立っていた。怪我をしている様子はなく、顔色も悪くない。いつもより髪が乱れているけれど、自分の足でこちらへ来たということは体調に問題はないのではないだろうか。
無事だった。
そう分かった瞬間、胸の奥を締め付けていた不安が一気にほどけ、思わずその場で力が抜けそうになる。
「アラン様……ご無事だったのですね」
「心配を掛けて、本当にすまなかった」
アラン様は私の前まで来ると、深く頭を下げた。
「今日の約束に行けなかったことも、連絡すらできなかったことも、全部俺が悪い。どれだけ謝っても足りないと思ってる」
「お顔を上げてください。何か事故に遭われたのではないかと心配していたので、こうして無事に来てくださっただけで……」
それだけでよかった、と言おうとしたけれど、最後まで言葉にすることはできなかった。
無事でよかったという気持ちは本物だった。しかし、その安心とは別の場所に、今日ずっと待っていた寂しさが小さく残っている。無事だったのはよかった。では、だったら、どうして? さっきまでは見えなかった気持ちが湧いてきてしまう。
「昨夜からお戻りになっていなかったと伺いました。何があったのですか?」
「……実は、昨日は騎士科の連中で飲んでいたんだが。もちろん、遅くならないうちに帰るつもりだったんだけど……気を付けていたはずなのに、途中で眠ってしまったらしくて」
アラン様は申し訳なさそうに眉を寄せた。
「目を覚ました時には、もう朝になっていた。それだけでもまずいと思ったのに、その場にいた友人の一人が体調を崩していて、まともに起き上がることもできない状態だったんだ」
「まあ……」
「放って帰るわけにもいかなくて、店の者に頼んで医者を呼んだり、水や薬を用意したりしてやっていたのだが。医者から大事はないと言われて、ようやく時計を見た時には、もう待ち合わせの時刻を大きく過ぎていて……」
「そのご友人は、もう大丈夫なのですか?」
「ああ。酒を飲みすぎたのと、寝不足が重なったらしい。医者が診たらすぐに元気になったよ」
それを聞いて、ほっとした。
アラン様も無事で、具合を悪くしたご友人も大事には至らなかった。今日の約束を忘れていたわけでもなく、体調を崩した方のために医者を手配したりして時間が過ぎているのに気付かずにいたのなら、仕方のない事情だったのだろう。
「そんなご事情があったのなら、仕方ありませんわ」
「でも、途中で誰かに伝言を頼むことはできたはずだ。気が動転していて、そこまで頭が回らなかった。本当に申し訳ない」
「具合の悪い方を前にしていたのですもの。アラン様は、ご友人思いなのですね」
「約束を破った俺を、そんなふうに褒めないでくれ、アシュリー。本当に悪かったと思ってるんだ」
困ったように眉を下げるアラン様を見ていると、私はこれ以上彼を責める気持ちにはなれなかった。
「次の公演の席は、必ず俺が取り直す。今日の埋め合わせもさせてほしい」
「はい。では、その時はご一緒してください」
「もちろんだ」
今度こそ約束すると言うように、アラン様は真剣に頷いた。
そのあと何度か謝罪を重ね、遅い時刻だからとアラン様は帰っていった。玄関まで見送った私は、馬車が門の向こうへ消えるまでその場に立っていた。
何も悪いことは起きていなかった。
アラン様に怪我や急病があったわけではない。約束を忘れてもいなかった。ただ、具合の悪い友人を助けていて、気が付いたら思ったより時間が経っていただけだったのだ。お酒を飲む集まりでうっかり寝てしまうのは気を付けて欲しいけど、そのほかはこれ以上責めるようなことではないし、むしろ困っている人を放っておけない優しい方なのだと、そう思う。
それなのに、自室へ戻って鞄の中に残ったままの入場券を見た瞬間、胸の奥がひどく寂しくなった。
今日のために選んだドレスも、劇を見終えたあとで話そうと思っていたことも、アラン様と一緒に過ごせるのを楽しみに待っていた時間も、すべて行き先を失ったまま宙ぶらりんで残っている。
これ以上、考えてはいけない。具合の悪い方を助けたアラン様へ、私との約束を優先してほしかったなどと言えば、あまりにも薄情な人間になってしまう。人の体調より自分との観劇を大切にしてほしいと望んでいるようで、そんなことを考えた自分が恥ずかしくなる。
だから、悲しいとは言えなかった。
仕方のないことだったのだと何度も自分へ言い聞かせながら、私は使われることのなかった入場券を、見えないようにそっと引き出しの奥へしまった。




