第7話「四ヶ月目の証書」
朝、私は実家の庭に出ていた。
実家に戻って二週間が経っていた。庭の白薔薇は、雨の三日間で散った花の代わりに、新しい蕾をいくつか膨らませていた。私は籠を腕にかけて、剪定鋏を握っていた。八年ぶりに自分で薔薇の世話をしていた。指が覚えていた。十五歳の頃、母が亡くなる前に教えてくれた切り方。「外向きの芽の、二節上で」。母の声を、二週間ぶりに、はっきりと思い出した。
ハロルドが、庭の小径を歩いてきた。
「奥様。モンフォール子爵家のことで、ご報告がございます」
私は剪定鋏を籠の中に置いた。
「どうぞ」
「三年前、奥様が肩代わりされたモンフォール家の借金。あの返済期限が、来週でございます」
私は頷いた。
知っていた。三年前、私自身が筆を執って書いた借用証書だった。ヴァレンス伯爵夫人リネアの個人名義で、モンフォール子爵家に金を貸し付けた。期限は四年後の春。返済不能の場合、子爵領の南半分の譲渡を担保とする、と記した。
あの時のセレナの母は、応接間で私の手を取って泣いた。「リネア様、あなた様だけが頼りです、娘はあなた様を本当の姉のように慕っております」と。私はその言葉を信じた。いや、信じたかった。八年間、私はずっと、信じたかったのだ。
「モンフォール家には、返済の余裕は」
「ございません。むしろ、ここ二週間で更に悪化しております。子爵夫人が王都中の貴族家に手紙を書きまわっておられるのは、ご報告の通りでございますが、その手紙の内容が、最近では支離滅裂なものになっていると、複数の家から知らせが来ております」
「支離滅裂?」
「同じ手紙の中で、"娘は被害者だ"と書きながら、次の段で"娘がもう少し賢ければ"と書いておられる。受け取った側は、子爵夫人の正気を疑い始めております」
私は籠の中の薔薇の蕾を、一つ、指でそっと触れた。
「ハロルド」
「はい」
「期限は、延ばしません。来週、予定通り、譲渡の手続きを進めましょう」
「かしこまりました」
「ただし」
私は顔を上げた。
「子爵領の南半分は、私の名義に移った後、村々の自治組合に無償で貸し付けます。借地料は取らない。耕作権はそのまま村人たちに残す。私は、何もしない。ただ、領主の名前が変わるだけ」
ハロルドが、しばらく私を見ていた。
それから、深く礼をした。
「奥様。それは、子爵夫人にとって、最も恐ろしい結末でございます」
「ええ」
私は籠を持ち上げた。
「あの方は、領地の収益で生きてきた方ではありません。領地の名前で生きてきた方ですから」
その日の午後、王都のモンフォール子爵家別邸では。
セレナは廊下に立ち尽くしていた。
母の書斎の扉の前。中から、母の声が漏れていた。声というより、もう、悲鳴に近いものだった。
「なぜ! なぜ来週なの! あの女、三年前に貸した時には"いつでもお返事は気長に"と言っていたのよ、あの女! それが、なぜ、この時期に!」
セレナは扉に手をかけかけて、止めた。
母の声が続いた。
「ニーナ! 子爵領の南半分が、どうなるかわかっているの! あそこは、あそこは私たちの最後の名前なのよ! あの土地がなくなったら、モンフォール家は、もう、何もないのよ!」
セレナは、扉から手を離した。
三年前、母が応接間で誰かに金を借りて泣いていたことを、セレナはぼんやりと覚えていた。誰に借りたのかは、母は教えてくれなかった。「お前は気にしなくていい」と言った。「お前は、お前の仕事をしてくれればいい」と。
セレナの仕事。エドガー・ヴァレンスを、リネアから奪うこと。
セレナは廊下の壁に背中を預けた。
母の悲鳴が、まだ続いていた。
「あの女! あの女に決まっているのよ! 三年前から、ぜんぶ、ぜんぶ計算していたんだわ! 私たちが何をするか、ぜんぶ知っていて」
セレナは、ふと思った。
違う。母は今、間違っている。
リネアは、計算していなかった。
リネアはたぶん、三年前、本当に親友のためにお金を貸したのだ。本当に、心から、私のために。
そして今、リネアは、ただ、何もしていないだけだ。
何もしないことが、これほど痛いのだと、セレナは初めて知った。喉の奥の、扁桃腺のあたりに、誰かが小さな石を一つ置いた気がした。呑み込もうとしても呑み込めない、けれど吐き出すこともできない、ちょうどそのあたりに。
夕方、書斎の机に、二通の手紙が並んだ。
一通は、ハロルドが運んできた、王宮からの正式な書状だった。
『春の舞踏会の招待状』
封蝋に押されているのは、王家の紋章。差出人は、王宮儀典官。
私は封を切った。
『アーレンフェルト侯爵令嬢リネア様
来る春の宵、王宮広間にて開かれます春の舞踏会に、貴殿を、国王陛下より直々にお招きいたします。
なお、貴殿のお席は、王族傍系、ユリウス・アーレンフェルト殿の隣にご用意いたしております。
王宮儀典官 グスタフ・ローエン』
私は手紙を、机の上にそっと置いた。
そして、もう一通の手紙を取り上げた。
ユリウスからだった。今朝届いていたが、私はこちらを後回しにしていた。少し、心の準備が必要だったから。
封を切る指が、ほんの少しだけ、迷った。
『リネア
明日の午後、お訪ねしてもよろしいでしょうか。
王宮儀典官の書状が、もう届いていると思います。私の身分について、これまでお話ししなかったことを、お詫びしなければなりません。それから、お願いしたいことがあります。
明日、お時間をいただけるなら、その時に。
ユリウス』
私は手紙を二度、読んだ。
「リネア」。
書面で、彼が初めて私を、その名前で呼んだ。
私は手紙をそっと畳んで、机の抽斗にしまった。十年分の便箋の束の隣に。
翌日の午後、ユリウスは時間通りに来た。
書斎の扉から入ってきた瞬間、私は足を止めた。
ユリウスは、いつもの地味な学者の外套を着ていなかった。
紺色の、簡素だが仕立ての良い上着。襟元には、銀の小さな紋章が一つ。アーレン王家の傍系を示す紋章だと、私は知っていた。八年間、社交界で何度も見てきた紋章だった。ただ、それを身につけている人間を、間近で見たことがなかっただけで。
ユリウスは、書斎の中央で立ち止まった。
「驚かせたのなら、申し訳ありません」
「いえ」
私はようやく、口を開いた。
「お似合いですわ」
ユリウスは、ほんの少しだけ、目を伏せた。
「この服は、十年ぶりに袖を通しました。十年前、母、いえ、伯母にあたる方が亡くなった時の葬儀以来です。それ以来、ずっと、衣装箱の奥に仕舞っておりました」
「なぜ、十年間?」
「身分で繋がりたくなかったのです。図書館の北窓の机で、論文を書いている十五歳の少女と、その横で写本を読む地味な学者として、出会いたかった。実際、そうなりました。十年間、それで、十分だと思っていました」
ユリウスは机の前まで歩いてきて、椅子に座った。
私もその向かいに座った。
「来週の春の舞踏会のことで、お願いがあります」
「はい」
ユリウスは、組んだ指を見ながら言った。
「あの場で、あなたの隣に立たせてください。正式な、婚約者として」
書斎の窓の外で、白薔薇の上を、蜂が一匹、ゆっくりと通り過ぎた。今度は、本当に音が聞こえた。
私は、ユリウスを見た。
ユリウスは顔を上げて、私を見ていた。十年前、王立図書館の北窓の机で、私の論文を覗き込んだ時と、たぶん、ほとんど変わらない目だった。
「ユリウス」
「はい」
「一つだけ、確かめさせてください」
「どうぞ」
「あなたは、私を助けるために、来週、その服を着るのですか? それとも」
私は、言葉を選んだ。
「あなた自身が、私の隣に立ちたいから、ですか?」
ユリウスは、しばらく沈黙した。
それから、はっきりと、答えた。
「両方です。ただし、後者の方が、ずっと、強いです」
私は深く息を吸って、ゆっくりと吐いた。
「では、お受けします」
ユリウスは、ほっと小さく息をついた。
それから、机の上に置いた自分の手の指を、ほんの少しだけ、動かした。私の手の方に、近づけるように。けれど、触れる手前で、止めた。
私は、自分の手を、机の上に開いた。
ユリウスの指が、私の指の縁に、初めて、軽く触れた。
それは、八年ぶりに、誰かから差し出された、温かい指だった。手の甲のごく薄い皮膚の、爪のすぐ脇のところに、彼の指先の体温が、ほんのわずかだけ、移った。
ユリウスが帰った後、私はもう一度、机の抽斗を開けた。
二通の手紙。王宮からの招待状。ユリウスの手紙。そして、十年分の便箋の束。
その隣に、新しい手紙を書き始めた。
『執事ハロルドへ
来週の春の舞踏会のために、母の形見のドレスを出してください。白い方ではなく、紺色の方を。襟元に、白薔薇を一輪、挿します。
それから、ミラに伝えてください。"あの夜のこと"を、来週、話してもらいます。王宮の広間で、貴族の皆様の前で。覚えている限り、すべて。
リネア・アーレンフェルト』
私は手紙を畳んだ。
窓の外、王都の方角の空が、夕暮れに染まり始めていた。
その空の下のどこかで、たぶん今夜、モンフォール子爵夫人は、来週の証書のことで、初めて自分の娘に手を上げるかもしれなかった。
私はそのことを、考えなかった。
代わりに、白薔薇の蕾のことを考えた。来週までに、いくつ咲くだろうか。襟元に挿す一輪は、どの花にしようか。




