第6話「笑うところを、見たいから」
王都・モンフォール子爵家別邸の応接間は、午後の日差しでいつもより明るかった。
セレナ・モンフォールは、その明るさが少し恨めしいと思った。八年間、この応接間で何百回もお茶会を開いてきた。八年間、ここに座る女性たちは皆、彼女の方を見て、彼女の言葉を待ち、彼女の冗談に笑った。そういう場所だった。
今日は、誰も来ていなかった。
午後二時の約束で、四人。ローズ・バルトラム嬢、エミリー・ホワイトリー子爵令嬢、シャーロット・ベイカム伯爵令嬢、それから、いつも一番賑やかなアグネス・ペンブルック侯爵令嬢。
招待状は、五日前に出した。返事はすぐに来た。四人とも、「喜んで」と書いてあった。
それなのに。
セレナは扇を指の間でくるくると回した。回し続けた。回しすぎて、扇の骨が小さく軋んだ。
応接間の柱時計が、二時の鐘を打った。
それから、二時十五分の鐘を。二時半の鐘を。
誰も、来なかった。
「お嬢様」
侍女のニーナが扉から顔を覗かせた。声に、いつもの張りがなかった。
「玄関に、ペンブルック侯爵家からの使いの方が……」
セレナは扇の動きを止めた。
「アグネスが? 遅れているの? お通しして」
「いえ。ご本人ではなく、お手紙だけ預かってきたとのことで」
ニーナが差し出した封筒を、セレナは奪うように受け取った。
ペンブルック家の家紋が押された封蝋。割って、中の便箋を引き出す。
『セレナ様
本日のお招き、誠に申し訳ございませんが、お受けすることができません。
私の母が、本日付けで、あなたとのお付き合いを禁じました。母は理由を申しません。けれど、私自身、最近王都で耳にする話があまりに多く、お招きの席に向かう足がどうしても重うございました。
長年のお付き合いに、心より感謝申し上げます。
アグネス・ペンブルック』
セレナの指先が、便箋の端を握りつぶした。
「ニーナ。他の方々からは?」
「あの……バルトラム様とホワイトリー様からも、同じようなお手紙が、午前のうちに届いておりました。お嬢様のお気持ちを乱したくなくて、お渡ししそびれて……ベイカム様からは、何も……」
「何も?」
「はい。何も」
セレナは便箋を膝の上に落とした。扇も、その隣に落とした。
応接間の机の上には、彼女が朝から自分で並べた茶器があった。ヴァレンス家の応接間で、八年間、リネアが毎週のように出していた、あの茶器の真似をして揃えたもの。けれど、磨きが足りなかった。一つ、ティースプーンの位置が左右逆になっていた。
そんなことは、この八年間、誰も教えてくれなかった。リネアは何も言わずに、いつも勝手に揃えていた。八年間、ずっと。
セレナはふいに思い出した。十六歳の頃、初めてヴァレンス家のお茶会に呼ばれた日、リネアが応接間の入口で笑ってこう言ったことを。
「セレナ、お茶碗の柄、こちら側に向けるのよ。お客様に絵が見えるように」
セレナは「なんでそんな細かいことを」と笑った。リネアは少しだけ困った顔をして、「習慣だから」とだけ答えた。
その時、リネアの後ろの応接間の机では、すべての茶器の柄が、ぴたりと客の側を向いていた。
知らなかった。
セレナは初めて知った。
リネアは八年間、ああいうことを、何百個と、誰にも気づかれずに、誰にも、気づかれずに、八年間、ずっと。
セレナは応接間の自分の机を見た。
ティースプーンが、左右逆だった。
「お嬢様」
ニーナが、もう一度、扉から呼んだ。声がもっと細かった。
「玄関に、もうお一人……」
「誰?」
「お母様で、ございます」
セレナは顔を上げた。
廊下の奥から、足音がした。早く、強く、迷いのない足音。母の足音だった。
子爵夫人が応接間の扉を押し開けた。
母の顔は、青ざめていた。青ざめていたが、目だけが、奇妙に熱を持っていた。
「セレナ。今すぐ書斎に来なさい」
「お母様、お茶でも……」
「来なさい!」
応接間の柱時計が、三時の鐘を打った。
セレナは立ち上がった。便箋と扇は、机の下に落ちたままだった。彼女はそれに、気づかなかった。
同じ日の夕方、アーレンフェルト侯爵家の書斎では。
私は窓辺で、ハロルドが運んできた最後の書類に目を通していた。
「奥様。社交界の噂、今朝より更に広がっております。あの方が王宮の御用商人にも"金策"を打診したとのことで、商人ギルドが正式にヴァレンス家への信用を引き下げました」
「そう」
私はそれだけ言って、書類に署名をした。
「それから、モンフォール子爵夫人が、今朝、王都中の貴族家に手紙を書きまわっておられます。"娘のセレナは、ヴァレンス伯爵に騙された被害者である"と。被害者の母として、社交界の同情を集めようと」
私は羽根ペンを置いた。
そして、初めて、声を立てて、ほんの少しだけ笑った。
「ハロルド。お母様の方が、たぶん、娘より先に潰れるわね」
「はい、奥様。私もそう思います」
ハロルドが下がっていった。
私は窓の外を見た。三日続いた雨は完全に止んで、庭の白薔薇は、雨に打たれて何輪か散っていたが、残った花は、いつもと同じ色をしていた。
百年、色を変えない薔薇。
ふと、机の抽斗を開けて、十年分の便箋の束を取り出した。五日前、ユリウスの上着の内ポケットから出てきた、あの束。
私はそれを、今夜もまた、机の上に並べた。
並べて、眺めて、もう一度束に戻した。
毎晩、そうしていた。
その夜、ユリウスが来た。
写本ではなく、ただ、薄い詩集を一冊、抱えていた。
「校訂は、昨日で全部終わりました」
彼は書斎の机にその一冊を置き、それから、椅子に座らずに窓辺に立った。
私は彼の背中を見た。
地味な、擦り切れた外套。そう、内ポケットに十年分の私の手紙を仕舞っていた、あの外套。
私は、口を開いた。
「ユリウス」
「はい」
「一つだけ、お聞きしてもよろしいかしら」
「どうぞ」
私は深く息を吸った。
「なぜ、私を助けてくださるの?」
ユリウスは、しばらく、窓の外を見ていた。
書斎の蝋燭の光が、彼の白い頬に薄く揺れていた。睫毛の影が、頬の上で長く伸びた。彼はその姿勢のまま、庭の白薔薇を見ていた。と思う。たぶん、そうだった。
しばらくして、彼はようやく口を開いた。
「校訂のお礼、ということでは、駄目でしょうか」
「駄目ですわ」
私は答えた。
自分の声が、思っていたより少し強かった。
「校訂のお礼で、十年分の手紙を内ポケットに仕舞ってはいないでしょう」
ユリウスの肩が、わずかに動いた。
それから、彼はゆっくりと振り返った。
「気づかれましたか」
「ええ。五日前の朝に」
「……そうですか」
ユリウスは机の方に歩いてきて、椅子を引いて座った。私の正面に。
膝の上で、自分の指を組んだ。組んで、ほどいた。もう一度組んだ。
「お答えします。ただし、あまり、上手な答えにはならないと思います。私は、こういうことを、言葉にするのが、致命的に下手です」
「ええ。知っております」
「……知っておられたのですか」
「十年、文通をしてきましたもの」
ユリウスは、ほんの少しだけ、笑った。
それから、組んだ指を見ながら、ゆっくりと言った。
「あなたが」
一度、息を吸って。
「笑うところを、まだ、一度も、見たことがないからです」
書斎の蝋燭の芯が、小さく爆ぜた。
「十年前、王立図書館の北窓の机で、初めてあなたを見たとき、あなたは論文を書いていました。一心に。とても真剣な顔で。私は、あなたの計算式を覗き込んで、思わず"美しい"と言いました。あなたは顔を上げて、私を見ました。あの時のあなたの顔を、私は今も覚えています」
私は、ユリウスを見ていた。
「あなたは少し驚いて、それから、ほんの少しだけ、口元を綻ばせました。けれど、それは笑顔ではありませんでした。"笑いそうな顔"でした。私はその時、思ったのです。この人が本当に笑ったら、どんなに、と」
ユリウスは指をほどいた。
「十年、待っていました。あなたが本当に笑う日を、遠くから。手紙の中で、何度か、近いと思った瞬間がありました。けれど、結局、あなたは八年間、笑いませんでした。たぶん、笑える場所ではなかったのでしょう」
私は、何も言えなかった。
ユリウスは続けた。
「私は学者です。出世は望みません。お金もそれほどありません。あなたに何かを与えられる人間ではありません。けれど、一つだけ、できることがあります」
彼は顔を上げた。
蝋燭の光の中で、彼の目は、奇妙なほど、静かで、まっすぐだった。
「あなたが笑える場所まで、あなたの隣を、ゆっくり歩くことです」
私は、机の上の自分の指を見た。
八年間、毎朝、誰にも気づかれずに帳簿を握っていた指。八年間、毎晩、誰にも見せずに刺繍の針を握っていた指。八年間、一度も、本当に笑うために動かなかった、私の指。
私は、その指をそっと、机の上に開いた。
「ユリウス」
「はい」
「まだ、笑えませんわ。今夜は」
「はい」
「でも、いつか、笑える気が、します」
ユリウスは、頷いた。
それだけだった。
蝋燭の光が、彼と私の間で、ゆっくりと、もう一度揺れた。
ユリウスが帰った後、私は窓辺に立った。
王都の方角の空が、なぜか、いつもより暗く見えた。
その空の下のどこかで、たぶん今夜、セレナ・モンフォールは初めて、自分の応接間で一人きりの夜を過ごしているはずだった。
私はそのことを、ほんの少しだけ、考えた。
それから、考えるのをやめた。




