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夫の浮気相手が私の親友だった話  作者: 九葉(くずは)


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第5話「上着の重み」

雨は、三日続いた。


二日目の朝、ヴァレンス領の北畑に立つはずだった麦穂は、もう穂と呼べる姿をしていなかった。と、レンウィック男爵からの簡潔な手紙には書かれていた。「貴殿の見立て通り、四割が限界であった。残りは土に還る」と。男爵はそう書いて、自分の領の小麦倉庫に運び入れた四割分の代金を、過分なほどの金額で送ってきた。


私はその金額を、そっくりそのまま、ヴァレンス領の村々の救済基金に回す手配をした。ただし、ヴァレンス家の当主の名ではなく、レンウィック男爵の名前で。


「奥様。それでは、レンウィック様の徳ばかりが上がってしまいます」


ハロルドが控えめに言った。


「ええ。それでいいのよ、ハロルド」


私は微笑んだ。


「私の名前は、もう、あの土地に必要ないわ」


ハロルドはそれ以上、何も言わなかった。


雨の三日目、午後。


南国交易ギルドからの使者が、アーレンフェルト侯爵邸の門を叩いた。


南国とは、ヴァレンス領の絹織物の輸出先だった。八年前、私が嫁いだ年に、私自身が船で三日かけて港町に渡り、向こうのギルド長と直接交渉して結んだ契約だった。あの夜、私はギルド長と葡萄酒を酌み交わしながら、ヴァレンス領の絹がいかに細く、いかに丈夫で、いかに南国の貴婦人に似合うかを語り続けた。私はまだ十八歳で、結婚から半年後で、夫が領地経営に何の興味もないと知ったばかりの頃だった。


その契約が、今日、解約された。


「奥様、誠に名残惜しゅうございます」


南国訛りの混じった商人の言葉に、私は静かに頷いた。


「こちらこそ。八年間、ありがとうございました」


「ギルド長より、ことづけを承っております。"奥方様の絹は、八年の間、我が国の貴婦人の肩にずっとかかっておりました。次の契約は、奥方様ご自身の新しい所属先と、改めて結ばせていただきたく存じます"と」


私は微笑んだ。


「ありがたく、お受けいたします。ただ、新しい契約は、少し時間をいただくことになります。私は今、実家に身を寄せたばかりですので」


「いつでも、お待ち申し上げます」


商人は深く礼をして、帰っていった。


書斎の扉が閉まると、私はようやく椅子の背に凭れた。


これで、ヴァレンス領の主要な収入源は、すべて止まったことになる。


東国の小麦輸出。南国の絹織物。北の鉄鉱石の中継貿易。全部、私個人の名義で結ばれていた契約だった。八年間、エドガーは一度もそれらの書類に目を通したことがなかった。「お前の趣味だろう」と笑って、サインさえ拒んだことがあった。「貴族の当主が商人の真似事などできるか」と。


私は彼の言葉に従った。いや、従ったふりをした。


私は彼の名前ではなく、私自身の名前で、すべての契約を結び続けた。八年間、ずっと。


そのことに、エドガーは今日まで、たぶん、気づいてさえいない。


その日の夜、ユリウスが書斎に来た。


校訂中の写本を、もう一束、抱えていた。


「夜分に申し訳ありません。昼間は、図書館の仕事がありまして」


「いえ。むしろ、夜の方が落ち着いて作業ができますわ」


私たちは、机を挟んで向かい合った。


ユリウスが広げた写本は、アーレン王朝中期の徴税記録の一部だった。古い羊皮紙で、所々インクが滲み、数字の判読が難しい箇所があった。


「ここの数字、どう読まれますか」


ユリウスが指差した一行を、私は身を屈めて覗き込んだ。


「……三千四百二十、ですわね。次の桁が滲んでいるけれど、前後の文脈から推せば、四十一か四十七のどちらか。たぶん、四十一」


「なぜです?」


「この税目は十年周期で変動していて、十年前のページに同じ税目が四十一で記録されているから。同じ係数を踏襲したと考えるのが自然ですわ」


ユリウスは、しばらく私の顔を見ていた。


それから、写本の余白に、四十一と書き込んだ。


「あなたの数字の読み方は」


彼は呟いた。


「僕が知る誰よりも、美しい」


私は俯いた。鎖骨の下、ちょうど絹のドレスの内側の、誰にも見えない場所で、何か小さなものが、ぽとりと落ちた気がした。八年間、誰にも言われなかったことを、この人は仕事の片手間に言う。それも、数式と税目の話の流れで、まるで天気の話でもするように。


私は俯いて、別の写本のページをめくった。


そうしないと、何かを言ってしまいそうだった。


夜は、長かった。


十時を過ぎ、十一時を過ぎても、私たちは写本を読み続けた。インクと羊皮紙と、机の上の蝋燭の匂いが、部屋に静かに溜まっていった。ミラが二度、薬草茶を運んでくれた。三度目に運ばれてきたのは、温めた葡萄酒だった。


「夜が冷えますので」


そう言ってミラは下がっていった。


葡萄酒の温もりが、私の指先を緩めた。


私は、いつの間にか、机に頬杖をついていた。


それから、いつの間にか、机の上に頬を寄せていた。


写本の文字が、ぼんやりと滲んだ。滲んだのは、私の意識の方だったかもしれない。


最後に覚えているのは、ユリウスの羽根ペンが、写本の上でゆっくりと動く音と、蝋燭の芯が小さく爆ぜる音と、それから、自分の睫毛がとても重いという感覚だった。


目を覚ましたとき、外はまだ暗かった。


机の上で、頬の下に紙の感触があった。ユリウスの写本ではなかった。私の頬の下には、白い無地の便箋が一枚、敷かれていた。たぶん、私が眠ってしまわないようにと、ユリウスがそっと敷いてくれたものだった。


そして、私の肩には、上着が掛かっていた。


ユリウスの、地味な学者の外套だった。袖口の擦り切れた、あの古い外套。


私は身を起こした。


部屋には誰もいなかった。蝋燭は新しいものに替えられていて、まだ半分残っていた。机の上の写本は、きちんと束ね直され、紐で括られていた。私が眠っている間に、ユリウスは作業を全部終わらせて、静かに帰っていったのだ。


私は肩から外套を下ろし、自分の膝の上にそっと置いた。


古い、けれど丁寧に手入れされた羊毛の感触。袖口の擦り切れは、彼が長く着てきた証拠だった。


ふと、外套の内側に、何かの厚みがあるのに気づいた。


私は内ポケットに指を入れた。


そこには、紙の束があった。


紐で丁寧に括られた、白い便箋の束だった。


私は紐を解いた。


一番上の便箋を開いた瞬間、私の指が止まった。


それは、私の筆跡だった。


『ユリウス様


お返事、ありがとうございました。あなたが教えてくださった北方の薔薇の本のこと、いつか必ず取り寄せて読んでみたいと思っております。


実家の白薔薇のことを書いたのは、たぶん、私が少し疲れていたからかもしれません。あの薔薇は、毎年、私が子供の頃と同じ色をしているのです。それが、なぜか、今年はとても眩しく見えました。


リネア・ヴァレンス』


便箋の隅に、小さな日付。三年前の、春。


私は次の便箋を開いた。同じく私の筆跡。さらに次。次。次。


束の一番下まで、すべて、私が書いた手紙だった。


十年前、私が十五歳のとき、王立図書館でユリウスに渡した、最初の一通から。結婚した年の秋に書いた一通。流産した年の冬に書いた、ひどく短い一通。三年前の春の薔薇の手紙。去年の、今年の、そして先月の。


全部、ここにあった。


ユリウスの、擦り切れた古い外套の内ポケットに、十年分、丁寧に折り畳まれて、紐で括られて。


私は、便箋の束を膝の上に乗せたまま、しばらく動けなかった。


書斎の窓の外で、雨が、もう止みかけていた。三日続いた雨の最後の数滴が、屋根の樋を伝って、庭の白薔薇の根元に落ちていく音がした。


私は便箋の束を、両手でそっと包んだ。


涙は、出なかった。


ただ、首の付け根のあたり、髪の生え際の少し下の薄い皮膚の下で、十年分の何かが、ようやく、ほどけた気がした。八年間、私が誰にも見せないで仕舞ってきた何かが、胸の奥で、初めて、ほんの少しだけ、ほどけた気がした。


その夜が明けて、朝、ハロルドが新しい知らせを持ってきた。


「奥様。王都の社交界で、新しい噂が広がり始めております」


「噂?」


「"アーレンフェルト侯爵家のご令嬢が、ヴァレンス伯爵家を出てから、伯爵家の領地が次々に立ち行かなくなっている"と。そして、"あの留守番女が、実は伯爵家のすべてを回していたのではないか"と」


私は便箋の束を、机の抽斗にそっと仕舞った。


抽斗を閉めて、振り返り、ハロルドに微笑んだ。


「噂は、放っておきましょう。事実は、噂よりずっと、ゆっくり広がるものだから」

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