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夫の浮気相手が私の親友だった話  作者: 九葉(くずは)


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4/10

第4話「腐る麦と、貸される本」

「奥様、レンウィック男爵閣下より、お返事が参りました」


ハロルドが書斎の扉から顔を覗かせたのは、私が朝の薬草茶を二杯目に注いだところだった。


実家に戻って、五日目の朝。窓の外の白薔薇は、昨日の雨でいくつか花弁を落としていた。私は羽根ペンを置き、ハロルドが差し出した封を切った。


レンウィック男爵の筆跡は、武人らしい角張った字だった。


『ご厚意、痛み入る。本日にも収穫人を四十名、ヴァレンス領の北畑に向かわせる。費用はすべて当家持ちにて。貴殿の夫君(あえてそうお呼びする)には、一言の挨拶もせぬ無礼をお許しいただきたい。あの方とは、もはや言葉を交わす気にもなれぬゆえ』


私は手紙を膝の上に置いた。


「ハロルド」


「はい」


「レンウィック男爵様は、エドガーのことを、以前から何かご存じだったのかしら」


ハロルドは少し沈黙してから、控えめに答えた。


「レンウィック様は、三年前の領地境の水路問題のときに、エドガー様と一度だけご面会なさいました。その時のお話を、私が後にお伝えしたことを、覚えておいでで……」


「水路問題?」


「奥様が、ご自分の費用で隣領に水を分けてあげたあの件でございます。エドガー様はその件を、社交界で"妻が勝手にやった愚かな施し"と笑いものになさいました。レンウィック様のお耳に入りまして」


私は軽く目を閉じた。


そういうことか。


八年間、私は知らなかった。私が良かれと思ってやったことが、彼の口を通してどんな形で社交界に流れていたのかを。いや、本当は薄々感じていた。私が何かをするたび、夜会で誰かが妙な目で私を見ることがあった。あの目の理由が、今やっと分かった。


「ありがとう、ハロルド。男爵様には、後ほど私から直接お礼の文をお送りします」


「かしこまりました」


ハロルドが下がろうとして、扉の前で振り返った。


「奥様。ヴァレンス領の北畑では、昨日から小麦が倒れ始めているそうでございます。指示を出す者がおらず、収穫人も雇われず、雨で。レンウィック様の人手が間に合うかどうかは、今日明日が境目かと」


私は頷いた。


「間に合わなかった麦は、腐るままにしておきましょう」


ハロルドが、深く頭を下げて部屋を出た。


私は窓辺に立った。


ヴァレンス領の北畑のことは、私が一番よく知っていた。八年間、毎年あの畑の麦穂を、私は自分の指で確かめてきた。今年の出来は、特別に良かったはずだった。先月、私自身がオーランと一緒に視察したばかりだ。穂は重く、色は黄金で、指で潰すと甘い汁が出た。「今年は良い年です」とオーランは笑った。「奥様の畑は、いつも良い年でございますよ」と。


その麦が、今、誰の手も借りずに、ぬかるみの上で腐り始めている。


私は窓の外の薔薇に目を移した。


不思議だった。


胸が、痛まなかった。


八年間、毎年あの畑を見守ってきた私が、今、その麦が腐ることに、何の感情も湧かなかった。爪の奥の薄い皮膚の下で、ほんの少し、温度が下がっただけだった。あれはもう、私の畑ではない。私が「私の畑」だと思い込んでいた畑でしかなかった。


それだけのことだった。


午後、二通目の手紙が届いた。


質素な封筒。飾り気のない筆跡。


『歴史書の校正をお手伝いいただけませんか。十年前、あなたが論文の脚注で引用なさった、あのアーレン王朝中期の税制史です。私が今、写本を校訂しております。もしご都合がよろしければ、本日午後にお伺いします。 ユリウス』


私は手紙を、二度読んだ。


それから、三度読んだ。


十年前。


私が十五歳で、王立図書館の北窓の机で書いた、誰にも読まれないはずの論文。あの脚注の出典を、ユリウスは覚えていたのだ。


私は急いで鏡の前に立ちかけて、足を止めた。


何をしているのだろう、私は。


いいえ。鏡くらい見ても、いいではないか。八年ぶりに、私は私の家にいる。私の鏡を、私のために覗き込んでも、誰も笑わない。


私は鏡台の前に座った。


栗色の髪を一房、指で梳いた。八年間、夜会のたびに結い上げ続けた髪。今は、何の支度もしていない、ただの私の髪だった。少し疲れて見えた。けれど、八年前よりは、少しだけ、目に光があるような気がした。


そんな気がしただけかもしれない。


ミラが扉を叩いた。


「奥様。お客様が、お見えでございます」


「お通しして」


私は立ち上がり、書斎の入口で待った。


ユリウスは、相変わらず地味な学者の外套で現れた。袖口が少し擦り切れている。腕には、革表紙の本を二冊と、紐で括られた写本の束を抱えていた。


「お久しぶりです、ヴァレンス夫……」


そこで、彼は言葉を止めた。


それから、わずかに目を伏せて、言い直した。


「アーレンフェルト嬢」


私の旧姓。八年ぶりに、誰かに呼ばれた名前。


私は、自分の耳の縁が、薄く熱を持つのを感じた。


「ユリウス。お久しぶり。どうぞ、入って」


書斎の机に、ユリウスが写本を広げた。アーレン王朝中期の税制史。羊皮紙は古く、インクは褪せ、欄外には誰かの注釈が小さな字で書き込まれていた。


「ここの数式の引用です」


ユリウスが、ある一行を指差した。


「あなたが論文で使われた式と、ほんのわずかに違う。私はずっと、あなたの式の方が正しいと思っていました。けれど原典を当たれず、確認できないまま十年経ちました。昨日、ようやく原典の写本を借り出せたのです」


私は身を屈めて、写本を覗き込んだ。


確かに、わずかに違った。原典では「収穫量×三分の二」の係数が使われていたが、私は十五歳のとき、これを「収穫量×五分の三」と修正して使った。なぜなら、十五歳の私は、現実の畑の収穫を見ていたからだ。三分の二では多すぎる。五分の三が、現実の数字だった。


「あなたは正しかった」


ユリウスが、静かに言った。


「十年前、十五歳のあなたが、千年前の原典を訂正していた。私は、それを確認するためだけに、十年かけて写本を探していました」


私は、写本から顔を上げた。


ユリウスは、私を見ていなかった。彼は、写本の上の自分の指先を見ていた。耳の縁が、少しだけ赤かった。


「ありがとう、ユリウス」


私は言った。


「本当に、ありがとう」


ユリウスは、写本の上で指を動かした。何か言いたそうにして、何も言わなかった。代わりに、抱えてきた革表紙の本のうちの一冊を、私の手元に滑らせた。


「これを、貸します」


私は本を取り上げた。古い植物学の本だった。北方の薔薇の品種について書かれた本。


「薔薇?」


「いえ。あの。以前、お手紙で、書いておられたので。実家の白薔薇が、毎年同じ色をしている、と。なぜなのか知りたい、と。三年前のお手紙です」


私は、本を胸に抱いた。


三年前。私がエドガーに失望し始めて、ようやく実家のことばかり手紙に書いていた頃。あの一通の中の、一行。私自身、もう忘れていた一行。


ユリウスは、それを覚えていた。覚えていて、三年かけてこの本を探したのだ。


私は何か言おうとした。けれど、言葉が、出てこなかった。


代わりに、私は本のページを開いた。栞代わりに、一枚の小さな紙片が挟まっていた。ユリウスの筆跡で、ただ一行。


『五十二ページに、あなたの薔薇のことが書いてあります』


私はそのページをめくった。


北方の白薔薇。寒冷な土地で、毎年同じ色を咲かせる品種。その学名の隣に、ユリウスのものではない、もっと古い、誰かの手書きの注釈があった。


『この薔薇は、一度根付くと、百年、色を変えない』


私は本を閉じた。


ユリウスは、写本の校訂作業に戻っていた。私の方を、見ていなかった。


私は彼の横顔を、しばらく眺めた。


夕暮れが書斎の窓から差し込み始めて、ユリウスの白い頬に薄い影を落としていた。彼の睫毛が、写本の文字を追って、ゆっくりと動いていた。


この人は、十年間、私の何を見ていたのだろう。


私は、自分が今、何を感じているのかを、まだ言葉にできなかった。


ただ、薔薇の本を、もう一度そっと胸に抱いた。


その夜、ハロルドが書斎に最後の報告を持ってきた。


「奥様。ヴァレンス領の北畑、本日中にレンウィック様の収穫人が入れた分は、全体の四割でございました。残り六割の麦は、明日の夜の雨で、もう……」


「ええ。ありがとう、ハロルド」


私は薬草茶の最後の一口を飲み干した。


窓の外、遠く東の空に、雨雲が広がりつつあった。


ヴァレンス領の方角だった。

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