第3話「留守番のいない屋敷」
ヴァレンス伯爵邸の朝食の席で、エドガー・ヴァレンスは、自分の前に紅茶が置かれていないことに気づくのに、たっぷり五分かかった。
そもそも、テーブルクロスが昨日のままだった。皺の寄った白い布の上に、昨日の夕食の葡萄酒が小さく染みを残している。皿は下げられておらず、銀の燭台にも昨夜の蝋がそのまま固まっていた。
エドガーは椅子に座ったまま、しばらく天井を見上げた。
「……おい」
返事はなかった。
「誰かいないのか」
返事はなかった。
朝食室には、彼と、彼の隣の椅子にぼんやり座るセレナだけがいた。セレナは寝間着の上にショールを羽織っただけの姿で、髪は結われていなかった。栗色の癖毛が、肩のあたりで自由に跳ねている。エドガーは、その姿を見るのが妙に落ち着かなかった。
「セレナ。お前、髪は結わないのか」
セレナは小さく欠伸をした。
「だって、誰も結ってくれないんだもの」
「侍女は」
「いないわよ、エドガー。昨日、見たでしょう?」
エドガーは見たことを思い出そうとした。昨日。リネアが「お幸せに」と言って朝食室を出ていった日。あの後、屋敷の中で何が起きていたのか。
執事のハロルドが午後に書斎を訪ねてきたことは覚えている。「本日付けで、お暇を頂戴いたします」と言った。エドガーは笑った。「ふざけるな、八年もここにいたお前が、なぜ今さら」と。ハロルドは目を伏せて答えた。「私は伯爵家ではなく、奥様に雇われておりましたので」と。
それから、会計係のグリンが来た。同じことを言った。農業顧問のオーランも、馬丁のテオも、料理人のマルダも、洗濯婦のベスも、庭師の親方ジョンも、順番に、書斎の扉を叩いて、頭を下げて、出ていった。
エドガーはそのたびに「ふざけるな」と言った。何度言ったか覚えていない。けれど誰も、ふざけてはいなかった。
夜には、屋敷の灯りを点けに来る者がいなかった。
「セレナ。今日は……朝食はどうする」
「あら、エドガーが用意してくれるんじゃないの?」
セレナは、やはり甘く笑った。彼女が笑うと頬に小さな笑窪ができる。エドガーは八年間、この笑窪のために多くのものを傾けてきた。傾けてきた、はずだった。
「俺は」
エドガーは口籠もった。
「俺は、伯爵だぞ」
セレナはくすりと笑った。
「ええ、知ってるわ」
それで、会話は終わった。
エドガーは厨房に立ったことがなかった。
火の起こし方を、知らなかった。鍋がどこにあるのか、知らなかった。粉と水を混ぜたら何になるのか、漠然としか知らなかった。彼は剣を握れば三連覇できる男だったが、卵を一つ割ったことがなかった。
午前中の半ばに、ようやく彼はパンの切れ端を一つ見つけて、それをセレナに差し出した。セレナは三口齧って、「固いわ」と言って、皿の上に戻した。
エドガーは、自分の足元に妙な感覚を覚えた。それが何なのか、最初は分からなかった。
不安、ではない。彼は剣の達人だ。不安には慣れている。
恥、でもない。彼は社交界の華だ。恥もたいてい上手く扱える。
それは、足の指の付け根のあたりで、何かが、ゆっくりと、抜けていく感覚だった。八年間、自分が踏みしめていた床が、実は自分の床ではなかったと気づいた瞬間の感覚。あの床は、誰か別の人間が、毎朝、毎晩、毎時間、欠かさず張り替えてくれていた床だったのだと、ようやく気づき始めた感覚。
エドガーは自分の手のひらを見つめた。
剣ダコのある、頑丈な手だった。
この手で、俺は、何を作ったことが、あるんだ。
作った。何を。卵一つ割ったことがない、いやそれは今思っただけだ、それ以前に、俺は、八年間、何を、いや待て、領地のことは妻が、いや、妻は留守番だ、留守番だったはずだ、留守番が抜けただけで、なぜ朝食の皿が下がらない、なぜ髭が剃られない、なぜ、なぜ。
そう思ったとき、玄関の鐘が鳴った。
エドガーは顔を上げた。
「客か。セレナ、お前、出てくれ」
「私が? なんで?」
「お前、もう女主人だろう」
セレナはむっつりと黙ったが、立ち上がりはしなかった。
鐘は二度、三度と鳴り続けた。
エドガーは舌打ちして自分で玄関に向かった。彼が玄関の扉に手をかけたのは、おそらく結婚以来初めてのことだった。把手の冷たさに、彼は一瞬怯んだ。
扉を開けると、見覚えのない男が立っていた。商人風の、地味な外套を着た男だった。
「ヴァレンス伯爵閣下でいらっしゃいますか」
「ああ」
「東国交易ギルドの使いの者でございます。本日付けで、貴家との小麦輸出契約を、当ギルドより一旦保留とさせていただきたく、その通告に参りました」
エドガーは聞き間違いかと思った。
「保留? 何の話だ。うちは毎年お前たちと……」
「契約者の名義は奥様、リネア・ヴァレンス様個人でございます。奥様より、本日付けで離縁の旨、また契約を奥様の新たな所属先へ移管したき旨の正式な通知が参りました。当ギルドの規約上、契約者個人の意思表示が最優先となりますので」
エドガーは扉の枠に手を添えた。
「いや、待て、そんなはずは」
「八年間、毎春の交渉に来ておられたのは奥様でございました。書類の署名も、すべて奥様のお名前で交わされております。閣下のお名前は、一度も書かれておりません」
エドガーは口を開いた。何か言おうとして、何も出てこなかった。
商人風の男は丁寧に礼をして、踵を返した。砂利を踏む靴音が、通用門の方へ遠ざかっていった。
エドガーは扉を閉めた。閉めたつもりだった。実際には、半分閉めたところで力が抜けて、扉は彼の背中で勝手にゆっくりと閉まった。
「エドガー?」
セレナの声が、廊下の奥から聞こえた。
「誰だったの?」
エドガーは答えなかった。
廊下の壁に背中を預け、ずるずると、その場に座り込んだ。剣ダコのある手のひらを、自分の顔に当てた。
留守番。
俺は、八年間、何を、見ていたんだ。
その同じ刻、アーレンフェルト侯爵家の書斎では、リネア・アーレンフェルトが椅子の背に深く凭れて、湯気の立つ薬草茶を一口飲んでいた。
机の上には、執事ハロルドが運んできた書類の束が、山になっていた。八年間、彼女自身が積み上げてきた仕事の地層。一枚一枚に、彼女の筆跡があった。
「奥様」
机の向かいに座ったハロルドが、控えめに声をかけた。
「東国交易ギルドの本部より、移管手続き完了の知らせが参りました。ヴァレンス家の畑の小麦は、今期、買い手がございません」
リネアは小さく頷いた。
「収穫の指示を出す人間は」
「ヴァレンス家には、もう、おりません」
「そう」
リネアはカップを置いた。
「畑の小麦は、ハロルド、あなたの判断で、隣の領のレンウィック男爵にお声がけしてみて。あの方の領は今年、麦が不作だったから」
「かしこまりました。ヴァレンス家の畑から?」
「ええ。ただし、収穫費はレンウィック男爵側が持つことを条件に。私たちは何もしないわ。ただ、知らせるだけ」
ハロルドが、わずかに口元を綻ばせた。
「奥様。それは、八年間の中で、最も美しい指示でございます」
リネアは微笑んだ。
ふと、机の隅に置いたままの一通の手紙に、目が留まった。ユリウスからの便箋。次の月の終わり、王立図書館の三階、いつもの席。
私は窓の外を見た。実家の白薔薇が、午後の陽を受けて、八年前と同じ色をしていた。
三日。
たった三日で、ヴァレンス伯爵家の小麦畑は、収穫の指示を出す者を失った。
私は何もしていない。ただ、私の足を、私の家から、外へ出しただけ。
それだけで、八年間が音を立てて崩れ始めている。
私は薬草茶のカップを取り上げ、もう一口飲んだ。八年ぶりに、自分のために淹れた茶の味がした。




