第8話「家紋の魂」
貴婦人たちは皆、自分の手のひらを見つめていた。そこに刺された家紋の意味を、初めて思い出すように。
王都・バルトラム侯爵邸の大応接間。午後三時の貴婦人会。長い楕円形の机を囲んで、王都の名のある貴婦人たちが十二名、座っていた。机の中央には銀の茶器、両端には焼き菓子の盛られた皿。そして、机のちょうど真ん中に、私が持参した一枚の、白いハンカチが置かれていた。
縁取りに細い銀糸。中央に、ヴァレンス家の家紋。鷲が剣を握る、複雑な意匠。
「これは」
老いた女性が、震える指でハンカチを持ち上げた。バルトラム侯爵未亡人。社交界の最古参であり、貴婦人会の非公式な座長。八十歳になる今も背筋がまっすぐで、声は若い頃と変わらず低く澄んでいた。
「リネア。これを、誰が刺したと、お訊きするまでもないわね」
「私です、未亡人」
私は答えた。
「結婚一年目の冬、夫の家紋を初めて刺した一枚です。三月かけて仕上げました」
「三月」
未亡人はハンカチを光にかざした。銀糸が薄く光った。
「鷲の翼の重なりが、左から右へ、五段になっているわ。これは、ヴァレンス家の正式な意匠ね。私が若い頃、ヴァレンス家の先代夫人が刺したものを、一度だけ、間近で見せていただいたことがある。あの方の刺繍と、ほとんど同じ作り。同じ家の女が刺した刺繍だと、すぐに分かる」
机を囲んだ女性たちが、一斉に身を乗り出した。
「それで、リネア」
未亡人はハンカチを机に戻した。
「あなたが今日、これを持ってきたのは、何のためかしら」
私は深く息を吸った。
「未亡人。そして、この場の皆様。ご無礼を承知で、私の侍女に、お話しさせていただきたいことがございます。八年間の話です」
私は振り返った。
応接間の入口に控えていたミラが、両手を体の前で握りしめたまま、机の方へ進み出た。年老いた背中が、わずかに震えていた。
「私、ヴァレンス伯爵夫人リネア様付きの侍女で、ミラと申します」
ミラは、机の前で立ち止まり、深く礼をした。
「奥様にお仕えして、結婚なさる前から、もう十二年でございます」
「十二年」
未亡人が呟いた。
「十二年いた者の言葉なら、聞くに値するわ。お話しなさい、ミラ」
ミラは、ゆっくりと顔を上げた。
「奥様は、ご結婚後の八年間で、ヴァレンス家の家紋ハンカチを、九十二枚、お刺しになりました。私が、横で、毎月のように見ておりました」
机を囲んだ女性たちの中で、誰かが小さく息を呑んだ。
「奥様は、毎月、新しい一枚を仕上げて、書斎の机の右の抽斗に仕舞っておられました。そして、月に一度、奥様の親友であられた、セレナ・モンフォール様が、お茶のお誘いと称して、ヴァレンス邸の応接間にいらっしゃいました」
ミラの声が、ほんの少しだけ、低くなった。
「セレナ様は、お茶の途中で必ず一度、"お手洗いに"と席をお立ちになりました。そして、奥様の書斎の前を通り、右の抽斗を開けて、その月のハンカチを一枚、懐に入れて、応接間にお戻りになりました。私、廊下から、何度も、この目で見ております」
机の周囲が、しん、と静まり返った。
ミラは続けた。
「セレナ様は、そのハンカチを、後日、エドガー様に"私が刺しました"とお渡しになっておられました。エドガー様は、それを毎晩、寝台の枕元に置いて、お休みになっておられました。八年間、ずっと、でございます。九十二枚、すべて、奥様の手の刺繍でございました」
くっ、と、誰かが息を吐く音がした。
それは、机の左端の、若い伯爵夫人だった。彼女は片手で口を覆って、もう片方の手で、自分の膝の上に置いた絹のハンカチを、強く握りしめていた。そのハンカチにも、彼女の夫の家紋が、彼女自身の手で刺されていた。
机の中央で、バルトラム未亡人が、ゆっくりと、自分の手のひらを開いた。
その手のひらには、何もなかった。けれど、未亡人は、自分の手のひらを見つめていた。長い、長い時間。
それから、彼女は口を開いた。
「家紋の刺繍とは、女が、自分の魂を、糸に縒って、布に縫い込む仕事です」
未亡人の声は、低かった。
「私は、亡き夫の家紋を、生涯で十七枚、刺しました。一枚目は、嫁いだ年の冬。最後の一枚は、夫の葬儀の前の夜。私の十七枚は、私の魂の十七年分です。誰にも代わりに刺せない。代わりに刺されたら、その魂は、誰のものなのか、分からなくなってしまう」
未亡人は顔を上げた。
「セレナ・モンフォール嬢は、八年間、ある女の魂を、九十二回、盗んだということになります」
机の周囲で、誰かが、ようやく、小さく呟いた。
「そんな……そんなこと、できるの……」
「家紋の刺繍を、横取りして……?」
「女の魂を……?」
未亡人は、ハンカチを、もう一度、丁寧に机の上に置いた。
そして、傍らに控えていた執事に、低く告げた。
「ジョン。モンフォール子爵令嬢、セレナ・モンフォール嬢に、今夜中に書状を届けなさい。"来週の春の舞踏会の場で、貴婦人会を代表して、家紋刺繍の実演を求める"と。布と針と糸は、こちらで用意する。貴婦人全員の前で、ヴァレンス家の家紋を、一枚、刺してご覧いただく」
執事が深く礼をして、応接間を出ていった。
帰りの馬車の中、ミラは私の正面の席で、ずっと俯いていた。
「ミラ」
「はい、奥様」
「ありがとう」
「いえ、奥様、お礼を申し上げるのは、私の方でございます。八年間、私、ずっと、申し上げられなかったのです。"奥様、あの方は親友ではございません"と。何度も口の中まで上ってきて、何度も呑み込んで、何度も……」
ミラの皺の刻まれた頬を、涙が一筋、流れた。
「八年間、私、奥様が一人で刺繍を仕上げて、一人で抽斗にしまって、それを次の月、また一人で笑顔でセレナ様にお茶を出すのを、ずっと、ずっと、見ておりました。申し訳、ございませんでした」
私は手を伸ばし、ミラの皺の手の上に置いた。
「いいのよ、ミラ」
「奥様……」
「いいのよ。だって今日、あなたは話してくれた。それで、十分」
馬車の窓の外を、王都の街並みが流れていった。夕暮れの光が、屋根の瓦を赤く染めていた。
その夜、アーレンフェルト侯爵邸の書斎で。
ユリウスが、紺色の上着の襟元に銀の紋章をつけたまま、机の前に座っていた。
私は、机の上に、白薔薇を一輪置いた。来週の舞踏会で、襟元に挿す予定の一輪。庭で一番、形の整ったものを選んだ。
「リネア」
ユリウスが、薔薇を見ながら言った。
「貴婦人会のことは、ハロルドから聞きました」
「ええ」
「怖くは、ありませんでしたか」
私は、しばらく考えた。
「いいえ」
正直な答えだった。
「八年間、毎晩、自分の手で家紋を刺してきました。九十二回。九十二回分の私の指を、私自身が一番、知っています。あの刺繍の鷲の翼が、左から右へ五段なのも、私の手の癖だからです。あれは、誰にも盗めないものでした。盗んだつもりでも、盗めていなかった。それを、今日、ようやく、未亡人が見抜いてくださった。怖くなかったですわ。むしろ、八年ぶりに、息ができた気がいたしました」
ユリウスは、白薔薇を見ていた。それから、私の方に視線を移した。
「来週の春の舞踏会、私は、あなたの隣に立ちます」
「はい」
「あなたは、何もしなくて構いません。微笑んでいてくだされば、それで十分です。いえ。微笑まなくても構いません。あなたは、ただ、そこに立っていてくだされば」
私は微笑んだ。
「ユリウス」
「はい」
「来週は、私、たぶん、少しだけ、話します」
「はい」
「八年間、誰にも言えなかったことを、いくつか」
ユリウスは頷いた。
「お聞きします。私も、貴族の皆様も、未亡人も、みんな、お聞きします」
私は白薔薇を、もう一度、指で触れた。
その同じ刻、王都・モンフォール子爵家別邸では。
セレナの部屋の扉が、外から強く叩かれていた。
「セレナ! 出てきなさい! バルトラム未亡人から、書状が届いたわ! 来週の舞踏会で、家紋刺繍の実演ですって! あなた、刺繍、できるの!? 答えなさい、セレナ!」
セレナは、寝台の上で、膝を抱えていた。
膝の上には、針と布と糸があった。三日前から、彼女は密かに、家紋刺繍の練習を始めていた。結果は、布の上に、ぐしゃぐしゃに歪んだ何かがあるだけだった。鷲の翼が、左から右へ、五段にならなかった。三段で限界だった。それも、ぐにゃぐにゃに歪んでいた。
セレナの指は、何ヶ所も、針で刺した跡があった。血の点々が、白い布の上に、いくつも残っていた。
「セレナ! 答えなさい!」
セレナは、布を握りしめた。
そして、初めて、声に出して、呟いた。
「ごめん、なさい、リネア。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめん、なさい、リネア。ごめんなさい、私、私、ごめんなさい」
部屋の扉の向こうで、母の声が、また、悲鳴に変わっていた。




