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公爵夫人、地獄でワインを飲む  作者: 七七街


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7/9

7話

 社交界は、真実を愛してはいない。


 ただ、真実らしく見えるものがどちら側に立つかを、誰よりも早く嗅ぎ分けるだけだ。


 ヘレンに会った翌日、ヴィオレッタは久しぶりに自分の寝台で目を覚ました。


 離れではない。本邸の西棟、かつて公爵夫人として日々を過ごしていた部屋だ。壁紙も、窓辺の椅子も、化粧台の鏡も変わらない。だが目を開いた時、ここを「帰ってきた場所」とは思えなかった。昨夜、ヘレンの震える声で聞かされたことが、部屋の輪郭まで変えてしまっていたからだ。


 ――あの日、ヘレンは執事長ヴェルナーに呼ばれた。香りづけだと言われ、小さな瓶を渡された。お茶へ一滴だけ混ぜれば、しばらく気分が悪くなる程度だと。ヘレンは怪しみながらも逆らえず、けれど途中でやめようとした。その様子をラウルに見られ、ヴェルナーへ知らせが行き、結局ヘレンはリディアの部屋で最後まで見張られた。リディアも途中から、それが単なる香りづけではないと気づいていたはずだと。


 そして一番大きかったのは、その次だ。


 ヴェルナーはヘレンに言ったのだ。

 「公爵夫人がしばらく表へ出られなくなれば、屋敷は静かになる」

 と。


 つまり最初から狙いは、ヴィオレッタを直接殺すことではない。だが公爵夫人としての口と手を封じること。そのために被害者を作り、騒ぎを立て、屋敷の空気を一方向へ流すこと。そこまでは、もう疑いようがなかった。


 問題は、その計画がどこまでアーヴィンへ共有されていたかだ。


 ヘレンは、アーヴィンがその場へいたことはないと言った。だがヴェルナーが「旦那様もお困りなのだ」と口にしていたこと、リディアが「わたしはここを追い出されたくないだけ」と泣きながら繰り返していたこと、それらを繋げれば、少なくともアーヴィンは都合のいい形に膨らませる余地を残したまま放置した、と見るのが自然だった。


 そして社交界は、そういう曖昧な罪をきれいに嗅ぎ分ける場所ではない。

 もっと単純だ。

 倒れかけた側へ、さらに体重を乗せる。


 だからこそ、次は屋敷の外を動かさなければならなかった。


 ヴィオレッタは寝台から起き上がり、窓辺へ歩いた。朝の王都は曇っていたが、昨日までの湿りは薄い。庭師たちが低い声で仕事をし、遠くで馬車の車輪が石を擦る音がする。そのどれもが以前と同じはずなのに、今は「何事もなかった日常」ではなく、「すぐに噂へ塗り変わる前の静けさ」にしか見えなかった。


 ノックのあと、エルマが入ってくる。


「よくお休みになれましたか」


「いいえ」


 ヴィオレッタは正直に答えた。


「でも、考えるには足りる程度には」


 エルマは頷き、封筒を三通差し出した。


「今朝届いたものです。ひとつは侯爵夫人アデル様から。ひとつはレーヴェン子爵家からの夜会の招待。そしてもうひとつは、王宮法務官殿から」


 最後の一通だけが、封蝋の色すら愛想がなかった。きっちりと閉じられ、実務以外の意味を寄せつけない顔をしている。


 ヴィオレッタはまず侯爵夫人アデルからの手紙を開いた。


 アデル・モンテル侯爵夫人。王都でもっとも口が軽く、もっとも顔が広く、そして誰よりも「知らないふりをしながら知っている」女だ。彼女の手紙は予想通り、丁寧な見舞いの言葉で始まり、三行目で本題に入った。


 「体調不良と伺いましたけれど、あなたが本当に寝込むような方でしたら、王都の半分は今頃もっと静かですわね」


 ヴィオレッタは手紙を持ったまま、ほんの少しだけ笑った。


「アデル様ですね」


 エルマが言う。


「ええ。まったく上品で嫌な女」


 その先には、今度の小規模な昼餐会へ顔を出せるなら是非、と書かれていた。招待というより、探りだ。公爵夫人がどんな顔で現れるのか、体調不良が本当か、静養中という噂はどこまで演出か――それを一番最初に確かめたがっている。


 二通目の夜会の招待も似たようなものだった。レーヴェン子爵家は目立たぬ家だが、王都で“波風の少ない社交の場”を作るのがうまい。こういう家の夜会へ顔を出すことは、噂の火加減を見るにはちょうどいい。


 最後にカシアンの手紙を開く。


 文面は短い。


 公爵夫人

 ヘレンの証言は整理済みです。

 ヴェルナーとラウルの供述も、一致しない点が増えました。

 表へ出るなら、先に出る場所を選んでください。

 誰が最初にあなたを見たことにするかで、その後の流れは変わります。

 カシアン・ルヴェール


 ヴィオレッタは手紙を閉じた。


 誰が最初にあなたを見たことにするか。


 あの男らしい言い方だった。

 社交界は「公爵夫人が戻った」という事実で動くのではない。

 誰の場で、どんな顔で、何を纏って、何を言わずに立っていたかで動く。

 つまり最初の一歩そのものが、もう戦場なのだ。


「行くわ」


 ヴィオレッタが言うと、エルマは驚かなかった。


「侯爵夫人の昼餐会へ?」


「ええ。あそこが一番早いし、一番よく広がるもの」


 アデル侯爵夫人の口は軽い。だが軽い口ほど、王都では遠くまで届く。そこでヴィオレッタが“静養中の弱った公爵夫人”ではなく、“まだ終わっていない女”として現れれば、噂の流れは変わる。


「お召し物は」


「白は駄目。哀れに見えるから。黒も駄目。喪に服しているみたいだもの」


 ヴィオレッタは窓の外を見ながら考える。


「深い青にしましょう。夜より少し明るくて、でも優しくは見えないもの」


 エルマはすぐに衣装部屋へ向かった。


 支度の最中、ヴィオレッタは鏡の前で自分の首元へ視線を落とした。処刑はされていない。だが、離れへ閉じ込められた日から、見えない縄の痕がずっとそこに残っている気がする。堂々と社交界へ戻るということは、その痕ごと見せに行くのに似ていた。


 怖くないわけではない。


 以前の自分なら、もっと自然にできた。完璧な公爵夫人として、誰に何を見せるべきか、どう笑えば相手が安心するか、それを体で知っていた。けれど今の自分は、その体の動きを一度疑ってしまった。優雅さが武器であると同時に、長年自分を縛ってきた鎖でもあったと知ってしまった。


 それでも行くしかない。


 エルマが選んだドレスは、群青に近い深い青だった。光が当たると微かに銀糸が沈み、暗い場所ではほとんど黒に見える。首元は詰めすぎず、だが甘くもない。装飾は真珠ではなく、小さな白銀の飾りだけ。守られる女ではなく、まだ自分で立つ女の顔をさせる装いだった。


「化粧は」


「目元だけ少し強く。唇は色を落として」


「はい」


 エルマの指は迷わない。頬の影、睫毛の角度、髪のまとめ方。公爵夫人ヴィオレッタという姿を作るのではなく、ヴィオレッタが公爵夫人という仮面をまだ使えることを見せるための支度。


「奥様」


 髪を留めながらエルマが言った。


「本当にお一人で?」


「誰か連れていくべき?」


「いえ。ただ……」


「カシアン殿を侍らせて行ったら、それはそれで王都中が面白がるでしょうね」


 ヴィオレッタが言うと、エルマは珍しく目を伏せて口元を隠した。笑ったのだろう。


「そうなります」


「まだそういう段階ではないわ」


 口にしたあと、自分でも少しだけ引っかかった。誰に向けた否定なのか、曖昧だったからだ。


 昼前、侯爵夫人アデルの邸へ向かう馬車の中で、ヴィオレッタは膝の上に置いた扇を閉じたまま、窓の外を見ていた。王都の街路はいつもと変わらず賑やかだ。店先、橋、露店の果物、通りを横切る使用人たち。そのどれもが関係ない顔をしているくせに、貴族の世界の噂ひとつで翌日には違う空気を纏う。


 馬車が侯爵邸へ着くと、門前の従僕が一瞬だけ目を見開いた。予想していなかったのだろう。だがすぐに訓練された笑みへ戻る。


「ようこそお越しくださいました、公爵夫人様」


 その声音の奥にある“本当に来た”という驚きが、ヴィオレッタにはよくわかった。


 案内された小広間には、侯爵夫人アデルの他に四人の婦人がいた。いずれも王都でそれなりに口と耳を持つ顔ぶれだ。子爵夫人、伯爵未亡人、財務院関係の姉妹、そのくらいの配置。少人数の昼餐会とは名ばかりの、情報交換の卓である。


 ヴィオレッタが姿を見せた瞬間、場の空気が綺麗に止まった。


 アデルが一番に立ち上がる。朱に近い濃い紅のドレス、金の髪、そしていつ見ても意地の悪いほど完璧な笑顔。


「まあ」


 彼女は言った。


「あなた、本当に来たのね」


「お招きいただいたもの」


「体調不良と聞いていたのだけれど」


「もうかなり良くなりましたわ」


 ヴィオレッタが返すと、アデルは一歩近づき、その姿を頭からつま先までさりげなく見た。病み上がりの弱った女が来ると思っていたのだろう。だが現れたのは、少し痩せてはいても、目元に火を消していない女だ。


「安心したわ」


 アデルは言った。


「思っていたより、ずっと元気そうで」


「思っていたより、とは?」


「王都の噂はいつも大げさですもの」


「そうね。特に、都合のいい被害者と加害者が揃った話は」


 ヴィオレッタが微笑むと、アデルの目が少しだけ光る。面白がったのだ。


 席へ着く。会話は最初こそ季節と花と王宮の催しから始まった。だが十五分も経てば、自然と“体調”の話へ移る。病気の名を言わずに、原因だけをみんなで探る遊戯のようなものだった。


「急なお加減だったのでしょう?」


 伯爵未亡人が、いかにも気遣う顔で言う。


「ええ。少しばかり、口を挟まれたくない事情が屋敷の中にありましたの」


 ヴィオレッタは紅茶へ視線を落としながら答えた。


 場が静かになる。


 こういう時、一番初めに反応するのはアデルだ。


「まあ。口を挟まれたくない事情?」


「どこの家にも一つや二つはあるでしょう?」


「ええ、たいていはそうね。けれど、公爵家ほど大きな家なら“二つや三つ”では済まないのかもしれないわ」


 婦人たちが扇の陰で薄く笑う。


 ヴィオレッタも笑った。ここで怒る必要はない。アデルは探っているだけだ。そして、自分がどこまで自分の傷へ触れられるかを試している。


「お詳しいのね」


「わたくし、暇なものだから」


 この女は本当に厚かましい。


「では、その暇つぶしに一つだけ確かなことを差し上げますわ」


 ヴィオレッタはティーカップを置いた。


「わたくしは毒など盛っておりません」


 全員の目が一瞬で集まる。


 誰もそこまで直接は言っていなかった。だからこそ、先に言い切ることには意味がある。噂の中心を、こちらから言葉にして支配するのだ。


 アデルだけが微かに唇を上げた。


「そんな物騒なお話があったかしら」


「王都では、なかったことになっているの?」


「いいえ。ただ、皆さま、静養中の公爵夫人に向かってそこまで無粋ではないだけよ」


「そう」


 ヴィオレッタは頷いた。


「では無粋ついでに申し上げますけれど、今うちの屋敷では帳場の記録がごっそり王宮法務官の手へ渡っておりますの」


 今度こそ、紅茶を持つ手が止まった。


 財務院関係の姉妹の片方が、小さく息を呑んだ。彼女たちはこういう言葉の重さを誰より知っている。帳場、記録、王宮法務官。その三つが一つの文に入る時、それはもう「家内の諍い」ではない。


 アデルがゆっくりと言う。


「それは、ずいぶん大げさな静養ね」


「でしょう?」


 ヴィオレッタは笑う。


「ですから、わたくしも寝台で大人しくしている気をなくしましたの」


 その瞬間、場の空気が完全に変わった。

 弱った女を見に来た場から、

 今後どちら側へ体重をかけるべきかを測る場へ。


 ヴィオレッタはそれを肌で感じた。


 さらに押すべきか、ここで止めるべきか。

 一拍だけ迷ったあと、彼女は止めた。

 全部をここで喋る必要はない。十分だ。

 「公爵夫人は潰れていない」

 「しかも王宮法務官が動いている」

 その二つが今日広まれば、それで勝ちだ。


 昼餐会を終えて侯爵邸を出る頃には、招待客たちの視線が入室時とまるで違っていた。気遣いと好奇心だけではない。計算が混ざっている。誰に与し、誰から離れるべきかを考える目だ。


 馬車へ乗り込む前、アデルが一人だけ見送りに出てきた。


「やるわね」


 誰も聞いていない瞬間を見計らって、彼女はそう言った。


「何のことかしら」


「死にかけた兎のふりをして、口だけ差し出す女だと思われていたのに」


「わたくしが兎に見える?」


「見えないわ。けれど、見えないものほど皆が勝手に見たがるもの」


 アデルは笑う。


「あなたが今日来たことで、王都は“公爵夫人はまだ終わっていない”って騒ぎ出す。今夜には半分、明日には全部」


「そのために来たもの」


「ええ。わかってる」


 アデルは少しだけ真顔になった。


「ひとつだけ忠告してあげる。あなたが戻ったと知ったら、向こうも表の顔を整えに来るわ」


「向こう、とは?」


「公爵閣下も、義母上も、あの可哀想な愛妾も。今まで屋敷の中で済んでいた芝居を、外向けに綺麗にするでしょうね」


 ヴィオレッタはその言葉を受け取り、ゆっくりと頷いた。


「ありがとう」


「礼なんていらないわ。面白いから言ってるだけ」


 それもたぶん、本当なのだろう。


 帰りの馬車の中、ヴィオレッタは目を閉じた。今日は勝った。少なくとも一手は。けれどアデルの言う通り、これで終わるはずがない。むしろここから、相手も屋敷の外へ顔を出してくる。社交界の表面で“何も知らない夫”と“可哀想な被害者”をどう塗り直すか、次の動きが始まる。


 屋敷へ戻ると、予想通りアーヴィンから呼び出しがあった。


 場所は書斎。


 ヴィオレッタが扉を開けると、夫は窓辺に立っていた。昼の光を背にして、輪郭が少しだけ薄く見える。美しい男だった。だからこそ、長い間その美しさに誤魔化されていたのかもしれない。


「侯爵夫人の家へ行ったそうだな」


 振り向かぬまま言う。


「ええ」


「なぜ」


「社交を戻すためですわ。公爵夫人ですもの」


 アーヴィンが振り向く。その顔には、怒りより先に焦燥があった。


「今はまだ外へ出る時じゃない」


「誰にとって?」


「家にとってだ」


 またその言葉。


 ヴィオレッタは疲れるより先に、少し笑いそうになった。


「あなた、その言葉を便利に使いすぎて、もう意味が擦り切れているわよ」


「ふざけている場合じゃない!」


「ふざけているのはどちらかしら。屋敷の中で妻を黙らせておけば外まで届かないと思っていたのなら、随分と王都を甘く見たものね」


 アーヴィンは書斎机へ手をついた。


「ヴィオレッタ、私は」


「言い訳なら結構」


「違う」


 彼の声が少しだけ低くなる。


「今さら屋敷の外で騒ぎを大きくしたら、君だって傷つく」


 その言葉に、ヴィオレッタはしばし黙った。


 傷つく。

 その通りだ。

 社交界へ戻るということは、自分の傷ごと人目へ晒すことだ。好奇心、噂、同情、軽蔑、その全部の前へ立つことだ。


 けれどそれを今、この男の口から言われると、妙に乾いて聞こえる。


「……わたくしの傷を、今さら庇うふりをしないで」


 ヴィオレッタは静かに言った。


「その傷は、あなたが放置したものでもあるのだから」


 アーヴィンが目を伏せる。ほんの一瞬。だがそれだけで十分だった。


「屋敷の外で何を話した」


「知りたい?」


「当然だ」


「“わたくしは毒など盛っておりません”と」


 アーヴィンの顔色が変わる。


「そんなことを」


「みんなが聞きたがっていたもの」


「証明も終わっていないのに」


「終わるまで黙っていれば、あなたに都合のいい噂だけが育つでしょう」


 アーヴィンは声を失う。


 ヴィオレッタはそこで、はっきりと気づいた。

 この男は、嘘をつく胆力より、沈黙が自分に有利に働くことへ期待する胆力の方が強いのだ。

 だからたちが悪い。

 自分では手を汚していないつもりで、結果だけは欲しがる。


「カシアン殿も動いていると伝えましたの」


「……何だと」


「帳場の記録は王宮法務官の手へある、と」


 アーヴィンが完全に黙り込む。その沈黙こそが、何より雄弁だった。


「顔色が悪いわよ」


「君は、本当に」


 彼は言葉を探し、結局、ありふれたものしか掴めなかった。


「……昔はこんな女じゃなかった」


 その一言に、ヴィオレッタは微笑んだ。


「ええ。昔のわたくしなら、まだあなたを庇っていたでしょうね」


 アーヴィンはその笑みに、初めて少しだけ怯んだようだった。


 書斎を出ると、廊下の角でカシアンが待っていた。待っていたというより、ちょうど通りかかったように立っている。だがその位置が絶妙すぎて、偶然と呼ぶには無理があった。


「聞いていたの?」


 ヴィオレッタが言うと、彼は首を横に振る。


「聞こえるほど無能ではありません」


「そう。では立つ場所だけは完璧なのね」


「職業柄です」


 またそれだ。


「どうだった」


 彼が問う。


「侯爵夫人の昼餐会は大成功。今夜には王都中がざわつくわ」


「でしょうね」


「夫の方は、想像以上に顔色が悪くなった」


「そのうち、夫婦の会話を色で記録する趣味でも始めるつもりですか」


 ヴィオレッタは思わず目を細めた。


「しないわよ」


「それは残念です。あなたの記録は、たぶん多くの人間より正確でしょう」


 その言い方が可笑しくて、ヴィオレッタは小さく笑った。


「昼餐会で話したことは正解でした」


 カシアンが続ける。


「“毒など盛っていない”と先に言い切ったのも悪くない。噂の主語を奪えますから」


「褒めているの?」


「必要な順番で動いたと言っているだけです」


「そういうところが本当に可愛げがないわね」


「よく言われます」


 彼はわずかに肩をすくめた。


「ただし、次はもっと詰める必要があります。昼餐会は噂の起点としては十分でも、決定打にはならない」


「わかってる」


「では次は、もっと人目の多い場で、もっと逃げ道の少ない言葉を置いてください」


 ヴィオレッタは彼を見た。


「命令?」


「提案です」


「だとしても偉そう」


「そう聞こえるなら、たぶん正しいのでしょう」


 あまりに真顔で返されて、ヴィオレッタはまた少し笑ってしまう。


 こういうところだ、と彼女は思った。

 この男は時々、妙に人の肩から余計な力を抜く。

 慰めるのではなく、別の角度から切って見せることで。


「今夜、レーヴェン子爵家の夜会があります」


「知っている」


「行きますか」


 ヴィオレッタは数秒考えた。


 昼に一度出た。夜にも出れば、もう“静養中”という噂は完全に死ぬ。相手が表の顔を整える前に、こちらだけ二度現れるのは効果が大きい。


「行くわ」


「予想通りです」


「止めないのね」


「止めて得する局面ではありません」


「局面」


「あなたが今夜出ることで、相手は急いで顔を作りに来る。整えきれていない顔を見るなら、今日が一番いい」


 ヴィオレッタは頷いた。


「そうね」


「それに」


「何?」


「あなたはあの場に出れば、自分から視線の中心へ立てる。今はそこに意味があります」


 その言葉は、妙にまっすぐ届いた。

 “頑張れ”でも“無理をするな”でもない。

 ただ、自分が今やるべきことを、言葉の形にして渡してくる。


「ありがとう」


 ヴィオレッタが言うと、カシアンは一瞬だけ視線を外した。


「礼は結構です」


「珍しいのね。いつもなら“まだ早い”とか、“何も終わっていない”とか言いそうなのに」


「同じ言葉は二度も三度も使うべきではありません」


 その返しに、ヴィオレッタは目を細めた。


「少しは学習するのね」


「ええ。あなたほどではありませんが」


 レーヴェン子爵家の夜会は、昼餐会よりもずっと華やかだった。小規模とはいえ、夜になれば宝石も灯りも、人の視線も強くなる。ヴィオレッタは今度は黒に近い深緑のドレスを選んだ。昼より少しだけ硬く、少しだけ冷たい色だ。


 会場へ入ると、昼よりさらに露骨に視線が集まる。


 誰もが知っている。

 昼に侯爵夫人の邸へ公爵夫人が現れたことを。

 毒の噂を自分で切って捨てたことを。

 王宮法務官の名まで出したことを。


 それでも夜会の礼儀は崩れない。皆、笑いながら近づき、花を誉め、季節を語り、ほんの少しずつ核心へ寄せてくる。


 その夜、ヴィオレッタは三人の婦人と一人の老伯爵に、まったく同じ笑顔で違う答えを返した。誰にもすべては見せない。だが、“自分は黙って落ちるつもりがない”ということだけは、全員へ平等に伝える。


 そして夜会の終盤、最も大きな波が来た。


 アーヴィンと義母が、連れ立って現れたのだ。


 遅れて来た。

 それ自体が、準備してきた証拠だった。


 アーヴィンは完璧な夜会用の顔をしている。義母も同じ。二人とも、昼間の書斎やリディアの部屋で見せた歪みを、綺麗に磨き消してきた。さすがだと思った。こういう時だけは、本当に貴族らしい。


 会場の視線がさらに集まる。


 ヴィオレッタはグラスを置き、正面から二人を迎えた。


「ごきげんよう」


 義母が先に微笑む。


「あなたも来ていたのね」


「お招きいただきましたもの」


「少し顔色がいいようで安心したわ」


「ええ。おかげさまで」


 そのやり取りの中で、周囲は既に理解している。

 “揉めている”

 しかも、

 “公爵夫人の方が崩れていない”

 と。


 アーヴィンが柔らかく言う。


「君が出ているなら、一声かけてくれてもよかったのに」


 見事な台詞だった。

 夫婦に不和はなく、ただ連絡が行き違っただけ。

 そう見せるための、実に上手い言葉。


 けれどヴィオレッタは微笑みのまま返す。


「必要ありませんでしたわ。わたくし一人で歩けますもの」


 一瞬だけ、会場の空気が甘く裂けた。


 義母の扇が止まり、アーヴィンの笑みが薄くなる。周囲の婦人たちは、扇の陰で確かに目を輝かせていた。


 その一言は、喧嘩ではない。

 だが明らかに、

 “夫の庇護の外へ出た公爵夫人”

 を見せる言葉だった。


「そう」


 義母が先に整え直す。


「なら、あなたが元気になって本当によかったこと」


 ヴィオレッタは頷く。


「ええ。これから忙しくなりそうですから」


 義母の目が少しだけ細くなる。意味をわかっている目だ。


 夜会が終わる頃には、王都の流れは確実に変わっていた。

 公爵夫人は静養中の弱った女ではない。

 夫と義母が後追いで現れ、関係修復を装おうとしたが、主導権はもう彼女側にある。

 そして王宮法務官が帳場の記録を押さえている。


 それらがひとまとまりの噂になって、夜のうちに広がっていく。


 馬車へ戻る途中、ヴィオレッタは息を吐いた。疲れてはいた。だがそれ以上に頭は澄んでいた。


 次はもう、屋敷の中の削り合いでは済まない。


 公の場で決めるしかない。


 それを自分でも、ようやくはっきり認める。


 帰りの馬車の中で、カシアンは向かいに座っていた。夜会の途中で自然に合流し、最後まで一歩引いたところから様子を見ていたのだろう。彼は何も言わず、ヴィオレッタが先に沈黙を解くのを待っていた。


「昼より効いたわ」


 ヴィオレッタが言う。


「ええ」


 カシアンは頷く。


「向こうも顔を作りに出てきた」


「予定より早く、ですね」


「焦ったのね」


「焦らなければ来ません。来た時点で、少なくとも一つは崩れています」


 彼はそう言ってから、窓の外へ視線をやった。


「義母上はまだ整えていた。公爵閣下は少し甘い」


「甘い?」


「作った顔の継ぎ目が見えました」


 ヴィオレッタは少しだけ笑う。


「あなた、時々そういう言い方をするわよね」


「どんな」


「人間じゃなく、書類みたいに扱うの」


「書類の方が、まだ誤魔化し方に品があります」


 その物言いがあまりにも平然としていて、ヴィオレッタは肩から力が抜けるのを感じた。


「次はどうする」


 彼が問う。


「次は、逃げ道を塞ぐ」


 ヴィオレッタは答えた。


「もう“家の中の問題”では済まない形にする。アーヴィンも、義母上も、リディアも、ヴェルナーも、一人ずつ切り離せるように」


「順番は」


「まずヘレンの証言を整える。次に帳場と慈善院。最後に、公の場で全部を繋ぐ」


 カシアンは短く頷いた。


「悪くありません」


「褒め言葉として受け取るわ」


「勝手にどうぞ」


 そのあと、しばらく二人とも黙った。


 窓の外、王都の灯りが流れていく。今夜自分が見せた顔も、夫が見せた顔も、義母の扇の止まり方も、全部が明日には別の言葉になって人の口を渡る。


「カシアン」


 ヴィオレッタがふいに呼ぶ。


「はい」


「今夜のわたくし、どう見えた?」


 自分でも、少し奇妙な問いだった。評価を乞うようで、そうではない。自分が今どんな顔で戦場へ立っているのか、ただ確かめたかっただけだ。


 カシアンはすぐには答えなかった。少し考えてから、静かに言う。


「戻ってきた人間の顔でした」


「戻ってきた?」


「ええ。誰かの妻でも、誰かの都合のいい公爵夫人でもなく、自分の名で場に立つ顔です」


 ヴィオレッタは視線を落とした。


 その言葉は、思っていたより深く落ちた。派手な褒め言葉より、ずっと。


「そう」


「ええ」


 彼はそれ以上足さない。


 だからこそ、その一言が長く残った。


 屋敷へ帰り着く頃には、空の雲が少しだけ切れていた。薄い月が、磨かれた石畳へ淡く光を落とす。


 ヴィオレッタは馬車を降りる前に、一度だけ息を整えた。


 次は、真正面から終わらせる番だ。

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