6話
屋敷が崩れ始める時、最初に音を立てるのは壁ではない。
沈黙だ。
帳場の記録焼却未遂の夜から二日、公爵家の空気は目に見えて変わっていた。使用人たちは以前よりも静かに歩き、廊下で交わされる会話は短く切れ、視線は合わせられてもすぐに外された。何も起きていないふりをしながら、何かが確実に起きたことだけは全員が知っている。そういう沈黙だった。
ヴィオレッタは離れの窓辺で、その変化を眺めていた。
見張りは外れた。扉の出入りも制限はなくなった。だが本邸へ自由に戻れるわけではない。名目は依然として「静養中の公爵夫人」であり、使用人たちの動線も微妙に彼女を避けるよう変えられている。閉じ込める露骨さを消し、隔てる形だけを残した。義母が考えそうな、いかにも上品で卑怯な処置だった。
机の上には、エルマが朝から集めた紙が三枚重ねられている。
一枚は慈善院への支援記録の写し。
一枚は、ここひと月で突然離職した使用人の名簿。
もう一枚は、リディアの部屋へ頻繁に出入りしていた商人と仕立て屋の一覧。
ヴィオレッタは一番上の紙を指でなぞった。慈善院への支援は、リディアが邸へ入る少し前から増え始め、彼女が屋敷の奥へ入り込むにつれて額が膨らんでいる。表向きは慈善事業。だが中には、不自然なほど細かく分割された出金が混ざっていた。こういう金の流し方は、誰か一人のためにまとまった額を動かした痕跡を隠す時に使われる。
リディアのためか。
誰か別の者のためか。
答えはまだない。だが少なくとも、彼女が「可哀想なだけの娘」で済む段階はとうに過ぎている。
ノックがして、エルマが入ってきた。
「お戻りでしたか」
「ずっとここよ。わたくしに外で優雅に花を見る趣味があるように見える?」
「いいえ。ですから探してはおりません」
いつもの侍女長らしい返しに、ヴィオレッタはほんの少しだけ口元を緩めた。
「収穫は」
問うと、エルマは持っていた小箱を机へ置いた。
「ヘレンの部屋から見つかったものです」
「部屋にまだ入れたの?」
「リディア様付きの部屋は今、半分ほど空いております。あの方自身が気味悪がって、別室へ移りたいと仰ったので」
「なるほど。被害者らしい振る舞いね」
ヴィオレッタは小箱を開けた。中には安物の耳飾り、布の切れ端、折れた櫛、そして小さく畳まれた紙が一枚入っている。
ヴィオレッタはそれを慎重に開いた。
短い走り書きだった。
ごめんなさい。わたしは知らなかった。言われた通りにしただけなの。飲ませる前にやめようと思ったのに、見られていた。
署名はない。だが部屋から出たなら、まずヘレンのものと見ていい。
「“見られていた”」
ヴィオレッタは呟いた。
「誰に」
「わかりません。ただ、紙は寝台の裏板に差し込まれていました。急いで隠したのでしょう」
ヘレンは怯えていた。少なくとも、自分のしていることがただの香りづけではないと途中で気づいていた。ならまだ生きている可能性はある。死んでいれば、こういう“未練の残る隠し方”はしない。誰かに見つけてほしいという気持ちが残っている。
ヴィオレッタは紙を折り直した。
「サラは?」
「厨房下の休憩部屋で押さえております。逃げようとしてはいませんが、かなり怯えています」
「連れてきて」
数分後、サラは本当に青ざめた顔でやって来た。手を前で組み、肩がすくんでいる。誰かを裏切った罪悪感というより、今さら自分がどこへ流されるのかわからない恐怖の顔だった。
「お座りなさい」
ヴィオレッタが言うと、サラは慌てて首を振る。
「立ったままで」
「好きにして」
ヴィオレッタは紙を見せた。
「この字に見覚えは?」
サラは恐る恐る目を落とし、一瞬で顔色を変えた。
「……ヘレンです」
「確か?」
「はい。買い物の控えをよく代わりに書いてもらっていたので」
ヴィオレッタとエルマは視線を交わした。
「ヘレンはどこへ消えたと思う?」
サラは唇を噛む。
「わかりません。ただ、あの日の夕方、リディア様のお部屋から泣いて出てきて……そのあと裏階段の方へ」
「誰かと?」
「誰か……ではなく、ヴェルナー様の小間使いの男が待っていました」
「名は」
「トビアスです」
また一つ名前が出た。
「その男は今どこに」
「昨日から見ていません」
エルマがすぐに口を挟む。
「わたくしも確認しました。夜勤明け以降、姿がありません。休暇届もなしです」
逃げたか、消されたか。どちらにせよ、糸が露骨に整理され始めている。
「サラ」
ヴィオレッタは少しだけ声をやわらげた。
「あなた、なぜそこまで見ていたの」
サラは一瞬だけきょとんとした顔をし、それから目を伏せた。
「……ヘレンが好きだったからです」
思っていたよりまっすぐな答えだった。
「好き?」
「姉みたいで。字も読めないわたしに帳面の見方を教えてくれて、余ったお菓子を隠しておいてくれて、怖い侍女頭に叱られた時も、庇ってくれて」
サラの声は震えたが、泣きはしなかった。
「だから、あんなふうに急にいなくなるの、変だって思って。でも、誰も何も言わないから」
ヴィオレッタは彼女を見た。忠誠ではない。もっと個人的で、もっと弱くて、だからこそ切実な理由だ。
「わかったわ。あなたはしばらくエルマの手元にいなさい。勝手に一人で動かないこと」
サラが目を見開く。
「いいんですか」
「今さら“知らないふり”に戻れないでしょう」
「……はい」
サラが下がると、部屋はまた静かになった。
ヴィオレッタは椅子の背へ指先を預ける。ヘレンの紙。トビアスの失踪。ヴェルナーの焼却未遂。線は増えるが、まだ一本にならない。だが、焦る必要はなかった。相手も焦っているからだ。焦っている者は、次の手を雑にする。
「義母上は今朝、何を」
ヴィオレッタが問うと、エルマはすぐに答えた。
「朝餐のあと、公爵閣下と長くお話しされました。その後、リディア様のお部屋へ」
「ふうん」
「かなり長かったと」
義母がリディアへ会いに行った。
つまり、いよいよ“事情を知らぬ被害者の後見人”ではいられなくなったということだ。あの女は、自分が守るべき相手か、切るべき相手かを見極めに行ったのだろう。
「見たいわね」
「何を」
「二人がどんな顔で会っているのか」
ヴィオレッタは立ち上がった。
「お召し物を」
「本邸へ戻られるのですか」
「ええ。堂々と。離れから這い出た亡霊みたいに隠れても意味がないもの」
エルマはすぐに濃紺のドレスを用意した。装飾は控えめだが、生地は上質で、首元の線が冷たく美しい。公爵夫人が“まだ終わっていない”と見せるにはちょうどいい装いだった。
鏡の前に座りながら、ヴィオレッタは自分の顔を見る。少し痩せた。目元も以前より硬い。だが崩れてはいない。むしろ、昔より輪郭がはっきりした気さえする。
「お化粧は薄く」
「はい」
「疲れて見えない程度に、でも弱くは見せないで」
「かしこまりました」
エルマの手は迷いがなかった。長年、公爵夫人の顔を作ってきた侍女の指だ。
本邸へ向かう廊下で、使用人たちの空気が一瞬だけ止まった。離れに置かれた公爵夫人が、何事もなかったような顔で戻ってくる。その光景自体が、もう一つの宣言だった。
ヴィオレッタは誰にも声をかけず、真っ直ぐに南棟へ向かった。
リディアの部屋の前には、以前より人が少ない。被害者を囲むにしては寂しい配置だ。既に周囲も「近くにいると面倒に巻き込まれる」と感じ始めているのだろう。
扉の前で侍女が慌てて止めようとする。
「奥様、今は」
「通します」
ヴィオレッタが微笑んで言うと、侍女は困り果てた顔で押し黙った。後ろ盾のない使用人は、強い声より正しい姿勢に弱い。
扉を開ける。
室内には義母とリディアがいた。リディアは寝台の背にもたれ、青白い顔で薄いショールを肩にかけている。いかにも病み上がりの娘の姿だ。義母は椅子に腰かけ、まるで慈悲深い後援者の顔をしていた。
けれどヴィオレッタが入った瞬間、その顔が揃って固まった。
「……まあ」
義母が先に声を出した。
「あなた、休んでいなさいと」
「静養にも飽きましたの」
ヴィオレッタは穏やかに言う。
「ごきげんよう、リディア。お加減はいかが?」
リディアの唇が震える。
「公爵、夫人さま……」
その怯えた呼び方に、ヴィオレッタは思わず感心しかけた。ここまでくると才能だ。自分を加害者に仕立てた女へ向ける声として、ほとんど完璧だった。
「ご安心なさい。今ここでお茶を勧めたりはいたしませんわ」
義母の眉がぴくりと動く。リディアの目に涙が滲んだ。
「わたし、そんなつもりじゃ」
「どんなつもりか、いずれ伺いたいと思っていたの」
ヴィオレッタは部屋の中央まで進んだ。
「あなたがこの家に入ってきてから、慈善院への支援が増え、帳場の鍵は変わり、使用人が入れ替わり、そして今、あなた付きの侍女が消えている」
義母が椅子から立ち上がる。
「ヴィオレッタ、やめなさい」
「何を」
「病人を脅すつもりですか」
「脅しているのではありません。確認です」
リディアは涙をこぼしながら首を振った。
「わ、わたしは何も……ヘレンのことも知らなくて……」
「そう」
ヴィオレッタはリディアの近くまで行き、寝台脇の小卓へ目をやった。薬草茶、半分だけ食べたビスケット、香水瓶。そして高価な刺繍入りのハンカチ。どれも“守られる娘”にしては過分な品だ。
「では聞きますけれど、あなたは慈善院にどれだけ借りがあるの」
リディアの顔が止まった。
義母が鋭く言う。
「何の話です」
「簡単な話ですわ。哀れな娘を保護したと思っていたら、実際はずいぶんと金が動いていた。なら、ただ助けたのではなく、引き取るだけの理由が最初からあったのではないかと考えるのが自然でしょう」
義母の顔色がゆっくり変わる。
リディアは咄嗟に義母を見た。その一瞬が致命的だった。知らない者は、答えの前に後ろ盾の顔を見ない。
ヴィオレッタはその動きを見逃さない。
「あなた、誰に幾ら払ったの」
「ち、違っ……」
「誰に教わったの。泣き方? 黙り方? それとも、どこで倒れれば一番綺麗に見えるかしら」
「やめなさい!」
義母がついに声を荒げた。
その音でリディアの肩がすくむ。被害者を守る後見人のふりをしていた義母の声が、初めて本気の苛立ちを帯びた。つまり余裕が削れている。
「お義母様」
ヴィオレッタはそちらへ向き直る。
「あなたも気づいていらっしゃるでしょう。これはもう“可哀想な娘を庇う”だけでは済みませんわ」
「あなたに言われずともわかっています」
「そう。ではもう一つ」
ヴィオレッタは、ヘレンの残した紙を取り出した。
義母の目が細くなる。リディアは怯えた顔でそれを見つめた。
「ヘレンの部屋から出ましたの。“知らなかった。言われた通りにしただけ。飲ませる前にやめようと思ったのに、見られていた”」
紙を読み上げると、リディアの顔から完全に血の気が引いた。
今度こそ、本当に。
「そんな……」
かすれた声。義母もさすがに表情を保てなくなっている。
「あなたはこの子に、何を持たせたの」
ヴィオレッタの問いは静かだった。
リディアは言葉を出せない。喉が閉まっている。
「……わたしは」
「ええ」
「わたしは、ただ、少し気分が悪くなるだけの薬草だと」
義母が息を呑んだ。
ヴィオレッタは瞬きひとつせず、続きを待った。
「誰に言われたの」
リディアは今度は即座に首を振らなかった。そこにためらいがある。つまり名を出せる誰かがいる。
「……旦那様ではありません」
最初にそう言ったことが、かえって滑稽だった。
「誰が、旦那様の話をしました?」
ヴィオレッタが問うと、リディアは唇を噛んだ。
「わたし、怖かったんです。ここにいていいって言われたのに、奥様が……奥様がわたしを嫌っているのはわかっていて」
「だから先に被害者になったの?」
「違う!」
リディアが初めて声を上げた。
その瞬間、部屋の空気が変わる。今までの弱々しい娘ではない、別の熱が見えた。
「わたしは、ここを追い出されたくなかっただけ! あの慈善院に戻るくらいなら死んだ方がましだった!」
涙を流しながら、彼女は震えていた。けれどその震えは、さっきまでの儚さとは違う。剥き出しの生存本能だ。
ヴィオレッタはそれを見て、ほんのわずかに哀れだと思いかけた。思いかけて、やめた。
哀れであることと、許されることは別だ。
「誰に言われたの」
もう一度問う。
リディアは息を荒くしながら、とうとう答えた。
「……ヴェルナー様です」
義母が目を見開く。
「帳場を見られる前に、公爵夫人様がしばらく表に出られなくなれば、それだけでいいって……少し騒ぎになっても、旦那様が守ってくださるからって」
ヴィオレッタは一言も挟まなかった。
ヴェルナー。
やはり表に立つ手足だった。
だが問題は、その男が単独でここまでやる理由があるかだ。
「その見返りは」
リディアが涙の中で顔を上げる。
「見返り?」
「ただ怖かっただけで、執事長の言うことを聞くのは不自然ですわ。あなたにも何か約束があったのでしょう」
リディアは黙る。
義母が低く命じるように言う。
「答えなさい」
今度は女主人としての声だった。リディアはその声に震え、ついに絞り出す。
「……身の振り方を、整えると」
「どこへ」
「王都の外れに、小さな家を。あと、毎月の金も……」
義母がゆっくりと目を閉じた。
つまりヴェルナーは、リディアを“この家から綺麗に外す”つもりだったのだ。被害者として一時的に守り、騒ぎが収まったあとに別の場所へ置く。公爵家の名には泥をつけず、余分な口も減らす。その間に帳場の不正も焼く。
そして公爵夫人ヴィオレッタだけが、嫉妬に狂った加害者として残る。
実に都合がいい。
「お義母様」
ヴィオレッタはゆっくりと言った。
「執事長ひとりで、ここまでの約束ができると思います?」
義母は目を開け、こちらを見た。彼女ももう、その答えが簡単ではないとわかっている顔だった。
「……アーヴィンを呼びましょう」
そう言った時には、もう“家内で収める”という顔ではなかった。
「ええ。そうして」
ヴィオレッタは頷く。
「それと、リディアはこのまま部屋を移さない方がいいですわ。余計な口を挟まれないように、誰が入るか決めておくべきです」
「あなたが指図するの」
「指図ではなく提案です。今のところ一番、屋敷の嘘を剥がしているのはわたくしでしょう?」
義母は返さなかった。
それが答えだった。
アーヴィンが来るまでの時間は、妙に長く感じられた。リディアは泣き疲れたように項垂れ、義母は一言も発さず、ヴィオレッタだけが立ったまま窓辺の薄曇りを見ていた。
やがて扉が開く。
アーヴィンは入ってくるなり、部屋の空気で異変を察したようだった。母と妻と愛妾。その誰もが彼を迎える顔をしていない。
「何だ、これは」
「あなたに聞きたいことがあります」
義母が先に言った。
「ヴェルナーがリディアに何を約束し、何をさせたのか。あなたはどこまで知っているの」
アーヴィンの顔が固まる。
ヴィオレッタはその横顔を見た。ここで彼がすべてを知らなかったなら、情けない。知っていたなら、もっと醜い。どちらに転んでも、もう以前の“余裕ある公爵”には戻れない。
「……ヴェルナーが何を言った」
リディアが涙目で彼を見上げる。
「旦那様、わたし……」
「答えなさい、アーヴィン」
義母の声が冷たい。
アーヴィンは沈黙したあと、ようやく言った。
「被害を大きく見せれば、母上もヴィオレッタも簡単には動けないと思った」
義母が白くなる。
リディアが息を止める。
ヴィオレッタだけが、静かに瞬きをした。
とうとう出た。
自白と呼ぶにはまだ弱い。けれど充分だった。夫は知っていたのだ。どこまで毒を盛るつもりだったかはともかく、騒ぎを大きく見せて公爵夫人を止める意図を。
「あなた」
義母の声が震えた。
「何を考えているの」
「母上だって、ヴィオレッタを帳場から外すのに反対しなかっただろう!」
アーヴィンが言い返す。
「家を守るためには仕方なかった!」
「仕方ないですって?」
「このままでは全部が表に出る! ユリウスの件も、慈善院への流れも、寄付名目の処理も! 誰かが一度押さえなければ」
部屋が静まり返る。
ヴィオレッタは思った。ああ、この男は本当に、自分が“押さえる側”だと思っているのだ。実際には、自分の手に余るものを妻へ押しつけ続けてきただけなのに。
「だからわたくしを毒婦にしたのね」
静かに言うと、アーヴィンの視線がこちらへ向く。
「そこまでのつもりでは」
「でも構わなかった」
ヴィオレッタは遮った。
「少し体調を崩すだけ。少し離れに置くだけ。少し外で静養していることにしておくだけ。その“少し”を積み上げれば、気づけば公爵夫人は消えているものね」
アーヴィンは何も言えない。
義母が椅子へ手をついた。あの女が一瞬だけ老いて見えた。
「……わたくしは、家のためにあなたへ厳しくしてきたつもりだった」
息子へ向ける声。
「でもあなたは、家を守るという言葉を、ただ隠すために使ったのね」
アーヴィンの顔に、初めて本物の焦りが滲む。母を失う顔だ。
「母上」
「黙りなさい」
その一言は重かった。
ヴィオレッタはそこで、ようやく義母が完全にこちら側へ来たのではなく、ただ息子から距離を取っただけだと理解した。だがそれで充分だ。今は味方でなくていい。敵が分かれてくれれば。
「ヴェルナーを正式に切ります」
義母が言った。
「帳場と使用人の全権は一度、外へ預ける。法務官殿と相談を」
「母上!」
「うるさい!」
アーヴィンが押し黙る。
リディアはそのやり取りを見ながら、完全に取り残された顔をしていた。彼女は生き残るために被害者を演じた。だが今、庇う側の構図が崩れた瞬間、自分が真っ先に切られる駒でもあるとようやく気づいたのだろう。
ヴィオレッタはその顔を見て、胸の奥に鈍いものが落ちるのを感じた。哀れだ。だが、だからといって手を差し伸べる気にはなれない。
リディアは自分を生かすために、こちらを殺す側へ乗った。
それだけのことだ。
部屋を出る時、アーヴィンが低く彼女を呼んだ。
「ヴィオレッタ」
足を止める。
「まだ何か」
「私は……」
その先が続かない。
謝罪ではない。弁解でもない。何か言わなければと思っているだけの声だ。
ヴィオレッタは振り返らなかった。
「言葉を探すのが遅すぎますわ」
それだけ残して、部屋を出た。
廊下へ出ると、肺へ入る空気が少し冷たかった。けれど部屋の中よりずっとましだ。エルマが離れたところで待っている。彼女はヴィオレッタの顔を見ただけで、だいたいを察したらしい。
「進みましたか」
「ええ」
「旦那様は」
「思ったより愚かで、思ったより弱かったわ」
エルマは短く頷く。
その時、向こうの回廊からカシアンが歩いてくるのが見えた。黒い上着のまま、昼の光の下でも相変わらず表情は薄い。だが彼の目は、ヴィオレッタを見つけた瞬間だけ少しやわらいだ。
「ちょうど探していました」
「悪い知らせ?」
「半分は」
「では残り半分は」
「ヘレンが見つかりました」
ヴィオレッタは足を止めた。
「生きているの?」
「ええ。王都南端の宿場で保護しました。衰弱していますが、話はできます」
胸の奥で、強く張っていた糸が一つ緩むのを感じる。まだ終わっていない。けれど、失われたと思っていた証人が生きている。それだけで盤面は大きく変わる。
「会える?」
「今日のうちに」
「行くわ」
即答すると、カシアンはわずかに眉を動かした。
「あなたは疲れている」
「疲れていても行く」
「でしょうね」
その返しに、ヴィオレッタは少しだけ笑った。
エルマが準備のために先に下がる。廊下に二人だけが残る。
「今、義母とリディアと話していたの」
ヴィオレッタが言う。
「結果は」
「義母は息子から距離を取る。リディアはヴェルナーの名を出した。アーヴィンは、騒ぎを大きく見せればわたくしを止められると思った、と」
カシアンの目が細くなる。
「それはほとんど認めていますね」
「ええ。ほとんど、で止めているあたりがあの男らしいけれど」
少しの沈黙。
カシアンは低く言う。
「あなたは大丈夫ですか」
その問いは何気ない形をしていた。だが中身は違う。怪我はないか、ではない。立てるか、壊れていないか、という意味だ。
ヴィオレッタは答えに迷った。
大丈夫ではない。昔ならこんな問いに、何でもない顔で「ええ」と返せたはずだ。だが今の自分にそれをやると、妙に空しい。
「……わからないわ」
結局そう言った。
カシアンは黙ったまま、続きを待った。
「勝っている気はするの。でも、ひとつ剥がれるたびに、最初から何も持っていなかったみたいにも思える」
自分で口にしてから、その言葉の痛みに驚いた。そうだ。復讐は、奪われたものを取り戻す行為であるはずなのに、時に“本当は最初から空だった”と突きつけてくる。
カシアンは長く沈黙したあと、言った。
「最初から何もなかったわけではありません」
「どうしてそう言い切れるの」
「あなたがまだ、それを失ったことに傷ついているからです」
ヴィオレッタは彼を見た。
その答えは優しくはなかった。慰めでもない。けれど、妙に正確だった。もし本当に最初から何もなければ、こんなに痛まない。
胸の奥が少しだけ軋む。
「そういうところよ」
「何が」
「時々、とても嫌なくらい見ているところ」
カシアンの口元が、ほんのわずかにだけ動く。
「職業柄です」
「便利ね、その言い訳」
「ええ」
それ以上踏み込まない。その距離がありがたくて、同時に少しだけ苦しい。
ヴィオレッタは視線を逸らした。
「行きましょう。ヘレンが気を変える前に」
「はい」
二人は並んで歩き出す。肩が触れるほど近くはない。けれど離れすぎてもいない。その半端な距離が、今の二人にはちょうどよかった。
屋敷の外へ出ると、風が変わっていた。雨の名残は薄れ、代わりに乾いた冷たさがある。空はまだ曇っているが、どこか高いところで雲が割れ始めている気配がした。
ヘレンは見つかった。
義母は息子から手を引き始めた。
リディアは被害者の仮面の下を見せた。
アーヴィンは自分の愚かさを半分だけ認めた。
話はもう、屋敷の内輪だけで終わる段階ではない。
ヴィオレッタは馬車へ乗り込む前に、一度だけ本邸を振り返った。整った石造りの屋敷。美しい窓。長年、自分が守ってきた場所。
けれど今は、守るべきものには見えなかった。
あれはもう、剥がすべきものの形をしている。




