3話
東の離れで迎える朝は、屋敷の中にいる時とは違う音で始まる。
鳥の声ではない。庭師の道具の音でも、遠くの馬車でもなかった。見張りの靴底が、湿った石の上を行き来する乾いた擦れだ。人の気配を消そうとしているくせに、かえって存在だけは耳につく。閉じ込められた者にとって、外にいる人間の遠慮はときに侮辱より質が悪い。
ヴィオレッタは薄く目を開けた。
夜の終わり際に少しだけ落ちた眠りは、深いとは言えなかった。けれど眠れなかった昨夜よりましだ。枕元には、折りたたんだままの紙片が置いてある。
次は帳場を見てください。奥様が落ちる前に、誰かが金を動かしています。
短い一文だが、その重さは充分だった。
帳場。金。自分が落ちる前に。
つまり、リディアへの毒と同じ時期に、別のところでも準備が進んでいたということだ。事件は突発ではない。少なくとも、金が動く程度には段取りされている。
ヴィオレッタは紙片をもう一度開き、文字を確認した。丸みのある女の筆跡。上流の教育を受けた筆ではないが、字の崩し方に妙な丁寧さがある。誰かが急いで書いたが、雑にはしたくなかったような筆跡だ。
下働きの女。あるいは若い侍女か。年寄りの手ではない。
そこまで考えたところで、扉の向こうに食器の音がした。
「お入り」
返事のあと、若い侍女が盆を持って入ってきた。顔見知りではない。おそらく本邸からではなく、外回りか離れ付きの女だ。視線は床へ落ちたまま、過不足なく朝食を並べていく。パン、薄いスープ、果物、紅茶。毒を恐れていることが見えるほど整いすぎた配置だった。
「名前は」
ヴィオレッタが聞くと、侍女は一瞬だけ肩を震わせた。
「……サラでございます」
「昨日はいなかったわね」
「今朝から、こちらのお世話を命じられました」
言葉の端が硬い。誰に何を言うなと命じられているのか、手に取るようにわかる。
「そう。では覚えておきます、サラ」
侍女は小さく頭を下げた。去ろうとする気配を見て、ヴィオレッタは続ける。
「帳場の方は、今朝も動いているのかしら」
侍女の背がぴくりと止まった。
「……存じません」
「存じない、ではなく、言えないのね」
「わ、わたくしは何も」
「大丈夫よ。今ここで無理に喋らせるほど、わたくしも愚かではないわ」
サラは息を呑んだあと、ぎこちなく一礼して出ていった。
扉が閉まる。
ヴィオレッタは紅茶に手をつけず、まず窓辺へ行った。朝の空はまだ鈍く曇っている。雨は昨夜ほど強くないが、石畳にはしっとりと濡れた色が残っていた。見張りは二人。表の小径に一人、裏手の植え込み近くに一人。露骨すぎる配置だ。逃げるつもりがなくとも、逃げられないとわからせるための配置。
逃げないわよ、とヴィオレッタは心の中でだけ呟いた。少なくとも今は。
机に戻り、朝食の横へ紙片を置く。帳場を見ろ、と匿名の誰かは言った。見ろと言われて素直に見られる状況ではない。ならば、見せるように動かすしかない。
その時、もう一度ノックがした。
「エルマでございます」
「入って」
侍女長はほとんど音もなく部屋へ入ってきた。眠っていない顔だった。瞼の下に薄い影がある。けれど姿勢は崩れていない。長年仕えてきた女の矜持というものは、こういう時ほど骨に出る。
「ご気分はいかがですか」
「最悪と言いたいところだけれど、そんな言葉で少し楽になる年でもないわ」
ヴィオレッタが言うと、エルマの口元がほんのわずかにだけ緩んだ。笑った、と呼ぶには小さすぎる動きだったが、それで充分だった。
「こちらを」
エルマは布に包んだ小さな帳面を差し出した。
「何?」
「ここ数日の離れと本邸の出入り、それから帳場に入った者の名を、わかる範囲で」
ヴィオレッタは受け取り、頁を開く。侍女長らしい細かい字が並んでいた。厨房係、伝令、出入り商人、会計係、使用人頭。リディアの侍女ヘレンの名も複数回ある。その中に、妙な並びがあった。
「……慈善院の使い?」
「はい。三日前と四日前に来ています」
「わたくしには報告がなかったわ」
「本来なら奥様を通す案件です」
つまり、誰かが公爵夫人を飛ばして金を動かしている。
「額は」
「正確な記録が手元にありません。ただ、古い伝票と照らす限り、通常の月よりかなり多いかと」
「慈善院への支援名目で」
「おそらく」
ヴィオレッタは指先で頁をなぞった。慈善院。リディアを連れてきたきっかけとなった場所。そこで金が動く。動いたあとに毒騒ぎが起きる。線が一本で繋がるほど単純ではないにせよ、無視してよい偶然でもない。
「帳場へ行きたいわね」
「それは」
「ええ、無理でしょうね」
言いながらヴィオレッタは帳面を閉じた。
「昨日、誰かから紙を受け取ったの」
エルマの目が動く。
「紙?」
ヴィオレッタは例の紙片を見せた。エルマはすぐには受け取らず、視線だけで内容を読む。そのあと慎重に手に取り、文字を見た。
「心当たりは?」
「いえ。ただ……女の字です。若い者かと」
「わたくしもそう思う」
エルマは紙片を戻した。
「誰かが奥様に知らせようとしている」
「味方か、利用したいだけかはまだわからないけれど」
「それでも、今の状況で危険を冒して紙を入れてくる者がいるという事実は大きいです」
その通りだった。誰かが見ている。誰かが、このまま自分を落としきる流れに引っかかりを覚えている。たとえそれが忠義でなくても、充分だ。
ヴィオレッタは少しだけパンをちぎり、口に運んだ。味がしない。それでも空腹で思考が鈍るよりいい。
「アーヴィンは?」
「本邸におります。今朝は朝一番で財務院の使いと面会し、その後、義母上のお部屋へ」
「リディアは」
「静養中です。命に別状はないとのことが、今朝には屋敷中へ広まりました」
「ずいぶん早いわね」
「はい」
早すぎる。毒を盛られた可哀想な娘、生き延びてはいるが弱々しい被害者、そして嫉妬深い公爵夫人――物語の役割分担が、もう使用人の間で整っている速度だ。
「誰が広めたのかしら」
ヴィオレッタが呟くと、エルマは答えなかった。答えなくてよい問いだった。
「カシアン殿からは」
「今朝早く、伝言だけ」
「何と」
「“帳場の鍵は人より先に物が覚えている”と」
ヴィオレッタは思わずエルマを見た。
「何それ」
「わたくしにも意味は」
「……いや、少しわかるわ」
帳場の鍵。つまり人の証言より、鍵の使用痕や、帳簿の出し入れ、印章、そういう“物”の方が嘘をつかないということだ。あの男らしい、遠回りで厄介な言い方だ。
「エルマ、帳場の鍵を直接見ることはできる?」
「厳しいかと。今は旦那様付きの執事が管理しております」
「前は違ったわね」
「はい。以前は奥様と帳場頭、それから執事長で三重に」
以前は。
つまり既に権限の移動が始まっている。自分が離れへ移されるより先に、あるいは少なくとも同じ時期に。準備が早い。やはり偶発ではない。
「……帳場頭は誰が」
「ベネットです」
「呼べる?」
エルマは少しだけ迷った。
「難しいでしょう。ただ、彼は数字に強い代わりに度胸はない男です。もし何かを見ていても、自分からは動きません」
「なら揺らせばいい」
「何で」
「怖い方で」
ヴィオレッタはそう言い、ようやく少しだけ笑った。
エルマが去ったあと、昼近くまで誰も来なかった。その間ヴィオレッタは、手元の記録を何度も読み返し、紙片の文字を頭へ焼き付け、慈善院とリディアがこの家へ入り込んだ時期を重ね合わせた。
リディアが現れてから、どこが変わったか。
義母の態度。アーヴィンの気の緩み。ユリウスの軽口。使用人の視線。そして金の流れ。
人は感情だけでは動かない。動く者もいるが、長く続く流れには必ず金がつく。誰が得をして、誰が楽をし、誰が隠したいのか。それを見れば、大抵のことは輪郭が出る。
ノックがして、昼食が運ばれた。
今度はサラではなく、見張りの兵が一人ついていた。あからさまだ。ヴィオレッタは目も合わせず、銀盆の上に置かれた封筒へ気づいた。
「これは」
侍女が答える前に、兵が口を開く。
「旦那様より」
封はアーヴィンの印章で閉じられていた。
ヴィオレッタはその場で開ける。
中には、あまりに短い文面があった。
ヴィオレッタ
しばらくは離れで静養してほしい。外へ余計な話が漏れぬよう、君も軽率な行動は慎むべきだ。
必要なものがあれば書き付けて渡しなさい。
アーヴィン
必要なもの。
ヴィオレッタはその文を見つめ、それから静かに紙を折りたたんだ。
謝罪はない。
説明もない。
信じるという言葉も。
ただ、自分が厄介事の中心にいるという前提だけが綺麗に敷かれている。
兵がまだ立っているのを見て、ヴィオレッタは言った。
「お返事は」
「必要なら」
「では、必要です」
彼女は机へ向かい、便箋を取った。迷いなく書く。
公爵閣下
静養という言葉で監禁を飾るご趣味があるとは、存じ上げませんでした。
必要なものは三つ。帳場の記録、慈善院への支援伝票、そして正気です。
最後の一つは、どうやらこの屋敷で最も不足しているようですわね。
ヴィオレッタ
書き終えて封じると、兵が露骨に困った顔をした。
「そのままお渡しなさい」
「しかし」
「そのまま」
兵は結局、頭を下げて持っていった。
あの男がこれを読んでどういう顔をするのか、少しだけ興味が湧いた。怒るだろうか。呆れるだろうか。あるいは、公爵夫人は取り乱していると都合よく解釈するかもしれない。
どちらでもいい。今はまだ、相手の形を見たい。
昼過ぎ、風向きが変わって曇り空の隙間にわずかな明るさが差したころ、意外な来客があった。
ユリウスだった。
彼は見張りに何か言って入ってきたらしく、扉の前で妙に居心地の悪そうな顔をしていた。いつもの軽薄な明るさはほとんどない。あるのは、自分でも何をしに来たのかわからない男の曖昧さだ。
「入ってよろしいか、姉上」
「今さら許可を求めるの」
「そう言うなよ」
ヴィオレッタは椅子を勧めなかった。ユリウスも勧められないまま立っている。
「何の用」
「いや……少し話を」
「話すことがあるのね」
「あるさ。そりゃ」
彼は髪をかき上げ、視線を泳がせた。
「昨夜は……その、ひどい言い方をした」
「昨夜だけかしら」
ユリウスが口をつぐむ。
「姉上だってわかってるだろ。俺は別に、あんたを本気で疑ってるわけじゃ」
「疑っていないのに、誰一人止めなかった」
「兄上も母上も取り乱してて」
「あなたは取り乱していなかったでしょう」
ぴたりと返すと、彼は黙る。こういう時、この義弟は本当に弱い。悪人ならまだましだ。悪意で動く者は読みやすい。だがユリウスは、いつも一番楽な方へ流れ、そのくせ自分はそこまで酷くないと信じている。
「兄上も、あとでちゃんと考え直すと思う」
「考え直す?」
ヴィオレッタは彼を見た。
「わたくしの部屋から毒瓶が出て、離れに移され、屋敷中に話が回り、今さら何をどう考え直すの」
「証拠が揃えば」
「揃えるのは誰?」
「それは……」
「まさか、わたくし?」
ユリウスは苦しそうに顔を歪めた。責められるのが苦しいのではない。自分が責められて当然のことをしたと、薄々わかっている顔だ。
「姉上は昔から、何でも一人で片づけすぎるんだよ」
絞り出した言葉がそれだった。
ヴィオレッタは数秒、言葉を失ったあと、小さく息を吐いた。
「そうね。片づけてきたわ。あなたの借財も、義母上の無茶な寄付も、旦那様……いいえ、公爵様の見栄も」
「それは」
「そのたびに、あなたたちは“姉上ならどうにかする”で済ませた」
ユリウスの顔色が変わる。図星なのだ。
「だから今回もそう思っているの? 少し閉じ込めて、少し時間を置けば、わたくしが勝手に綺麗に片づけると」
「そんな言い方」
「そんなも何も、ずっとそうだったでしょう」
ユリウスは返せなかった。
ヴィオレッタはそこでようやく、彼がここへ謝りに来たわけではないと理解した。確認しに来たのだ。公爵夫人が本当に壊れていないか。まだ“いつもの姉上”の顔をしているか。もしそうなら、自分が完全に悪者にならずに済む道が残るから。
「ユリウス」
彼が顔を上げる。
「あなた、帳場の金の動きについて何か知っている?」
「な、何の話だ」
「知らないふりが下手ね」
「知らないよ。ちょっと借りただけだ」
言ってから、彼はしまったという顔をした。
ヴィオレッタは目を細める。
「借りた?」
「いや……その」
「どこから」
「帳場じゃない。兄上が許してくれた分を、少し前借りしただけだ」
「兄上が」
「だから、大したことじゃ」
「額は」
「百二十ほど」
ヴィオレッタは一瞬、沈黙した。
「百二十金貨を“大したことじゃない”と?」
「すぐ戻すつもりだった!」
「何で」
「勝てる賭けがあって」
「負けたのね」
ユリウスは言い返さない。
ヴィオレッタは立ち上がった。怒りが先に来ると思っていたが、違った。むしろ頭が冷える。百二十金貨。慈善院への余計な支援。消えた伝票。金が動いている。しかもアーヴィンは知っている。義弟の穴埋めに帳場を使っていたなら、帳場を握りたい理由は増える。
「誰が処理したの」
「兄上と、執事長が」
「わたくしに黙って?」
「姉上に言ったら怒るだろ」
「怒るべきことだからよ」
ユリウスは後ずさるように一歩引いた。
「別に、俺は姉上を陥れようとか、そういうのじゃない。ただ、その……今、兄上たちも余裕がなくて」
「だから黙っていろと?」
「そうじゃなくて」
「同じことですわ」
ヴィオレッタは彼に背を向けた。もうこの男の顔を見ていても益はない。
「帰りなさい」
「姉上」
「今聞いた話を、わたくしが使わないと思っているなら甘いわよ。あなたは自分の足元を掘ったの」
「脅すのか」
その言葉に、ヴィオレッタは振り返った。
「脅しではなく事実です」
ユリウスは結局、それ以上何も言えずに出ていった。扉が閉まり、部屋に静けさが戻る。
百二十金貨。
ヴィオレッタは窓辺まで歩き、外を見た。曇り空の薄明かりが庭の濡れた土に落ちている。花の色は鈍い。こういう天気の日は、物が腐る匂いがしやすい。見えないところからじわじわと。
帳場には穴がある。
アーヴィンは知っている。
ユリウスはそこから借り、戻せていない。
そしてリディアの件と前後して、公爵夫人の権限が外され始めている。
綺麗な絵になりすぎている。けれど今はまだ、一人の犯人へ絞るには早い。リディア自身がどこまで噛んでいるのか。義母は金の動きを知っているのか。執事長は誰に従っているのか。
考えを辿っていると、扉の外で再び靴音が止まった。
「公爵閣下です」
見張りの声。
ヴィオレッタは椅子へ戻り、座ったまま答える。
「どうぞ」
アーヴィンが入ってくる。昨日より疲れて見えた。だがその疲れは、妻を疑った男の良心からくるものには見えない。厄介事が増えた当主の顔だ。
「手紙を読んだ」
「そう」
「相変わらず、こういう時でも刺々しい」
「便利な公爵夫人は離れに置いておいて、言葉だけは従順でいろと仰るの?」
アーヴィンは眉を寄せた。
「君は今、自分の立場がわかっているのか」
「ええ。よくわかっておりますわ。都合の悪い時だけ危険な妻に仕立てられる立場でしょう」
「誰も仕立ててなど」
「では、信じていらっしゃる?」
問いは短かった。
アーヴィンは黙る。
その沈黙は昨日と同じ重さで、しかし今日はもうヴィオレッタを傷つけるだけの力を持たなかった。傷つく前のものが少しずつ剥がれ落ちているからだ。
「話がある」
彼は言った。
「何かしら」
「王宮側へは、体調不良でしばらく夜会や訪問を控えると伝える」
「なるほど。疑惑の妻、ではなく、体調不良の公爵夫人にするのね」
「表向きはそうするしかない」
「表向き」
「家のためだ」
またその言葉だ。
ヴィオレッタは自分でも不思議なほど冷静に、夫の顔を眺めた。この男は本当に、自分が家そのものだと思っている。そしてその家を保つためなら、妻の評判も自由も、一時的に預かる程度の感覚で差し出せるのだ。
「帳場の伝票を見せて」
唐突に言うと、アーヴィンの顔が固まった。
「何のために」
「慈善院への支援、南棟改修費、ユリウスへの前貸し。全部ですわ」
数秒の沈黙。
「誰に聞いた」
「誰でも同じです。問題は、あるかないかでしょう」
「ユリウスが喋ったのか」
「それも同じこと」
アーヴィンは一歩踏み出し、低く声を落とした。
「君は今、自分の疑いを晴らすことだけ考えていればいい」
「わたくしの疑いは、帳場とも繋がっているかもしれませんわ」
「関係ない」
「あるでしょうね」
「ヴィオレッタ!」
彼の声が部屋に響く。
その怒鳴り方を聞いて、ヴィオレッタははっきりと理解した。図星だ。帳場に何かある。しかも、自分に見られると困る程度には。
「……あなた、何を隠しているの」
静かに聞くと、アーヴィンは顔を背けた。ほんのわずか。だが見逃さなかった。
「隠してなどいない」
「下手な嘘」
「君は今、何でもかんでも結びつけているだけだ。精神的に参っているんだろう」
その言い方に、ヴィオレッタは小さく笑った。
「今度はそう来るのね。嫉妬深い妻が駄目なら、気が昂っている妻」
「私は心配している」
「心配?」
「君がこれ以上、みっともなくならないようにだ」
その瞬間だけ、部屋の空気が完全に変わった。
ヴィオレッタは立ち上がった。ゆっくりと。
「みっともないのは、どちらかしら」
アーヴィンが顔を上げる。
「長年、わたくしに家を支えさせておいて、都合が悪くなれば鍵を取り上げ、部屋を探り、離れへ押し込み、それでもまだ“家のためだ”と仰る。随分と立派なご当主ですこと」
「言葉を慎め」
「慎んできた結果がこれでしょう」
「ヴィオレッタ」
「もうその名を、都合のいい時だけ優しく呼ばないで」
アーヴィンは息を止めたように見えた。初めて、少しだけ傷ついた顔をした。だがそれさえも、今のヴィオレッタには遅すぎる。
「伝票は見せない」
彼は硬い声で言う。
「君には休んでもらう。しばらくは本当に」
「本当に休ませたいなら、まず疑いを解いてからにして」
「証拠が出た」
「置かれたのでしょうね」
「証明できるのか」
「今はまだ」
「なら黙っていろ」
その言葉は、ほとんど本性だった。
ヴィオレッタは目を閉じなかった。目を逸らしもしない。
「黙りませんわ」
アーヴィンは何か言いかけ、結局飲み込んだ。そして振り返り、扉へ向かう。
「必要なものがあれば言え」
「帳場の記録と正気だと申し上げたはずです」
彼は返らず、そのまま出ていった。
扉が閉まる。
その直後、ヴィオレッタは背もたれへ指先を置いた。強く握っていなければ、立ったままでいられないほどではない。けれど少しだけ、息を整える時間が必要だった。
怒りはある。
失望もある。
だが今一番大きいのは、確認だった。
もう間違えない。
この男は、戻ってこない。
少なくとも、自分の味方としては。
その時、窓の外を横切る影があった。庭師ではない。女の影。さっと植え込みの向こうへ消えたが、一瞬だけ白いエプロンの裾が見えた。
ヴィオレッタはすぐに窓辺へ寄る。見張りは反対側を向いている。今の影は見ていない。
窓枠の外、石の縁に小さな包みが置かれていた。
彼女はそっと窓を押し開け、雨の湿り気を含んだ空気の中、包みを拾う。油紙にくるまれている。中には鍵の歯型を蝋に取ったものが入っていた。
そして短い紙が一枚。
帳場の小鍵です。今夜、古い記録が燃やされます。
ヴィオレッタはそれを見て、静かに息を止めた。
相手は余計なことをする。
そう、カシアンは言った。
もう一つ訂正が必要かもしれない。
余計なことをするのは、敵だけではない。
こちら側にも、覚悟を決めた誰かがいる。
雨の匂いの中で、ヴィオレッタは指先の蝋型を見つめた。帳場の小鍵。今夜、記録が燃やされる。
ならば、今夜が動く夜だ。
離れに閉じ込められた公爵夫人のままで終わるつもりは、もうなかった。




