2話
部屋に満ちていたのは、薬草の匂いではなく、もっと生々しいものだった。
疑いだ。
ヴィオレッタは、リディアの私室の前で立ち尽くす使用人たちの顔をゆっくりと見回した。誰もが青ざめていた。けれど、その青ざめ方は一様ではない。純粋な混乱、怯え、面倒ごとへの恐怖、そして――言葉にされるより先に答えを決めてしまった者の、居心地の悪い沈黙。
アーヴィンの背後で、年嵩の侍女が泣きそうな顔をしていた。リディア付きの侍女だ。名はヘレン。まだ若く、気が弱く、すぐに涙ぐむ女だった。
「お医者様は」
ヴィオレッタが尋ねると、アーヴィンではなくユリウスが答えた。
「呼んでる。もうすぐ来る。でも……リディアは苦しそうで」
言いながら彼は、ヴィオレッタから視線を外した。
その動作がわずかに胸を刺す。昨日の夜会で軽口を叩いていた時と同じ男とは思えなかった。違う。思えないのではない。こういう時、人は本性ではなく、都合のいい方へ流れるだけだ。彼は昔からそうだった。面倒な事実より、その場に広がる空気に寄りかかる。
「中へ入ります」
ヴィオレッタが一歩進むと、アーヴィンが前に立った。
「駄目だ」
「なぜ」
「今は君を入れられない」
ヴィオレッタは夫を見た。驚きより先に、冷静な何かが降りてきていた。こういう時、人は怒鳴らない方がいい。取り乱した女は、それだけで話を一段低く見積もられる。
「理由をお聞かせ願えますか」
「理由はわかっているだろう」
「いいえ、まったく」
「君は昨日、リディアと二人で話をしていた」
「ええ」
「今朝、彼女に出された茶には毒が入っていた」
「それで、わたくしが盛ったと?」
とうとう言葉にしてやると、廊下の空気がびくりと揺れた。誰もが思っていたことを、誰も先に口にしたがらなかったのだ。
アーヴィンの眉間に深い皺が寄る。
「私はまだ、そう断定してはいない」
「ですが疑ってはいらっしゃる」
彼は否定しなかった。
否定しないということは、この場にいる全員に対し、疑うに足ると公に認めたも同然だった。
ヴィオレッタはゆっくりと息を吸った。心臓は静かだった。むしろ静かすぎるほどだ。
「ならば、なおのこと中へ入るべきですわ。わたくしがやっていないのなら証拠を確かめる必要がありますし、やったというのならなおさらです。公爵家の中で起きたことですもの。見届けずに済む立場ではありません」
「理屈の話をしている場合じゃない!」
アーヴィンの声が強くなる。廊下の誰かが肩を震わせた。
ヴィオレッタはそこで初めて、この男が怯えているのだと理解した。怒っているように見えて、その実、何かを怖がっている。リディアの命か、醜聞か、それとも――自分が今どちら側に立つかということ自体か。
「理屈の話ではなくてよ。これは家の話です」
「君はいつでもそうだ。何でも家の、秩序の、責任の話にする」
「そうしてきたのは、誰のおかげだと思って」
そこまで口にして、ヴィオレッタは止めた。
廊下にいる全員が息を飲んだのがわかった。使用人の前で夫婦がここまで露骨に刺し合うのは初めてだったからだろう。
アーヴィンの顔色がさらに悪くなる。怒りだけではない。侮辱された男の顔だ。
その時、奥の部屋の中から鈍い呻き声が聞こえた。リディアだ。湿ったような苦しい音。ヘレンが小さく悲鳴を上げ、アーヴィンはヴィオレッタから視線を外して振り返った。
「医師はまだか!」
その声と同時に、階段の方から早足の靴音が近づいてくる。邸付きの老医師グレゴールだった。白髪交じりの髪を乱し、鞄を抱えている。彼は廊下の緊迫した空気を一目で察し、何も聞かずに部屋へ入っていった。
扉が閉まる。
残された廊下で、誰も口を開かない。雨音だけが遠くで続いていた。
やがてアーヴィンが低く言った。
「君は自室へ戻れ」
「断ります」
「命令だ」
「ならばなおのこと、断りますわ」
ヴィオレッタは言い切った。
「わたくしはこの家の公爵夫人です。下がれというなら、正式な理由を述べていただきたい。まさか、あの場の空気だけで、わたくしを隔離なさるおつもりではないでしょうね」
「疑われるような振る舞いをしたのは君だ」
「それはどういう振る舞いのことを?」
「昨日リディアに厳しいことを言った」
「厳しい?」
ヴィオレッタは自分でも不思議なほど穏やかに、昨日の会話を思い返した。
「この家にいるなら自分で立つ覚悟が必要だと申し上げました。それだけで毒殺未遂に飛ぶなら、ずいぶんと想像力が豊かなこと」
「言い方があるだろう!」
「言い方の問題ではなくてよ。あなたは最初から、わたくしが彼女を快く思っていないと決めていらっしゃる」
「快く思っていないだろう」
「ええ。快くは思っておりません」
きっぱりと言うと、周囲がまたざわめいた。
「ですが、それと害することは別ですわ。嫌いなら殺してもいいというなら、この家の人間は半分くらい毒で倒れているでしょうね」
ユリウスが「姉上」とかすれた声を出す。諫めるつもりだったのかもしれない。だがその手の口出しがどれほど軽いものか、今のヴィオレッタには骨の髄までわかっていた。
扉が開いた。
老医師グレゴールが出てくる。顔は険しい。アーヴィンがすぐに詰め寄った。
「どうだ」
「命に別状はないでしょう。ただ、かなり強い吐き気と腹痛を起こしております。何らかの刺激物を口にしたのは確かです」
「毒か」
「可能性は高いですな」
グレゴールは慎重に言った。
「ですが、何が混じったかは調べねばなりません。残っている茶と、菓子、器を全て保全してください。厨房に触れた者も記録を」
そこまで言ってから、医師はようやくヴィオレッタへ視線を向けた。わずかに迷いが見えた。彼もまた、廊下の空気を理解しているのだ。
「公爵夫人様」
「何かしら」
「お心当たりは」
「ございません」
医師は頷いた。無駄に掘り下げなかったことに、ヴィオレッタはかすかに礼を言いたくなった。
だがアーヴィンは違った。
「グレゴール、念のためヴィオレッタの部屋も調べろ」
一瞬、誰も動かなかった。
ヴィオレッタは夫を見た。今度こそ、彼は目を逸らさない。逸らせないのだろう。ここまで言ってしまえば。
「本気で仰って?」
「私は家を守らなければならない」
「家を守る?」
その言葉は妙に耳に残った。昨日カシアンが言ったことと、どこか形だけ似ていて、まるで別の意味を持っていた。
「わたくしの部屋を調べることが、あなたにとって家を守ることなのですね」
「疑いを晴らすためだ」
「疑いをかけておいて?」
「なら潔白を示せばいい」
ヴィオレッタは数秒、何も言わなかった。
悲しいより先に、呆れが来る。これほど簡単にそこへ行くのか。この男は。自分がどれだけの年月、この家の帳簿を整え、客人を選び、派閥を読み、彼の失点を埋めてきたのかを、こんなにも軽く横へ置けるのか。
いや、違う。
横へ置いたのではない。最初から、置くほどの重みとして認識していなかったのだ。
「よろしいですわ」
ヴィオレッタは言った。
「調べなさいませ。公爵夫人の私室を探るという前代未聞のことを、皆さまの前でおやりになればいい。何も出なければ、今度は何が残るのか、わたくしも見届けます」
アーヴィンの喉が小さく動いた。思っていたよりあっさりと受け入れられたことに、逆にたじろいだらしい。
そこへ、廊下の端で様子を窺っていた義母が姿を見せた。付き従う侍女を連れ、絹のガウンを羽織ったまま、いかにも急いで来たという顔をしている。
「何の騒ぎですの」
この女は、騒ぎが起きると必ず遅れて現れる。そのくせ、自分が最初から状況を見極めていたかのような立場を取る。
「母上」
アーヴィンが声をかける。
「リディアが毒を盛られた」
義母の目が見開かれ、すぐに胸元へ手が当てられた。その動作は大きいが、涙は出ない。
「まあ、なんてこと……」
そして彼女の視線は、あまりに自然にヴィオレッタへ流れた。
「……まさか」
たった二文字で充分だった。
ヴィオレッタは義母のその目を見た。この女は何も知らない。知らないのに、最初に疑っても困らない相手を見定めることには長けている。
「まさか、とは何のことですの」
「わたくしは何も決めつけてはおりません。ただ、昨日あなたがあの子に冷たく当たったと聞いて」
「聞いて」
「アーヴィンから」
それはつまり、アーヴィンがすでに母にそういう話として伝えていたということだ。
ヴィオレッタは一度だけ目を閉じた。胸の奥に薄いひびが入るような感覚がある。痛みではない。何かが形を変えたときの音だ。
「そうですか」
それしか言わなかった。
義母は、娘のように可愛がっているふうを装ってきた時期もあった。最初の数年は、ヴィオレッタの手腕を褒め、公爵家に相応しい嫁だと言った。だがそれは、彼女が便利である限りの称賛だったのだろう。今、その天秤はあまりにも軽く傾いている。
「部屋を調べます」
アーヴィンが告げた。
義母は少しだけためらう素振りを見せた。表向きは。だが止めない。
「……必要なら」
必要なら。
言葉というものは、責任を薄めるために便利に作られている。
ヴィオレッタは自ら歩き出した。
「どうぞ。ご案内いたします」
自室へ向かう廊下は長い。雨の日はことさら暗く見える。後ろに続く気配は多かった。アーヴィン、義母、ユリウス、医師、侍女たち。ぞろぞろと。まるで何かの見世物だ。
扉の前で、ヴィオレッタは一度振り返った。
「エルマ」
「はい、奥様」
「あなたも入りなさい。記録係を一人つけて。誰が何に触れたか、全部書き残して」
アーヴィンの眉がぴくりと動く。
「そこまで必要か」
「必要ですわ。後から“そう見えた”“そんな気がした”で済ませないために」
彼は何も返さなかった。
部屋の中へ入ると、そこはいつもと変わらず整っていた。夜のうちに侍女が片づけたままの化粧台。閉じられたカーテン。書き物机。鍵のかかった小箱。何もかもが公爵夫人の部屋として正しく在る。
ヴィオレッタは部屋の中央に立った。
「始めなさい」
最初に動いたのは若い従僕だった。緊張で手が震えている。引き出し、戸棚、化粧品の箱、書き物机の上。次々に開けられていく。エルマがそれを冷静に記録していく。
義母は椅子に腰かけ、顔をしかめていた。アーヴィンは窓際で腕を組み、ユリウスは落ち着きなく立ったり座ったりを繰り返す。まるでヴィオレッタだけが異物になった部屋だった。
「姉上……」
ユリウスが小さく言った。
「もし何かの誤解なら、今のうちに」
「何を?」
「だから、もし感情的になって、少し脅かすつもりだったとか――」
ヴィオレッタは弟を見るような目で彼を見た。実際、彼にはそういう目しか向けられなかった。
「あなたは今、わたくしに“やったなら今ならまだ軽く済む”と勧めているの?」
「そういう意味じゃ……」
「同じ意味ですわ」
ユリウスは黙った。
その時、従僕の手が書き物机の下の小さな引き出しで止まった。
「旦那様」
声が上ずっている。
「ここに……」
全員の視線が集まる。従僕の掌の上には、小さな硝子瓶があった。指先ほどの大きさの、透明な液体の残る瓶。口にはまだ、簡素な蝋の封が半分だけ残っている。
部屋の空気が一気に冷えた。
アーヴィンが数歩で近づき、瓶を取り上げる。グレゴール医師も覗き込んだ。
「これは」
「匂いを嗅がせてください」
医師が慎重に瓶口を確かめ、顔を険しくした。
「強い苦味のある抽出液ですな。何種か混ぜてあるようですが……胃を激しく荒らすものが入っている。これだけでは確定できませんが、先ほどの症状と合います」
義母が息を呑み、ユリウスが「そんな」と呟いた。
ヴィオレッタは、瓶を見た。
知らない。見覚えもない。だがそれを口にしても、もう遅いのだということも、よくわかった。見つかった場所が悪すぎる。書き物机の下。誰かが偶然滑り込ませたとでも言うのか。今ここで?
いや、あり得る。だからこそ記録をつけさせた。だが、その理屈はこの瞬間の空気には勝てない。
アーヴィンの顔から何かが抜け落ちた。迷いだ。最後の一線のようなものが。
「……ヴィオレッタ」
彼は低く言った。
「何か言うことは」
「ありますわ」
ヴィオレッタはまっすぐ答えた。
「これはわたくしのものではありません」
「部屋から出た」
「だから何ですの。部屋から出れば持ち主になるのなら、公爵家の宝物庫の鍵もあなたのものではなくて?」
「屁理屈を」
「理屈です」
アーヴィンは瓶を握りしめたまま、一歩引いた。その目には失望が宿っている。まるで、期待していた潔い自白を裏切られたかのような失望だ。
そのことに、ヴィオレッタは一瞬、言葉を失った。
この男は本当に、今、自分がやったと思いたがっている。
なぜなら、その方が楽だからだ。リディアの苦しみも、家の混乱も、原因が一人に収まるなら処理しやすい。長年隣にいた妻なら、複雑な話にせずともよい。嫉妬した女の犯行というわかりやすい形なら、世界は簡単だ。彼はそれを望んでいる。
「奥様」
エルマの声がした。普段より少しだけ低い。
「こちらも」
化粧台の脇の小箱から、乾燥した薬草が数枚出てきていた。胃を荒らす類のものだと医師が確認する。
ヴィオレッタは目を閉じたかった。だが閉じなかった。
嵌められた。
ようやくその言葉が頭の中で完成する。
あまりにも露骨だ。露骨すぎる。けれど露骨であっても、証拠が揃えば人は信じる。いや、揃ったように見えれば充分なのだ。
「旦那様……」
義母が小さく言った。
「もう、これ以上は……」
「離れへ移します」
アーヴィンが決めた。
「ヴィオレッタは当面、自室と東の離れ以外への出入りを禁ずる。使用人との接触も必要最小限に」
ヴィオレッタは笑いそうになった。あまりのことに。
「監禁なさるの」
「監禁ではない。家を守るための措置だ」
「またそれ」
「これ以上、公爵家に醜聞を広げるわけにはいかない」
「ですから、わたくしを見張り、隠して、口を塞ぐのですね」
アーヴィンは答えない。
それが答えだった。
ヴィオレッタはそこでようやく、傷つくことに少し疲れた。痛みが大きすぎると、感情は不思議と平らになる。
「よろしいですわ」
彼女は静かに言う。
「ただし、これは覚えておいて。あなたが今なさっているのは、事実を見ようとすることではない。見たい形に整えているだけです」
「連れて行け」
アーヴィンは使用人へ命じた。ヴィオレッタではなく、空気に向けるような声で。
誰もすぐには動かなかった。公爵夫人に手を出すことの重さを、全員が本能で知っていたからだ。
その中で、エルマだけが一歩前へ出た。
「奥様、お召し物を少しだけお持ちいたします」
侍女長として、そして最後まで彼女の侍女として。
ヴィオレッタは頷いた。
「お願い」
離れへ向かう道すがら、雨はさらに強くなっていた。石畳に跳ねる音が一定の調子で続く。傘を差しかける侍女の手も震えている。使用人たちは視線を合わせようとしない。見たくないのだろう。あるいは、見たことにされたくないのかもしれない。
東の離れは、ふだん病人や客人の静養に使われる建物だった。本邸より少し離れ、庭木に囲まれている。外から見れば上品な別棟だが、中に入ればわかる。ここは人を目立たせず隔てるための場所だ。
部屋へ通され、扉が閉まる。
静かだった。雨音だけが近い。
ヴィオレッタはしばらく立ったままでいた。椅子に座る気にも、寝台へ向かう気にもなれない。肩の上に目に見えない泥でも積もっているような重さがある。
やがてエルマが荷を持って入ってきた。侍女長だけは出入りを許されたらしい。
「奥様」
「ありがとう」
エルマは荷を置き、扉を確かめてから声を潜めた。
「申し訳ございません」
「なぜあなたが謝るの」
「お守りできませんでした」
ヴィオレッタは首を振った。
「いいえ。あなたがいなければ、もっと早く、もっと雑に進んでいたわ」
「瓶も薬草も、奥様のものではありません」
「わかっている」
そう答えた声は、自分で思うよりもかすれていた。
エルマは唇を引き結ぶ。
「帳場の記録、ここ数日の出入り、厨房の手配、全部洗い直します。ヘレンの動きも、リディア様のお部屋へ出入りした者も」
「あなた一人では危ないわ」
「ですが」
「動くにしても慎重に。今は、わたくしに味方をするだけで疑われる」
エルマはそれでも引かなかった。
「それでもです。奥様は誰よりもこの家を支えてこられた」
「その言葉を、ここで言ってくれる人がどれだけいると思う?」
エルマは黙った。
ヴィオレッタもそれ以上は言わなかった。責めるつもりではない。ただ、今さらその事実が誰の盾にもならないことを、ようやく理解しただけだ。
「エルマ」
「はい」
「わたくしの机の下にあった瓶、あなたは見覚えが?」
「ございません。あの引き出しは普段、奥様ご自身しかお開けになりません」
「なら、なおさら不自然ね」
「はい」
「鍵は」
「複製はないはずです。ただ……清掃の時や、お着替えの際、完全に目を離さないとは言い切れません」
充分だった。完全でなくても。ほんの一度、ほんの数分でいい。
「旦那様は」
エルマが言い淀む。
「何?」
「……最初から、奥様がやったと信じたいように見えました」
その言葉は鋭くもあり、やさしくもあった。
ヴィオレッタは窓の外を見た。雨が白く流れている。庭の薔薇は朝よりさらに重たく首を垂れていた。
「そうね」
しばらくしてから答える。
「たぶん、それが一番楽だから」
エルマは下がり、部屋には再び静けさだけが残った。
夕暮れ近くになっても、誰も来なかった。アーヴィンも、義母も、ユリウスも。説明もない。謝罪もない。ましてや信じるという言葉も。
扉の外には見張りの足音が時折ある。だが中へ入ってくるのは必要最低限の給仕だけだ。銀盆に乗った食事は量こそ整っていたが、毒見済みであることを示すように皿の端が少し乱れていた。
ヴィオレッタはその皿をしばらく眺め、結局ほとんど手をつけなかった。
夜になってから、小さなノックがした。
「どなた」
「……カシアン・ルヴェールです」
ヴィオレッタはわずかに目を見開いた。まさか、と思ったが声は確かだった。
「お入りください」
扉が開き、黒衣の男が静かに入ってくる。普段と変わらぬ整った装いだが、雨に濡れた外套の裾だけが少し暗くなっていた。彼は部屋を見回し、すぐに状況を理解したようだった。視線は短く、しかし十分に冷えている。
「ご無事で」
「無事、というには少し語弊があるわ」
「ええ」
彼は否定しない。そこがこの男らしい。
「どうしてここへ」
「旦那様に呼ばれました。法務の観点から、万一のため記録を整えておきたいと」
万一。なんと都合のいい言葉だろう。
「それで? 公爵家の体面を守るため、罪を静かに形にしに来たのかしら」
つい刺のある言い方になった。だがカシアンは眉ひとつ動かさなかった。
「そうするつもりなら、あなたの部屋で二人きりにはなりません」
ヴィオレッタは彼を見た。
カシアンは扉の近くに立ったまま、数秒沈黙した。それから低く言う。
「あなたが死んだと聞いた夜、私は少し遅すぎたことを知りました」
昨日の夜会で聞いたのと同じ言葉。だが今、雨音の中で聞くと、意味が違って聞こえた。
「縁起でもないことを」
「縁起はすでに十分悪い」
その返しに、ヴィオレッタは笑いそうになった。笑えはしなかったが。
「わたくしを疑っている?」
「疑っていたら、今ここでそう言います」
「なら疑っていないのね」
「疑うには、あまりに整いすぎている」
整いすぎている。
その一言で、部屋の空気が少しだけ変わった。そうだ。そうなのだ。瓶も薬草も、疑いの流れも、あまりに綺麗すぎた。嫉妬した妻がやりましたという筋書きとして、美しすぎる。
「あなたは昨日の夜会を見ていたわね」
「ええ」
「何を見たの」
「皆が見た以上のことを」
カシアンは短く答えた。
「旦那様はあの娘を庇いたがっていた。義母上は、それに逆らうより都合のいい結論を選ぶ。義弟君は空気に流される。そして使用人の一部は、すでに次の女主人が誰かを見て動いている」
「そんなことまで」
「職業柄、人がどこを見ているかには敏感です」
彼はそう言い、ようやく部屋の中央へ数歩進んだ。
「瓶の件も聞きました。発見場所、時刻、立ち会った者。記録は取らせていますか」
「エルマが」
「賢明です」
ヴィオレッタは小さく息を吐いた。
「今のわたくしには、その一言だけでも少し効くわ」
口にしてから、自分でも驚いた。弱音に近かったからだ。だがカシアンはそこを掬おうとしない。
「効くなら覚えておいてください。今、あなたに必要なのは感情の正しさではなく、記録の正確さです」
「慰めに来たのではないのね」
「慰めが欲しい顔には見えません」
「ひどい人」
「よく言われます」
少しだけ、ヴィオレッタの口元が緩んだ。
それを見てカシアンはほんの一瞬だけ視線をやわらげた。だがすぐに戻す。
「茶器、厨房、伝票、出入りの記録。全部残してください。奥様ご自身ではなく、信頼できる者を通して」
「信頼できる者は少ないわ」
「少ないなら、その少なさを前提に動くことです」
ヴィオレッタは頷いた。
「……ありがとう」
その言葉に、カシアンは少しだけ沈黙した。礼を言われるとは思っていなかったような顔だった。
「まだ早い」
「何が」
「礼を言うのは。何も取り戻していない」
そして彼は、少し躊躇ってから続けた。
「ただ」
「ただ?」
「あなたが誰にも見られていない場所へ追いやられるのは、これが最初ではないように見えた」
ヴィオレッタは息を止めた。
その指摘はあまりに正確だった。初めてではない。違う形でなら、何度もあった。夜会の成果を当然とされること。帳簿の修正を誰にも知られないまま終えること。夫の機嫌や義家族の不始末を、見えないところで整え続けること。そうして自分が何度も、誰にも見られない場所へ押し込められていたこと。
ただ今回は、それがあまりに露骨になっただけだ。
「……そうかもしれないわ」
絞り出すように言うと、カシアンはそれ以上踏み込まなかった。
「今夜は眠れないでしょう」
「よくわかるのね」
「わからなければ来ません」
その一言は、優しさに近かった。だからこそ危険だった。こういう時に差し出されるものは、人を簡単に弱くする。
ヴィオレッタは視線を逸らした。
「だったら何か、眠れる話でもしてくださる?」
「では事実を一つ」
「つまらなそう」
「ですが役に立つ」
カシアンは淡々と言う。
「毒を盛る者は、たいていもっと焦っています。今回のやり方は性急で、雑で、そのくせ仕上がりだけは整っている。つまり、犯人は賢いのではなく、賢く見せたい誰かの可能性が高い」
ヴィオレッタはゆっくりと顔を上げた。
「賢く見せたい誰か」
「ええ。そしてそういう人間は、自分の一手に酔いがちです。次も必ず、余計なことをします」
部屋の中で、雨音だけが続く。
ヴィオレッタはその言葉を胸の中で繰り返した。次も必ず、余計なことをする。
「なら、待てばいいのね」
「待つだけでは足りません」
「でしょうね」
「見て、記録して、泳がせてください」
カシアンは扉の方へ戻りながら言う。
「あなたが今ここで怒りに任せて動けば、相手の望みどおりです」
「わかっているわ」
「本当に?」
「……たぶん」
カシアンはそこで初めて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「なら十分です」
彼が去ったあと、部屋にはまた雨音だけが残った。
けれど先ほどまでとは少し違っていた。孤独は孤独のままだ。疑いは消えていないし、離れの扉の向こうにいる見張りも消えない。アーヴィンが味方に戻ることも、おそらくない。
それでも、世界が完全に一色に塗られたわけではないと知るだけで、人はまだ立てる。
ヴィオレッタは窓辺へ歩き、暗い庭を見た。雨は細く長く降り続いている。噴水の輪郭も滲み、薔薇の色も闇に溶けていた。
その時ふと、棚の上に置かれた一本のワインが目に入った。離れの部屋にも備えてある、ごくありふれた赤だ。上等ではない。けれど安酒でもない。中途半端な一本。
彼女はそれを手に取り、少しだけ迷ってから栓を抜いた。
グラスに注がれた液体は、灯りの下で深く沈んだ赤に見える。血の色、とまでは言いたくなかったが、今夜に限ってはそう見えても仕方がない。
一口飲む。
苦い。甘みより先に渋みが来る。喉を通ったあと、少し遅れて熱が降りる。
好きな味ではなかった。けれど嫌いでもない。昔アーヴィンに教わった銘柄ではないし、彼が好んだ葡萄の香りでもない。だからよかった。
ヴィオレッタはグラスを持ったまま、窓の外へ目を向けた。
自分を嵌めた者がいる。
それを夫は喜んで受け入れた。
義母も義弟も止めなかった。
この家は、自分が思っていたよりずっと簡単に、自分を異物へ変えられる。
その事実は重く、冷たく、しかし不思議なほど輪郭がはっきりしていた。
もう、見間違えなくていい。
愛されているのかもしれない、必要とされているのかもしれない、まだ信じられるのかもしれない――そうやって曖昧にしてきた部分が、今夜ようやく切り分けられていく。
必要ではあったのだろう。きっと。だがそれは、愛とは違う形で。
ヴィオレッタはグラスの中の赤を見つめた。
雨の夜に飲むワインは、どうしてこうも静かに人を刺すのだろう。
そして彼女は初めて、自分の胸の奥にあるものの名前を、怒りより先に知った。
これは喪失だ。
夫を失ったのではない。
家を失ったのでもない。
もっと前から、少しずつ失われていたものを、今やっと見たのだ。
信じていた自分を。
グラスを机へ置き、ヴィオレッタは灯りを一つだけ残して寝台へ向かった。眠れるとは思わなかった。けれど横になることはできる。明日もまた、見られ、疑われ、試される日になるのだから。
寝台の端に座った時、扉の外で小さな物音がした。
「誰」
返事はない。
ヴィオレッタはすぐに立ち上がり、静かに扉へ近づいた。見張りの気配は少し遠い。今の音は、その者ではない。
足元に、小さく折られた紙が滑り込ませられていた。
ヴィオレッタはそれを拾い上げ、灯りの下で開く。
中には、短く一行だけ。
次は帳場を見てください。奥様が落ちる前に、誰かが金を動かしています。
署名はない。
だが文字は、女の手だった。
ヴィオレッタはしばらくその紙を見つめたあと、静かに息を吐いた。
次が来た。
カシアンの言った通りだ。相手は、余計なことをした。
雨はまだやまない。
けれどその夜、ヴィオレッタはほんのわずかにだけ、眠りに落ちることができた。




