第1話
夜会の終わりが近づくほど、空気は甘く、そして鈍く濁っていく。
ローゼンベルク公爵邸の大広間には、磨き上げられた大理石の床と、幾重にも吊るされた燭台の光が満ちていた。金糸で縁取られたカーテン、壁にかけられた先祖の肖像、銀盆を滑らせる給仕たちの無駄のない足取り。すべてが完璧で、すべてが公爵家の繁栄を語っていた。
その完璧さの大半が、一人の女の手で保たれていることを、この場にいる者の何人が知っているだろう。
ヴィオレッタ・ローゼンベルクは、扇を閉じたまま客人の輪を見渡した。
第二王子派の伯爵夫人は、今夜も南方交易の話題に飢えている。財務院の次官は、先ほどから三度もワインを変えさせているから、そろそろ機嫌が悪くなる。オルレアン侯爵は視線を隣の未亡人に流しすぎている。あれは十分後に妻の耳へ入る。その前に音楽を変えた方がいい。窓際の青年騎士は初めての大きな夜会らしく、肩が上がりきっている。給仕に温かいスープを一つ持たせれば、彼は今夜を「思ったより優しい場だった」と記憶するだろう。
人は、だいたい思っているより単純で、思っているより見えやすい。
ヴィオレッタはそれを知っていた。だからこの家の夜会は荒れない。だからローゼンベルク公爵家は王都で最も洗練された家と呼ばれる。だから夫のアーヴィンは、誰に会っても快活で、器の大きい当主として称えられる。
彼は今も、広間の中央で人好きのする笑みを浮かべていた。高くもなく低くもない、よく通る声で客人たちを笑わせながら、まるでこの夜会が自分の才覚だけで成り立っているかのような顔をしている。
その隣でヴィオレッタは微笑み、わずかに角度を調整しただけで、近くに控えていた給仕が音もなく動いた。侯爵夫人の手元には、彼女の好む薄い白ワイン。緊張していた青年騎士には、小さなカップのスープ。窓が少し開きすぎていたのも、誰かがすぐに直す。
誰もヴィオレッタの指示を聞いてはいない。だが誰もが彼女の意図どおりに動いていく。
それが公爵夫人というものだった。
少なくとも、ヴィオレッタはそう信じてこの家に嫁いだ。
「今夜も見事だな、ヴィオレッタ」
背後から声がして、彼女は振り返る。アーヴィンが客の輪を抜けて歩み寄ってきたところだった。美しい男だった。淡い金髪は乱れひとつなく、深い青の瞳には生まれつきの優雅さがある。人に見せる顔を知っている男の顔だった。
彼は近づくなり、外聞よく妻の手の甲に口づけた。
「君がいると助かる」
柔らかな微笑み。低く甘い声。客人に聞かせるには十分な距離。
ヴィオレッタは微笑みを崩さず、「お役に立てて何よりですわ」と返した。
昔なら、その一言だけで胸が少し温かくなっただろう。
今は、どこまでが本心で、どこからが夜会用の言葉なのかを考える自分がいる。
結婚して六年。ヴィオレッタは、公爵家に嫁いだ当初、確かに幸福だった。彼は美しく、朗らかで、まだ若かった彼女に「君の聡明さを頼りにしている」と言った。初めて選んだ深紅のドレスを褒め、ワインの銘柄の違いを教え、王都の社交界を怖がる彼女の手を取った。
あのころ彼が見ていたのは、公爵夫人としての彼女だったのか。それともただ、便利で優秀な新妻だったのか。
わからない。たぶん、その区別がつかなくなった時点で、何かはもう始まっていた。
「母上が君を探していた。東棟の客室の件で、また何か言いたいらしい」
アーヴィンはごく軽く言った。
「お義母様は、先ほども壁布の色味について仰っていましたもの。もう手配は済ませてあります」
「そうか。さすがだ」
さすが、という言葉は便利だ。評価しているようで、何も担っていない。
ヴィオレッタはそれを顔に出さず、彼の背後に視線をやった。白いドレスの少女が、少し離れたところで俯きがちに立っている。まだこの家の色に染まりきっていない、柔らかな生地。首筋にかかる栗色の髪。大広間の煌びやかさに怯えているように見えるのに、何人かの視線はもう彼女に吸い寄せられている。
アーヴィンはヴィオレッタの視線を追い、「ああ」と短く笑った。
「リディアだ。今日は人に慣れさせようと思ってね。君もあとで話してやってくれないか」
その口ぶりは、保護した小動物を庭に連れ出した主人のように軽かった。
リディア。
数か月前、慈善院への寄付視察に赴いたアーヴィンが、哀れな境遇の娘を見出したのだと嬉々として連れ帰ってきた女だ。親も後ろ盾もなく、遠縁を頼って王都に来たものの騙され、金も住処もなくしていたという。美しく、儚げで、少し話せばすぐに目に涙を浮かべる。男たちが「守らねば」と思うには十分すぎるほど。
最初に彼女を邸へ入れると聞いた時、ヴィオレッタは反対しなかった。困窮する女を一人救うことそれ自体は、悪いことではない。公爵家の名声にも繋がる。客間を一つ整え、礼儀作法の教師をつけ、必要な衣類を揃える。それで済むはずだった。
だがリディアは、公爵邸の客室より奥へ、客人以上に深く入り込み始めていた。
義母は「あの子は可哀想な子なのよ」と庇い、義弟ユリウスは「兄上もようやく息抜きができる相手を見つけたんだ」と笑った。古参の侍女たちの中にも、彼女の涙に絆される者が出た。アーヴィンは最初こそ「気の毒な娘だから」という体裁を守っていたものの、今では彼女を伴って庭を歩き、書斎に招き、夜会の端に立たせるところまできている。
ヴィオレッタは、公爵夫人として何度も穏やかに線を引いた。必要な援助はする。しかし立場と礼節は守るべきだと。だがそのたびに返ってくるのは、決まって似たような言葉だった。
君は少し厳しすぎる。
嫉妬は醜い。
余裕を持ちなさい。
可哀想な娘にまで公爵夫人の規律を求めるのか。
いっそ、最初から敵意を向けられた方が楽だった。善意の顔をした理解の強要ほど、人を無力にするものはない。
「もちろん、お話はいたしますわ」
ヴィオレッタがそう答えると、アーヴィンは満足げに頷いた。
「君ならそう言ってくれると思った」
そして彼はまた人の輪へ戻っていく。さも当然のように。
ヴィオレッタは、閉じた扇の端で掌を軽く押した。白い手袋の下、爪がわずかに食い込む。痛みは小さい。ちょうどよかった。
彼女は深く息を吸い、ゆっくりとリディアの方へ歩み寄った。
近づくと、少女は気づいたように肩を震わせた。茶色の目が不安げに揺れる。清楚で、可愛らしく、庇護欲を誘う表情だった。
「ごきげんよう、リディア。夜会は初めてに近いのでしょう。疲れてはいませんこと?」
「ご、公爵夫人様……」
リディアは慌てて頭を下げた。仕草だけ見れば、よく躾けられた娘だ。だが視線の泳ぎ方には計算が見える。怯えと遠慮を装いながら、周囲の反応を確かめている目だ。
「だいじょうぶです。こんなに立派な場所、わたし……夢みたいで」
「それは何よりですわ。ですが、夢のような場所ほど足元にはお気をつけなさいませ。ひとつの立ち居振る舞いが、長く記憶に残るものですから」
やわらかい忠告のつもりだった。実際、その程度に留めた。
けれどリディアは一瞬だけ唇を噛み、それから目を伏せた。
「わたし、何か失礼を……?」
「いいえ。ただ、慣れぬ場では疲れるでしょう。無理をなさらずに」
「はい……ありがとうございます」
言葉は素直だった。だが、その答えの直後に近くを通りかかった侯爵夫人が、ちらりとこちらを見て眉を上げた。まるでヴィオレッタがか弱い娘に冷たく何か言ったかのような空気が、ほんのわずかに生まれている。
それは偶然でも起こりうる。だが、こういう小さな偶然は、最近少し多すぎた。
ヴィオレッタはその場を離れ、給仕からグラスを一つ受け取った。赤ではなく白。今夜はまだ赤を飲みたくない気分だった。喉を潤す程度に口をつけると、背後から義弟ユリウスの声が飛んできた。
「姉上、怖がらせちゃ駄目だよ」
振り向けば、明るい栗色の髪をした青年が、いかにも人なつこい笑みを浮かべていた。アーヴィンより三つ年下のユリウスは、子どものころから誰にでも愛想がよく、そして誰にも責任を持たない男だった。
「怖がらせたつもりはなくてよ」
「でもさ、ああいう子にはもっと優しくしてあげなきゃ。兄上もやっと楽しそうなんだから」
「楽しそう?」
「そりゃあそうだろ。姉上は完璧すぎて、兄上も息が詰まることがあるんじゃないかな。リディアみたいな子は、見ているだけで肩の力が抜けるっていうか」
悪気のない声音。だからこそ厄介だった。
ヴィオレッタはユリウスを見た。この義弟の帳簿に隠し借財がいくつあるか、彼は知らない。馬の世話名目で流した金、賭場で溶かした金、女への贈り物に消えた金。その後始末を誰がしてきたのかも、彼はきっと考えたことがない。
「そう。ならあなたがもっと肩代わりなさるとよろしいわ、ユリウス。人の肩の力を抜くのは、思いやりだけでは足りませんの。帳簿と責任が伴いますから」
ユリウスは一瞬だけ表情を止め、それから気まずそうに笑った。
「またそういう話だ。姉上は本当に抜け目がないね」
「ありがたいお言葉ですこと」
彼はそれ以上何も言わず、ふらりと別の客の方へ逃げていった。
ヴィオレッタはグラスを持つ指先に力を入れすぎていたことに気づき、そっと緩めた。水面がわずかに揺れる。透き通った液体の向こう、広間の光は歪んで見えた。
あのころ、結婚したばかりの自分が思い描いていた「夫を支える人生」は、こんな形だっただろうか。
違う、と即座には言えなかった。なぜなら彼女は確かに、この家を守ることに誇りを持ってきたからだ。資金繰りを整えた夜も、難しい客人を笑顔で帰らせた夜も、地方貴族との軋轢をやわらげた日も、すべては公爵夫人としての務めだった。そしてそれは自分にしかできないことだと知っていた。
けれど誇りは時に、人を縛る鎖に似る。
「ヴィオレッタ様」
古参の侍女長エルマが小さく会釈をした。彼女は有能で、長くヴィオレッタを支えてきた女だ。そのエルマが珍しく、言葉を選ぶような顔をしている。
「どうしたの」
「少し、お耳に入れておきたいことが」
夜会の最中に侍女長が表情を曇らせるのは珍しい。ヴィオレッタは頷き、広間の端にある小さな休憩室へ移った。扉が閉まると同時に、遠くの弦楽器の音が一段遠くなる。
「何があったの」
「厨房で、リディア様付きの侍女と、食器係の少年が揉めました。些細なことではありますが、旦那様がリディア様のために特別に取り寄せた菓子を、公爵夫人様への配膳と取り違えたと」
「その程度で揉めたの?」
「ええ。ですが……」
エルマはためらった。ヴィオレッタは先を促さず待つ。
「最近、リディア様のお部屋へ出入りする者が少し増えております。旦那様からの贈り物だけでなく、義母様のご指示で布商が直接通されたり、ユリウス様が夜遅くまで談笑なさったり。使用人たちの間でも、あの方を『いずれこちらの女主人になるお方』のように扱う者が出てきました」
静かな報告だった。怒りも悪意もなく、ただ事実だけを並べる声。
ヴィオレッタは頷いた。エルマは、主人が聞きたくない現実こそ報告する女だ。それゆえに信頼している。
「他には」
「帳場の古い伝票が何枚か、見当たりません」
「いつから」
「三日前から確認しております。まだ大きな額ではございませんが、南棟の改修費と、慈善院への支援名目で流れた金の一部です」
慈善院。
ヴィオレッタの脳裏に、リディアを連れ帰った日の話がよぎった。
「帳場に入れる者をもう一度洗い出して。誰にも悟られないように」
「承知しました」
「それから、リディアの部屋へ出入りする商人の名も控えておいて。すぐに何かをするつもりはないけれど、見ておきたいの」
「かしこまりました」
エルマが下がろうとした時、扉の向こうで控えめなノックがした。
「誰」
「……リディア、です」
か細い声。
ヴィオレッタは一拍だけ目を閉じ、表情を整えた。
「どうぞ」
扉が開くと、リディアが遠慮がちに顔を覗かせた。夜会の明かりの中よりも、休憩室の柔らかな灯りの中の方が、彼女の儚げな顔立ちはよく映える。
「あの、お邪魔でしたら……」
「いいえ。何かしら」
「お礼を申し上げたくて。さっき、皆さまに恥をかかないようにって言ってくださって……わたし、ちゃんとしなくちゃって思って」
ああ、とヴィオレッタは心の中でだけ息をついた。
きっと彼女は本当に、半分ほどはそう思っているのだろう。残り半分は、自分がどう見られるかをよく知っている。
「そう思ってくださったのなら嬉しいわ」
「でも、わたし……やっぱり公爵夫人様のようにはなれません。皆さまに見られるの、こわくて。わたしがここにいて、よかったのでしょうか」
涙がにじむ。絶妙な加減だった。今にも落ちそうで、まだ落ちない。男が見れば、慰めずにいられないだろう。
ヴィオレッタは椅子を勧めなかった。立ったまま言う。
「ここにいること自体が悪いのではありません。けれど、ここは誰かの善意だけで立っていられる場所でもないの。あなたがこの家でどう在るのかは、あなた自身が選ばなくてはなりません」
「わたし自身……」
「ええ。可哀想なままでいるのは、楽なことですもの。でもそれでは、いつか必ず誰かに使われますわ」
リディアの睫毛が震えた。初めて、かすかな苛立ちのようなものが瞳の底をよぎるのが見えた。
だが扉がまた開いた途端、その気配は消えた。
「おや、何をしているんだ」
アーヴィンだった。
彼は休憩室の空気を見て取るなり、すぐにリディアの表情へ視線を走らせた。リディアはまるで待っていたかのように肩をすぼめ、慌てて目元を拭った。
「旦那様……わたし、公爵夫人様にご迷惑をかけてしまって」
「泣いているじゃないか」
低い声に、ヴィオレッタはほんの少しだけ冷えたものを感じた。
「泣かせたわけではありませんわ。ただ、この家にいるなら自分で立つ覚悟が必要だと話しただけです」
「君はいつも正しいことを言う」
アーヴィンはそう言った。褒め言葉のようで、実際は責め言葉になる音で。
「だが、すべての人間が君のように強くはない」
「強さの話をしているのではなくてよ」
「いや、しているさ。君は自分が耐えられるものを、他人も耐えられると思ってしまうところがある」
その口調は静かだった。だからこそ痛い。
エルマが一歩退いた気配がする。彼女は賢い。主人同士の会話に介入しない。
ヴィオレッタは夫を見た。彼はリディアの前にさりげなく立ち、庇う形を取っている。その仕草は無意識なのかもしれない。だが無意識であることが、余計に問題だった。
「わたくしは、この家のことを申し上げています。あなたが保護なさるのは結構ですわ、アーヴィン。でも、それで家の秩序が曖昧になるなら、わたくしは止めます」
「秩序」
彼はわずかに笑った。
「君にとっては、何でも秩序に見えるんだろうな」
その笑みに、以前の優しさはなかった。ただ、面倒なことを穏便に片づけたい男の表情があるだけだ。
「夜会の最中ですわ。続きをここでするおつもりなら、いっそ客人の前でなさって」
ヴィオレッタがそう言うと、アーヴィンの目が少しだけ細くなった。怒りとも違う。理解されない妻への辟易。そんな色に近い。
「君は最近、刺がある」
「最近?」
「……いい。今夜は祝いの席だ。話は後にしよう」
彼はリディアに「もう大丈夫だ」と囁き、その肩を軽く抱いて部屋から出ていった。
残された静寂の中で、ヴィオレッタはしばらく動かなかった。
エルマが何か言いかけ、やめる。
「奥様」
「大丈夫よ」
言った声は、自分でも驚くほど平坦だった。
大丈夫。たいていのことは、そう言ってやり過ごせる。そうやってこの家を守ってきた。傷ついていないわけではないが、壊れてはいない。まだ。
「夜会へ戻りましょう。あのままでは財務院の次官がデザートに辿り着く前に不機嫌になるわ」
冗談めかしたつもりだったが、エルマは笑わなかった。ただ深く頭を下げた。
大広間へ戻ると、音楽は少し速い曲へ変わっていた。気分を切り替えるにはちょうどいい。ヴィオレッタは数人の客に言葉をかけ、些細な手違いを正し、社交の流れを元に戻した。そうしている間は余計なことを考えずに済む。
だが夜会の終盤、王宮法務官カシアン・ルヴェールが訪れた時だけ、ヴィオレッタの意識はわずかに現実へ戻された。
彼はアーヴィンより少し年上で、痩せた長身に黒髪をきっちりと撫でつけた男だった。社交界ではあまり目立たないが、王宮の法と記録を預かる冷徹な実務家として知られている。人と群れない。笑わない。だが観察している時の目だけが、妙に静かで鋭い。
「公爵夫人」
彼は礼を取った。
「法務官殿。ご多忙のところ、ようこそおいでくださいました」
「お招きいただいたので」
それだけ言って顔を上げる。その視線が一瞬、彼女の喉元で止まった。疲労の色でも見抜かれたかと思ったが、すぐに離れた。
「今夜も見事な会です」
「お世辞にしては硬すぎますわ」
「お世辞は不得手です」
「存じております」
ほんの短いやり取りに、彼の口元がわずかに緩んだような気がした。たぶん、気のせいではない。
カシアンは必要以上に会話を広げない男だ。だからヴィオレッタも無理に踏み込まない。だが彼の前に立つと、不思議と呼吸が整う瞬間があった。彼は人を慰めもしない代わりに、見くびりもしない。
「ローゼンベルク家の帳場は相変わらず隙がないそうですね」
ふいにそんなことを言われ、ヴィオレッタはわずかに眉を上げた。
「どこでそのような評判を」
「記録は噂より雄弁です」
「法務官らしいお答えですこと」
「褒め言葉として受け取っておきます」
彼は視線を広間へ向けた。アーヴィンが遠くでリディアに何か話しかけ、彼女がはにかんでいるのが見える位置だった。
カシアンはその光景を一瞬だけ見たあと、何も言わずグラスを受け取った。けれど沈黙には種類がある。今のそれは、何も見ていない沈黙ではなかった。
「……夜会では、時に見えるものより見えないものの方が多いでしょう」
彼の声は低い。
「見えないままの方が幸福なこともありますわ」
「そうでしょうか」
「少なくとも、続けていくには必要です」
ヴィオレッタが微笑んで言うと、カシアンは彼女を見た。その目に、妙な色が差す。憐れみではない。理解とも少し違う。
「続けていくことと、保たせることは、似ているようで別です」
ヴィオレッタは返答に一瞬迷った。彼は何を見てそう言ったのか。
けれど次の瞬間には、別の客が彼を呼び止めた。カシアンは軽く一礼し、その場を離れる。残された言葉だけが、不意に肌に残った。
続けていくことと、保たせることは別。
その通りかもしれない。けれどヴィオレッタには、この家を「保たせる」以外の道が見えなかった。少なくとも今は。
夜会が終わり、最後の客が帰り、給仕たちが食器を下げ終えるころには、深夜を回っていた。ヴィオレッタはようやく私室に戻り、侍女に髪を解かせた。鏡の中の自分は、相変わらずきれいに整っている。公爵夫人に相応しい顔。感情の乱れを見せない顔。
侍女たちを下がらせ、一人になると、彼女は小さく息を吐いた。
部屋の隅の棚には、結婚した年にアーヴィンが贈ってくれたワインが一本ある。特別な年に開けようと二人で決めた、深い赤のワインだ。まだ手をつけていない。開ける機会は幾度もあったのに、そのたびに何かが違う気がして見送ってきた。
ヴィオレッタはそれを見たあと、結局まったく別の白ワインを選んだ。
グラスに少しだけ注ぎ、窓辺に立つ。夜の庭は静かで、遠くの噴水の音だけが微かに聞こえる。
冷えた液体を喉に流し込みながら、彼女は今夜のすべてを頭の中で並べた。リディアの涙。アーヴィンの「君は最近、刺がある」という声。失われた伝票。ユリウスの無責任な笑顔。カシアンの言葉。エルマの沈んだ目。
何かがおかしい。
そう感じるのに、まだ手の中へ落ちてくる形をしていない。霧の向こうに輪郭だけがある。
そしてヴィオレッタは、妙なことに気づいた。
今夜、アーヴィンは一度も彼女の目をまっすぐ見ていない。
気のせいだろうか。いや、そうではない。大勢の前で手に口づけた時も、休憩室で言い争った時も、彼の視線はどこか彼女を外していた。面倒な話を遠ざけるように。あるいは、何か後ろめたいものを真正面から見ないように。
ヴィオレッタは残ったワインを一息に飲み干した。
その夜、眠りは浅かった。
夢の中で彼女は、まだ若いころの自分を見た。初めてローゼンベルク公爵邸へ嫁いだ日の、柔らかな笑みの少女だ。手には深紅の花束。傍らには美しい夫。広間は明るく、人々は祝福し、未来は確かに開けていた。
その夢のどこか遠くで、ガラスの割れる音がした。
目を覚ました時にはもう朝だった。
雨の音がしていた。
薄灰色の空の下、屋敷はいつもより重たく静まり返っている。ヴィオレッタは寝台から起き上がり、窓の外を見た。雨に打たれた庭の薔薇が、首を垂れて揺れている。
嫌な朝だと思った。
そういう予感は、たいてい外れない。
案の定、その日の昼前に、悲鳴が公爵邸に響いた。
南棟。リディアの部屋の前。
ヴィオレッタが急いで駆けつけると、廊下には蒼白な侍女たちが集まり、扉の前ではユリウスがうろたえた顔で立ち尽くしていた。
「何があったの」
「リディアが……っ」
ユリウスの声は上ずっている。
「お茶を飲んだ途端に倒れて、医師を呼んでる。でも兄上が、お前を……」
言い終えるより早く、奥の部屋からアーヴィンが現れた。
彼の顔色はひどく悪かった。だがその青ざめた顔の底にあるものを、ヴィオレッタは見た。驚愕だけではない。怒り。怯え。決意のような、何か。
「ヴィオレッタ」
その呼び方に、胸が冷えた。
「リディアが毒を盛られた」
廊下の空気が止まる。
ヴィオレッタは夫を見た。彼は今度こそ、彼女の目をまっすぐ見ていた。
嫌な朝だと思った予感が、ようやく形になる。
「……それで」
自分の声が、恐ろしいほど静かに出た。
「わたくしを疑っていらっしゃるの?」
アーヴィンは答えなかった。
その沈黙が、何より雄弁だった。
初めて復ザマァ系を書いてます
良かった悪かった含めて教えて下さい!




