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公爵夫人、地獄でワインを飲む  作者: 七七街


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4話

 夜は、何かを隠すためにあるのではない。


 隠されていたものの輪郭を、昼よりはっきり浮かび上がらせるためにある。


 ヴィオレッタは、灯りを一つだけ残した部屋の中で、窓辺に立っていた。手の中には、蝋で取られた帳場の小鍵の歯型。昼間はただの薄い蝋片にしか見えなかったそれが、夜の灯りの下では妙に生々しい。誰かが実際に鍵へ押し当て、急いで剥がし、油紙へ包み、自分のもとへ滑り込ませた。そこにあるのは善意だけではないかもしれない。けれど、少なくとも誰か一人は、今夜この屋敷で何が燃やされるかを知っている。


 帳場の古い記録。


 そこに何があるのかはまだ断言できない。だが少なくとも、消されると困るものがあるのだ。


 ヴィオレッタは蝋片を机の上へ置き、部屋を見回した。離れの一室。与えられた籠の鳥のような部屋。外へ出るには見張りが二人。正面の小径と、裏手の植え込み。時間が深くなれば交代があるはずだが、それが何刻かまではまだわからない。


 ただ、ひとつだけ確かなことがある。


 今夜、自分が動かなければ、明日には何かがなくなっている。


 ノックがした。


「エルマでございます」


「入って」


 侍女長は手燭を持って入ってきた。いつもと変わらぬ顔をしているが、その歩幅の狭さで緊張がわかる。扉を閉めるなり、彼女は低い声で言った。


「見張りは今のところ二人です。表に一人、裏に一人。零時ごろに交代します」


「やはり」


「ええ。ただ交代の瞬間も、完全に無人にはなりません。表の者が裏の者を呼び、入れ違う形です」


「じゃあその隙は短いわね」


「かなり」


 エルマはそれから、そっと布包みを差し出した。


「何?」


「離れの使用人用の外套です。下働きの女が使うものですから、質は良くありませんが」


 ヴィオレッタは受け取った。粗い毛織りで、手触りは硬い。離れへ閉じ込められた公爵夫人が纏うには似つかわしくない布だ。だが今夜必要なのは、似合うことではなく紛れることだった。


「あなた、ずいぶん手際がいいのね」


 言うと、エルマはほんの少しだけ目を伏せた。


「奥様が動くと決められたなら、止めても無駄でしょう」


「止めるつもりだった?」


「ええ。ですが、記録が燃やされるなら止める理由がありません」


 ヴィオレッタは頷いた。エルマはいつだって正しい順番で物を考える。感情より先に現実を置く。だからこそ信頼できた。


「帳場までの道は」


「本邸北側の裏廊下を通るのが一番目です。けれどそこには夜番の執事見習いが二人おります」


「では一番目ではないわね」


「一番短いだけです。安全なのは、温室裏を回って厨房脇の搬入口から入る道です。帳場へ近い東回廊の灯りは、今夜雨で一部が消されると聞いております」


「それも誰かの手?」


「おそらく」


 今夜、自分だけが動くわけではない。そう考えるべきだった。帳場の鍵型を渡した者。記録が燃やされると知らせた者。灯りを消す者。屋敷の内側で、少しずつ歯車が噛み始めている。


 ヴィオレッタは外套を広げた。


「エルマ、あなたは残って」


「ですが」


「もしわたくしが部屋にいないと知れた時、最初に疑われるのはあなたよ」


「疑われる程度なら」


「駄目」


 ヴィオレッタははっきり言った。


「あなたまで失うのは得策ではないわ。ここにいて、もし見張りが動いたら咳払いでも物を落とすでもして、少しでも時間を稼いで」


 エルマは口を結んだ。


「……かしこまりました」


「それから、カシアン殿へ伝言を」


「何と」


「“鍵は物が覚えているのなら、今夜は火の匂いも覚えるでしょう”」


 エルマの眉がわずかに動く。


「かなり嫌味です」


「ええ。あの男にはちょうどいいわ」


 夜が深くなるにつれ、屋敷は別の顔になる。昼のあいだ人々が纏っている礼節や役割は、夜には少しだけ薄くなる。見張りは面倒を嫌い、使用人は手を抜き、当主は酒に逃げ、被害者は泣き疲れる。そういう時間だ。


 ヴィオレッタはそれを待った。


 零時が近づくころ、外の足音が変わり始めた。表の見張りが一度大きく咳をし、裏の者を呼ぶような小声がする。返事。石畳を踏む二人分の靴音。入れ違いの数秒。


 ヴィオレッタはその瞬間、外套を羽織り、髪を低くまとめ、手燭を吹き消した。


 エルマが扉へ向かい、ちょうど水差しを倒した音を立てる。


「あっ」


 見張りの一人が反応する気配。


 ヴィオレッタはその隙に、窓から身を滑らせた。離れの窓は庭へ低く開いている。裾が湿った土をかすめ、靴先に泥がつく。冷たい空気が肺へ入り、彼女は一瞬だけ立ち止まりそうになった。自分が何をしているのか、遅れて実感する。公爵夫人が、真夜中に外套一枚で庭を這うように進んでいる。


 だが今さらだ。


 植え込みの影へ身を沈め、温室裏へ向かう。夜露に濡れた枝が腕へ触れた。庭は昼間より広く見える。見張りの声は背後でまだエルマの落とした水差しの方へ引かれていた。


 温室のガラスは曇り、内側の草花の影だけがぼんやり浮いている。その裏手を回ると、厨房脇の搬入口が見えた。扉は半開きだった。油断か、誘いか。どちらでも今は構わない。


 中へ入る。


 厨房にはもう火が小さく残るだけで、鍋の影がいくつも黒く吊られている。人影はない。だが完全な無人のはずがない。夜番の下働きが一人はいる。足音を殺して石床を進むと、寝息が聞こえた。隅の薪置き場近くで、若い下男が椅子に凭れたままうたた寝している。


 ヴィオレッタは立ち止まらなかった。


 東回廊へ抜ける扉の先は暗かった。エルマの言った通り、灯りがいくつか落ちている。雨のせいだけではないだろう。濡れた石の匂いと、少し古い紙のような匂いが混じる。


 帳場は、この先の突き当たりを曲がった先だ。昼なら使用人や会計係が絶えず行き交う場所だが、今は静まり返っている。代わりに、微かな話し声があった。


 男が二人。


 ヴィオレッタは曲がり角の手前で足を止め、壁の陰へ身を寄せた。


「……本当に今夜やるのか」


 低い声。執事長ではない。帳場頭でもない。若い男だ。


「今夜しかないだろ。明日には王宮の目が入るかもしれん」


 こちらは年上の声。落ち着いているが苛立っている。


「でも、もし奥様が」


「死んだわけじゃない。だから厄介なんだ」


 ヴィオレッタは瞼を動かさず、耳だけを澄ませた。


「帳面の一冊や二冊、なくなったところで誰も」


「誰も、じゃない。あの女は気づく」


 あの女。


 ヴィオレッタは壁へ置いた指先に力を込めた。声の主は自分を知っている。よく知っている。


「だったらもう」


「馬鹿。これ以上は余計だ」


 短い沈黙。


「火鉢は?」


「中へ。濡れた紙の上に油を少し」


「臭いが残る」


「雨の夜だ。ごまかせる」


 ヴィオレッタは静かに息を吐いた。やはり燃やす気だ。しかも事故に見せかけるつもりらしい。帳場の古い紙束が火鉢の火に移った、という程度の雑な筋書きで。


 今ここで飛び出し、「そこで何を」と問い詰めるのは下策だ。相手の顔を見ないまま潰せるものは潰せない。まず誰かを確定させる必要がある。


 足音がした。二人のうち一人が動く。こちらへ来る。


 ヴィオレッタは咄嗟に背後の小部屋へ滑り込んだ。掃除用具置き場だった。箒と桶の匂い。扉は半分だけ閉め、隙間から回廊を見る。


 通り過ぎた男の横顔が灯りの残滓に浮かんだ。


 執事見習いのラウル。


 まだ二十にもならぬ若い男で、最近義母付きから執事長の手元へ上がった者だ。几帳面だが野心がある。人を見る目が落ち着かず、誰に取り入るべきかを常に探しているような顔をしていた。なるほど、こういう夜には使いやすい。


 もう一人は見えない。低い声の年上の方。


 ラウルが通り過ぎ、回廊の先で小声で言う。


「見回りは」


「まだ来ない」


「早くしろよ」


 ヴィオレッタは掃除用具置き場の中で目を閉じた。今夜ここへ来て正解だった。顔が一つ出た。けれど本命はまだだ。ラウルだけで帳場の記録焼却など決められるはずがない。必ず背後にいる。


 その時、別の足音がした。今度は迷いのない靴音。革のしっかりした底で、屋敷の中を歩き慣れた者の足。


 男たちの声が止む。


「誰だ」


 ラウルが囁く。


 返事はなかった。代わりに歩みだけが近づく。回廊の薄闇の中へ現れた影を見て、ヴィオレッタは思わず息を止めた。


 カシアンだった。


 黒い外套を肩へかけたまま、手燭も持たずに歩いてくる。夜目が利くのか、それともこの屋敷の構造を頭へ叩き込んでいるのか、迷う気配がない。男たちは明らかに怯んだ。


「こんな時間に帳場で何を」


 彼の声は低く平坦だ。


 ラウルが慌てて頭を下げる音がする。


「ほ、法務官様。いや、その、雨で戸締まりが甘くないかと」


「帳場の戸締まりを、執事見習いが火鉢付きで確認するのですか」


 沈黙。


 カシアンはさらに一歩進んだのだろう、空気が張った。


「もう一人は」


 問われて、ようやくもう一つの影が動いた。


 執事長ヴェルナーだった。


 五十を過ぎた痩せた男。ローゼンベルク家で長く働き、顔には温厚さを貼りつけているが、実際には何ひとつ自分の手を汚さずに立ち回ることに長けた男だ。ヴィオレッタは何度も彼の尻拭いをしてきた。足りない銀器の帳尻合わせ、賄賂すれすれの贈り物の処理、義母の無茶な要求を現実的な形に削る仕事。そのたびに彼は「奥様のおかげです」と頭を下げた。


 その男が、今、帳場の火鉢の前に立っている。


「法務官殿」


 ヴェルナーの声は少しも揺れない。


「夜分に失礼を。少し記録の整理を」


「整理」


「湿気た古紙を処分するだけです」


「公爵夫人の管理下にあった帳場の記録を、当人が離れにいる夜に?」


 言葉が刃のようだった。


 ヴェルナーはなおも崩れない。


「今は旦那様のご判断で、帳場の管理はわたくしどもが」


「その判断が法的にどこまで有効かは、まだ私が確認していません」


 短い沈黙。


 ラウルが明らかに気圧されているのが空気でわかった。対してヴェルナーは、ここで引くべきか測っている。


 ヴィオレッタは掃除用具置き場の陰で思う。来るのが少し遅いわよ、カシアン。だが来ないよりはずっといい。


「法務官殿」


 ヴェルナーが穏やかに言う。


「これは家内の問題です。まだ公的な場へ持ち出す段では」


「家内の問題、という便利な言葉が好きですね。ここ数日で三度聞きました」


 カシアンの声音は変わらない。


「記録を見せてください」


「旦那様の許可が」


「では今ここで、私が許可を取りましょうか。夜半に記録を燃やそうとしたと添えて」


 ヴェルナーの沈黙が長くなる。


 勝負はついた、とヴィオレッタは思った。ここで逆らえばあまりに露骨だ。帳場の火鉢ひとつで済ませるはずだった夜が、法務官の立会いという面倒な形に変わってしまった。


「……どうぞ」


 ヴェルナーが退く。


 ヴィオレッタはまだ出るべきではないと判断した。ここで掃除用具置き場から現れれば、カシアンが最初から自分と通じていたように見える。そうなると今後の手が狭まる。


 扉の隙間から見ると、カシアンが帳場の扉を開け、中へ入った。ラウルとヴェルナーも続く。少し遅れて、別の足音が回廊へ入ってくる。見張りかと思ったが違った。


 サラだった。


 朝食を運んできた離れ付きの侍女。彼女は真っ青な顔で立ち止まり、きょろりと辺りを見回すと、掃除用具置き場の半開きの扉に気づいた。そして中にヴィオレッタの影を見つけた瞬間、息を呑んだ。


 ヴィオレッタは口元へ指を当てた。


 サラは震えながらも小さく頷き、そっとこちらへ寄ってくる。


「あなた」


 ヴィオレッタが囁く。


 サラはほとんど声にならない声で言った。


「紙を入れたの、わたしです」


 やはり。


「なぜ」


「ヘレンが……リディア様付きのヘレンが、泣いてたんです。あの日の朝、お茶を運ぶ前に、帳場の方から呼ばれたって。変な瓶を持たされて、香りづけだって言われたのに、あとでリディア様が倒れて」


 サラは声を震わせる。


「こわくて、誰にも言えなくて。でも奥様が離れに移されたから、このままだと全部奥様のせいになるって」


「誰がヘレンを呼んだの」


「見てないって……でも、執事長の小間使いが先に来てたって」


 執事長ヴェルナー。やはりそこか。


「それをなぜ今」


「ヘレンが消えたんです」


 ヴィオレッタの目が細くなる。


「消えた?」


「昨日の夕方から、部屋にいなくて。病んだから休ませるって話になってるけど、離れにも下働き部屋にもいないんです」


 火を消すどころではない。証人を消したのか、隠したのか。


 サラは今にも泣きそうな顔で続ける。


「帳場の記録も、ヘレンの出入りも、全部消されるって聞いて」


「誰から」


「ラウルが酒場で。酔って喋ってました。今夜で終わるって」


 ヴィオレッタは一瞬だけ目を閉じた。若い見習いはいつだって、仕事の重さより秘密を知っている自分に酔う。そういう種類の人間だ。


「よく知らせてくれたわ」


「わたし、奥様の味方とかじゃ……」


「ええ、知ってる。あなたは自分が巻き込まれたくないだけ」


 サラははっと顔を上げた。責められたと思ったのだろう。


 だがヴィオレッタは続ける。


「それで充分よ。巻き込まれたくないなら、生き残る方につきなさい」


 サラは唇を噛み、深く頷いた。


 その時、帳場の中から紙をめくる音と、カシアンの冷たい声が聞こえた。


「これは誰の印です」


 ヴェルナーの答えは聞こえない。


「慈善院への支援金。通常の三倍。しかも同日付で別帳簿にも移動記録がある。説明を」


 沈黙。


「それと、こちらは義弟殿への貸付扱いになっていますが、返済印がない。なぜ処理済み印だけが押されている」


 ヴィオレッタは思わず微かに笑った。あの男は本当に、人の傷を抉るより数字を抉る方がうまい。


 帳場の中で何かが倒れた音がした。ラウルだろうか。


「法務官殿、それは」


「触らないでください」


 冷えきった声。次いで、紙束をまとめるような音。


「これらは私が預かります」


「旦那様の許可なくは」


「今この場で燃やそうとした記録を、ですか」


 ヴェルナーが初めて息を乱した気配がした。


 潮目が変わる。


 ヴィオレッタは掃除用具置き場から出る時を計った。今ならまだ早い。だが遅すぎてもいけない。自分の存在が必要になる瞬間があるはずだ。


 その瞬間は、思ったより早く来た。


 回廊の奥から、荒い足音が近づいてきたのだ。ためらいなく、怒気を乗せた足音。


 アーヴィン。


 ヴィオレッタはすぐにわかった。昼間、伝票を拒んだ時と同じ歩き方だ。怒っている男は、どんなに貴族でも靴音を消せない。


 彼は帳場の前まで来るなり声を上げた。


「何をしている!」


 扉の中の空気が一瞬止まる。


 カシアンが振り返った気配。


「記録の保全です」


「勝手な真似を」


「勝手に燃やされる前に、です」


「これは我が家の」


「家内の問題、という言葉はもう結構です」


 アーヴィンの呼吸が荒くなるのが回廊まで伝わった。


「誰がここへ法務官を呼んだ」


 ヴィオレッタはその問いに、掃除用具置き場の陰で一瞬だけ目を細めた。誰が、ではない。呼ばれるような状況を作ったのは自分たちだ、と言ってやりたい。


 けれどその前に、別の声がした。


「わたくしですわ」


 ヴィオレッタは自分で言ってから、掃除用具置き場から姿を現した。


 回廊の全員が固まる。


 アーヴィンの顔から色が消えた。ヴェルナーは目を見開き、ラウルは声もなく一歩下がる。カシアンだけが、ほんの一瞬だけこちらへ視線を滑らせたあと、表情を変えなかった。


「ヴィオレッタ」


 アーヴィンの声は怒りより先に驚愕を含んでいた。


「どうしてここに」


「帳場の記録が燃やされると聞けば、来るでしょう」


「離れにいろと言ったはずだ」


「はい。ですが、夫が隠したいものほど、妻は見ておくべきだと思いましたの」


 アーヴィンが一歩踏み出す。


「今すぐ戻れ」


「嫌ですわ」


 ヴィオレッタは帳場の扉の前まで進み、カシアンの手元にある帳簿を見た。慈善院支援、義弟への貸付、処理済み印。予想していたものが揃っている。


「公爵閣下」


 カシアンが低く言う。


「ここにある記録は、少なくとも公爵夫人毒殺未遂疑惑とは無関係とは言えません」


「そんなもの、あとで」


「あとでは燃えていたでしょうね」


 ヴェルナーが「旦那様」と何か言いかけたが、アーヴィンが鋭く制した。


 ヴィオレッタは夫を見た。今この男の頭の中では、いくつものことが同時に崩れている。離れに閉じ込めておけば黙るはずだった妻が、真夜中の帳場に立っている。法務官が記録を押さえている。執事長が狼狽している。若い見習いは青ざめている。全部が、彼の“家のため”という言葉の内側から壊れ始めている。


「アーヴィン」


 ヴィオレッタは静かに呼んだ。


「これでもまだ、わたくしが嫉妬で毒を盛った可哀想でみっともない妻に見えていらっしゃる?」


 彼は答えない。


「帳場の金が動き、義弟の借財が隠され、慈善院を経由した支援が膨らみ、リディアの侍女が消え、記録が燃やされようとしている。これだけ揃っても」


「黙れ」


 アーヴィンが低く言う。


「それ以上口にするな」


「なぜ」


「屋敷の中で大事にするなと言っている!」


「もう充分大事でしょう」


 ヴィオレッタは一歩も引かなかった。


「あなたがわたくしの部屋を探らせ、離れへ押し込めた時点で」


 カシアンが帳簿を閉じる音がした。


「今夜のところは、これ以上の口論に意味はありません。記録は私が預かります」


「渡せ」


 アーヴィンが言う。


「できません」


「これは我が家のものだ」


「いえ。今この瞬間から、証拠です」


 その言い切りに、回廊が完全に凍った。


 証拠。


 その一語が持つ重みを、この屋敷で知らぬ者はいない。家内の問題、内々の整理、当主判断――そうした曖昧な布が、全部一枚で剥がれる言葉だ。


 アーヴィンはしばらく何も言えなかった。やがて、苦いものを飲み込むように唇を引き結ぶ。


「……法務官殿。あなたは我が家を敵に回すおつもりか」


 カシアンは答えた。


「敵に回したのは、真実の方かもしれません」


 なんて嫌味な男だろう、とヴィオレッタは場違いなことを思った。けれどその嫌味が今は、実に頼もしい。


 ヴェルナーがなおも言い繕おうとした時、回廊のさらに奥から新たな気配が近づいた。柔らかな衣擦れ。女だ。


 義母だった。


 彼女は夜着の上に羽織を重ね、取り乱した顔を作っている。だが帳場前に揃った面子と、ヴィオレッタの姿を見た瞬間、その顔の裏で計算が走ったのがわかった。


「まあ……これは何の騒ぎですの」


 またそれだ。


 ヴィオレッタは心の中でだけ笑った。この女は本当に、世界のすべての不始末を“騒ぎ”という言葉に押し込めるのが好きらしい。


「ちょうどよろしいですわ、お義母様」


 ヴィオレッタは振り返る。


「慈善院への過剰支援と、帳場の不自然な処理印、それから夜半の記録焼却未遂について、今から少しお話しできそうですもの」


 義母の顔からわずかに血の気が引いた。


 その小さな変化を、ヴィオレッタは見逃さなかった。


 知っている。


 全部ではないにせよ、この女は何かを知っている。


 雨上がりの夜気が回廊へ流れ込み、火の消えかけた火鉢の匂いと混じる。紙はまだ燃えていない。記録は手の中にある。証人は消えたかもしれないが、消える前の足跡は残った。執事長、見習い、義弟、慈善院、義母。線はようやく絡まり始めた。


 ヴィオレッタは外套の下で冷えた指先をそっと握った。


 今夜は、ただ逃げ切っただけではない。


 初めて相手の喉元に、こちらの手が届いた夜だ。


 そしてその喉元は思ったより多かった。夫ひとりでは終わらない。愛妾ひとりでも、執事長ひとりでもない。この屋敷そのものが、互いに黙認しあうことで腐っている。


 ならば、一人ずつ剥がしていけばいい。


 その考えが浮かんだ時、ヴィオレッタは自分の中の何かが、また少し変わったのを感じた。


 昨日までの彼女なら、この状況でもなお、家をどう立て直すかを考えていたかもしれない。


 今は違う。


 まず壊すべきものがある。


 帳場の扉の前で、ヴィオレッタは義母と夫を見据えた。薄闇の中でも、二人の顔色の違いははっきり見える。アーヴィンは怒りを隠しきれず、義母は恐れを優雅に塗り固めている。


 いい。どちらも見やすい。


「続きをなさいますか」


 ヴィオレッタは静かに言った。


「それとも今夜はここで、お互い少しだけ、見えてしまったものを持ち帰ります?」

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