最終章:約束の39年
「……塔子、もうやめなさいって」
沙耶が、震える塔子の肩を強引に引き剥がした。
「電話線が焼けたのよ。全焼って書いてあるじゃない。あの火事のあと、竹が丘荘は跡形もなく消えた。……あんたがいくら叫んでも、もう届かないのよ」
塔子は受話器を握りしめたまま、床に膝をついて泣き崩れた。
1979年のあの夜。炎に包まれる部屋で、隣人の狂気にさらされていたであろう昭子。まだ投稿さえしていない来年の雑誌も、二人で交わした約束も、すべてが灰に帰してしまった。
その時だった。
静まり返った部屋に、控えめなインターホンの音が響いた。
「……こんな夜中に誰よ」
沙耶が毒づきながら玄関へ向かう。ドアを開けた瞬間、彼女の声が止まった。
「……お母さん? なんでここに」
そこに立っていたのは、沙耶の母親、佐藤昭子(旧姓)だった。
沙耶は日頃から「うちの親はガサツで、昔のことなんて覚えてない」と塔子に漏らしていた。
だが、今そこに立つ昭子の瞳は、どこか遠い記憶を慈しむように澄んでいた。
「沙耶、あなたがずっと『友達が不思議な電話の相手を心配している』って言うから……なんだか、今日行かなきゃいけない気がしたのよ。これ、持ってきたわ」
母親がバッグから取り出したのは、一冊の古びた雑誌だった。
2019年発行予定の『フレン・ドゥ』。塔子がこれから投稿するはずの、あの雑誌だ。
「これ……! おばさん、どうしてこれを!?」
塔子が這い寄るように尋ねると、昭子はそっと雑誌を抱きしめた。
「これね、私が独身の頃、アパートの机の上にいつの間にか置いてあったの。1979年の11月。……その頃の私は、隣に住んでいた篠田さんという方に執拗に監視されていて、本当に怖くてたまらなかった。でもね、不思議なことがあったのよ」
「……お母さん、あんた。本当にあの火事にいたの?」
沙耶が息を呑む。昭子は静かに頷いた。
「ええ。11月10日の昼間、半ドンで仕事が終わって、冬物のコートを買いに行こうとしたときだったわ。……ぼんやり考え事をして歩いていたら、向こうから来た自転車と正面衝突しちゃってね。そのまま救急車で運ばれて、2日間も検査入院することになったのよ」
「……はあ。あんたらしいわね。相変わらず不注意なんだから。自転車同士で正面衝突って、どんな当たり方したのよ」
沙耶はいつもの調子で呆れてみせたが、その声は微かに震えていた。
「でもね、沙耶。そのおかげで私は助かったのよ。……翌々日の月曜日、アパートは全焼した。篠田さんが、私の部屋に勝手に入り込んで火を放ったんですって。彼女は逃げ遅れて……そのまま亡くなったわ」
塔子の目から、新たな涙が溢れ出した。
昭子は生きていた。火事の夜、彼女の命を救ったのは、沙耶から見れば「不注意」な、けれど神様が与えてくれたような奇跡の衝突事故だったのだ。
「退院して焼け跡に戻ったら、私の部屋はすべて灰になっていたわ。でも、入院鞄に入れていたこの雑誌だけが残った。……そして何より、入院する直前まで電話で私を励まし続けてくれた『未来の友人』の声が、心の中に残っていたの」
昭子はゆっくりと歩み寄り、塔子の前に膝をついた。
シワの刻まれた、けれど凛とした温かい手で、塔子の震える手をそっと包み込む。
「ねえ、水澤塔子さん。……ずっと、お礼が言いたかったのよ。孤独で、誰にも助けてと言えなかった私に、あなたは『未来に私が待っている』と言ってくれた。……あなたがいたから、私は火事で全部失くしても、前を向いて新しい人生を始められたの」
沙耶は、初めて見る母の真剣な横顔に言葉を失い、ただ静かに寄り添った。
「はじめまして、水澤塔子さん。……いいえ、やっと会えましたね、私の親友」
39年前、受話器越しに感じたあの穏やかな温度が、今、確かな温もりとして塔子の手に伝わってくる。
窓の外には、1979年も2018年も変わらない、深く静かな夜空が広がっている。
39年の時を超えて、二人の女性の時間は、一本の電話線から始まった奇跡を連れて、ようやく一つの場所で重なり合った。
「……約束、守ってくれて、ありがとうございます」
塔子の言葉に、昭子はただ優しく、慈しむように微笑み返した。
その言葉を口にした瞬間、塔子の視界は再び激しくにじんだ。
それは、先ほどまでの絶望の涙ではない。39年という気の遠くなるような時間の壁が、音を立てて崩れ去った喜びの涙だった。
塔子の脳裏には、1979年のあの夜、途切れてしまった電話の呼び出し音がリフレインしていた。
あの時、受話器の向こうで炎が上がり、回線が焼き切れた瞬間の絶望。
親友を救えなかったという無力感。
彼女が愛した「今」がすべて灰になってしまったのだという、耐え難い喪失感。
けれど、目の前にいる昭子の手は、驚くほど温かかった。
(生きていてくれた。あの火事の夜も、その後の長い年月も……)
塔子は、昭子の手の節くれだった感触の中に、彼女が歩んできた39年の重みを感じ取っていた。
アパートを焼かれ、住む場所も家財も、あの不思議な電話機さえも失ったはずの昭子。それでも彼女は、未来から届いた「私の声」を、たった一つの道標にして絶望を生き抜いたのだ。
塔子にとっての「一ヶ月」の交流は、昭子にとっては「人生の半分以上」を支え続けた大切な記憶だった。
「ありがとうございます……。本当に、会いに来てくれて……」
塔子が伝えたかったのは、単なる再会への感謝ではなかった。
未来を信じてくれたことへの感謝。
過酷な運命に負けず、今日まで命を繋いでくれたことへの感謝。
そして、孤独だった自分を、39年越しに「親友」として見つけ出してくれたことへの、魂の底からの「ありがとう」だった。
沙耶は、そんな二人を少し戸惑ったような、けれど優しい目で見つめていた。
「……もう、塔子。あんたの泣き顔、これで見納めにしてよね。お母さんも、塔子も、らしくないんだから。」
いつもの冷めた口調。けれど、沙耶がそっと差し出したティッシュは、二人を繋ぐ空気を壊さないよう、驚くほど静かに置かれた。
昭子は、娘の憎まれ口に「はいはい」と目を細め、もう一度だけ、塔子の手を優しく包み直した。
「塔子さん。私の机の上にあったあの雑誌……あれが、私に教えてくれたのよ。『いつか、このページを書いた女性が私を待っている。だから、今は辛くても、そこまで歩いていこう』って。……だから、約束を守ったのは、私の方だけじゃない。あなたも、私をここまで呼んでくれたのよ」
窓の外、大分の夜空には、1979年と変わらぬ星が瞬いている。
2018年、11月12日。
時を超えた二人の約束は、長い旅路を終え、温かな手のひらの中で、静かに、そして確かに果たされた。
(了)




