第三章:隣り合わせの狂気
1979年10月3日。
大分市竹が丘にある木造二階建てアパート「竹が丘荘」。その二階の一室で、佐藤昭子はラジオから流れるエキゾチックな旋律に耳を傾けていた。
『……続いてお届けするのは、本日デビューの新人、久保田早紀さんで「異邦人」』
透き通るような歌声が、小さな部屋に満ちていく。
昭子は鳥肌が立つのを感じた。39年後の未来にいるという水澤塔子たちが言った通りだ。
パナマ運河も、ママローヤルも、そしてこの「異邦人」も。すべてが、彼女たちが予言した通りに現実となっていた。
机の上には、いつの間にか紛れ込んでいた雑誌『フレン・ドゥ』が置かれている。そこには、まだ見ぬ未来の友人・塔子の笑顔があった。
「本当に……繋がっているのね」
昭子が小さく呟いた、その時だった。
コン、コン。
遠慮のない、しかしどこかリズムの整ったノックの音が響いた。昭子が返事をする間もなく、ドアがゆっくりと開く。
「あら、佐藤さん。まだ起きてらしたのね。いい歌が聞こえてきたから、つい」
立っていたのは、隣の201号室に住む篠田悦子だった。四十歳前後だろうか。いつも小綺麗にパーマをあて、近所でも「面倒見のいい、親切なおばさん」で通っている女性だ。手には、湯気の立つ湯呑みとお盆が握られている。
「篠田さん。……こんばんは。わざわざ、どうも」
「いいのよ、お隣さんなんだから。ほら、実家からいい茶葉が届いたの。佐藤さん、最近お疲れみたいだから、一緒にどうかしらと思って」
篠田は断る隙も与えず、滑るような足取りで室内へ踏み込んできた。昭子は反射的に、机の上の『フレン・ドゥ』を別の雑誌の下へ隠した。
篠田の目は、常に笑っている。だが、その瞳の奥には、焦点が定まっていないような、底知れない空虚さが潜んでいた。
「……あら、佐藤さん。そのブラウス、新調されたの?」
篠田が、昭子のクローゼットに視線を走らせた。
「ええ、まあ。先週、仕事の帰りに少し」
「素敵ね。でも、先週の火曜日は雨だったでしょう? 商店街の三越の前で、傘を差さずに歩いてらしたから、風邪でも引かないか心配してたのよ。私、ちょうどその後ろを歩いていたから」
昭子の背筋に、微かな震えが走った。
先週の火曜日。確かに買い物には行ったが、誰かに見られていた記憶はない。
ましてや、後ろを歩いていたなど。
「見てらしたんですか?」
「ええ、見ていたわよ。ずっと。佐藤さんの後ろ姿は、本当にお母様に似ていて美しいわ」
篠田は茶を啜りながら、うっとりとした表情で部屋を見渡した。
「この部屋の配置も、少し変えたのね。あそこに置いてあったフランス人形、押し入れにしまったのかしら。あの子、寂しがっているわよ」
昭子は息が詰まる思いだった。
篠田は「親切」という仮面を被りながら、昭子の生活の細部を、剥製を作る職人のような執拗さで観察し、把握している。
篠田悦子にとって、昭子のプライバシーを侵食することは「愛情」であり、「正しい隣人の姿」なのだ。
「あの……篠田さん。明日も仕事が早いので、そろそろ」
「あら、そう。……そうよね。佐藤さんはお忙しいものね」
篠田は立ち上がり、お盆を抱え直した。しかし、ドアへ向かう直前、ふと足を止めて振り返った。
「そういえば、最近よく電話が鳴るわね。夜中に楽しそうなお喋りが聞こえてくるわ。……誰と、何を話しているの?」
その声には、先ほどまでの穏やかさはなく、冷徹な刃のような鋭さが混じっていた。
「……ただの、友人です」
「ふうん。友人ね」
篠田は、唇を歪めて微笑んだ。
「佐藤さんに変な虫がつかないように、私が守ってあげなくちゃ。だって、私たちはお隣さんなんですもの。ねえ?」
パタン、と静かにドアが閉まった。
昭子は崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。
窓の外、1979年の夜は静まり返っている。
だが、薄い壁一枚を隔てた隣室から、自分をじっと見つめる視線が突き抜けてくるような、逃げ場のない恐怖が、暗闇の中から這い出していた。
不気味な隣人が去った後の静寂の中で、再び電話のベルが鳴った。
昭子は祈るような心地で受話器を取った。
「……もしもし、塔子さん?」
『昭子さん。お疲れ様。……何かあった? 声が少し震えてるみたいだけど』
受話器から流れてくる塔子の声を聞いた瞬間、昭子の胸の奥に溜まっていた冷たい塊が、すうっと溶けていくのがわかった。
39年後の未来にいる、会ったこともない女性。
けれど今、昭子にとって世界で一番信頼できるのは、この電話線の先にいる彼女だった。
「いえ……少し、隣の篠田さんが。……塔子さん、そちらの時代では『プライバシー』という言葉がもっと大切にされているんでしょう?」
『ええ、もちろん。勝手に部屋に入ってくるなんて、今なら警察沙汰よ。昭子さん、やっぱり鍵を替えたほうがいいんじゃない?』
「そうですね……でも、このアパートの大家さんが、昔ながらの人で。お隣さん同士は家族のようなものだって……。1979年の大分は、まだそういう時代なんです」
昭子は苦笑しながら、受話器のコードを指に巻きつけた。
「でも、暗い話はやめましょう。塔子さん、聞いてください。今日、仕事の帰りに『ウォークマン』というものを買ったんです。知っていますか? 青い小さな機械で、外で音楽が聴けるんですよ。まだ出たばかりで、少し高かったけれど」
『ああ、ウォークマン! 懐かしい……いえ、こっちではもう博物館にあるような伝説の機械よ。今はスマホ一台で、何万曲も持ち歩ける時代だけど、当時はそれが革命だったのよね』
「何万曲……! まあ、想像もつかないわ」
昭子は、未来の技術に目を丸くしながらも、手元にある重たいカセットテープの感触を愛おしむように撫でた。
「最近はこれを耳に当てて、サーファー・カットにしている若い子たちを眺めながら歩くのが、なんだか楽しくて。塔子さんに教えてもらった未来を、私だけが少しだけ先取りしているような、そんな贅沢な気分なんです」
『ふふ、昭子さんって意外とミーハーなところがあるのね。……あ、そうだ。昭子さんの持ってるその雑誌の私の写真、変な顔してない? それ、私が一年後に撮るはずの写真だと思うと、なんだか恥ずかしくて』
昭子は机の下から、隠していた『フレン・ドゥ』をそっと取り出した。
「いいえ、とても素敵ですよ。ショートボブがよく似合っていて……自立した、強い女性の目をしてる。私、この写真の塔子さんを見ていると、明日も事務仕事を頑張ろうって思えるんです。……本当よ?」
『……ありがとう。昭子さんにそう言われると、なんだか今の私も救われる気がする。……ねえ、今度、昭子さんの好きな歌、歌ってあげようか? こっちはカラオケボックスっていう、個室で歌える場所があるのよ』
「個室で歌を……? まるで夢のよう。じゃあ、今度ぜひ、塔子さんの歌声を聴かせてください」
二人の会話は、時代を超えて尽きることがなかった。
1979年の昭子は、職場の人間関係や、執拗な隣人の影に怯えながらも、電話を通じて届く「未来の風」に救われていた。
2018年の塔子もまた、孤独な日常の中で、昭子の純粋で凛とした言葉に、忘れていた心の温度を取り戻していた。
「塔子さん。私、いつか本当に……39年後のあなたに、会いに行けるかしら」
『ええ、約束したじゃない。場所はわかってるんだから。……その時は、とびきり美味しいお酒で乾杯しましょう』
「約束ですよ」
昭子は、受話器を耳に押し当てたまま、ゆっくりと目を閉じた。
薄い壁の向こう側、篠田の部屋からは物音一つしない。
しかし、今の昭子には、未来からの確かなエールが届いていた。
39年の歳月など、この一本の細い震える糸の前では、取るに足らない距離のように思えた。




