第四十五話
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八月七日。
東区の中でも中央区に近い、ある一画で、マルク・スペンサーは馬車を降りた。
時刻は明朝五時。
まだ薄暗い夜の気配が街を包んでいる。
同行する警部たちと言葉少なに歩き、民間人の立ち入りを防ぐロープをくぐる。
階段を上がると、階段の途中に"それ"はあった。
まだ若い刑事が息を飲むのを背後に感じながら、マルクはため息を吐く。
「これは、また……」
何とも言い難い光景に、マルクの口は閉じられた。
踊り場に横たわる女性の死体がある。
身体中を数え切れないほどの刺し傷が覆い、そこから溢れた血で汚れた床は、元の色が分からないほど赤黒く染まっている。
着ている衣服はスカートの部分が腰まで捲りあげられ、下半身が露出していた。
「強姦後の殺害ですかね」
見た目から受けた率直な感想を口にすると、傍らの警部は低く唸った。
「分からん。そのように見えるが、下半身の裂傷も激しすぎて断定できん。医師の到着を待つしかないな」
階段の踊り場に、冷たい朝の風が吹く。
東区を横切る川の汚水の匂いと現場の鉄臭い血の匂いが鼻につき、マルクは顔を顰めた。
霧の都の長い夏が、はじまろうとしている。
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赤。
紅、赫、朱、緋――呼び方は何でもいい。
とにかく、赤だ。
べたりと粘度の高い赤色が、真っ白な大理石の床を濡らしている。
窓から差し込む強い日差しに照らされた赤と白のコントラストが目に痛く、――は床に転がる女に目を移した。
女の目は見開かれ、宙を向いたまま微動だにしない。
緩くウェーブした長い髪が床に広がり、血溜まりの中に沈んでいた。
先程まで忙しなく言葉を発していた口は動きを止め、だらしなく開いたそこから舌が垂れ下がっている。
動かない女のそばで、赤い血液だけがじわじわと、意志を持った生き物のように床を這い、その面積を広げていた。
そうか、これだったのか。
と、――は思う。
まるで全身に心臓があるかのように、ドクドクと熱い血液が皮膚の下を巡っていく。
振り返ってみて、もしターニングポイントがあったとしたら、恐らくここだっただろう。
この時踏みとどまれていれば、全ては起こらなかったのかもしれない。
では、もしこの時に戻れたとしたら、自分は違う道を選べただろうか。
――は考える。
否。
考えるまでもないことだ。
例えどの地点に戻ろうとも、自分は同じ決断をしたに違いない。
あるいは決断をした、というのが、そもそも思い上がりなのかもしれない。
これ以外に選びようが無かった――そう言った方が、ずっとしっくりくるのだから。
しかし、どれだけ仕方の無い帰結だったとしても、それを許せるほど、――は狂ってはいなかった。
考え込む――の横で、赤が、床に広がっていく。
――の視界は、赤に染まっていた。
醜い皮膚の下から流れ落ちる赤は、ただ、ただ、自由で――、
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