第四十四話
時計の針が時を刻む音だけが静かな控え室に響く。
誰もいない空間にいると、世界に取り残されたような気持ちになるのは何故だろう。
一呼吸置いて、私は目の前の便箋に触れた。
先程証拠品のピアノ線とともに、地下から回収されたものだ。
相変わらずぐちゃぐちゃした汚い字で書かれた薄汚れた便箋に目を通す。
『悲劇の裏方へ』
『やあ、はじめまして。私はあなたのファンだ。こうしてファンレターを送れて嬉しいよ。舞台に上がらない君にファンだなんておかしなことだけれど、君の悲劇はあまりにも劇的なのだから仕方がない。』
『――しかし、このまま終幕するというのは、あまりに無作法ではないだろうか。
そう、冒涜というものだ、人生という舞台に対しての――。』
それ以降はいつもの通り、トリックの方法が記されている。
『――さて、これは私が考えたこの舞台の脚本の続きなわけだが、なかなか良いエンディングじゃないだろうか。なんと言っても、舞台に復讐はつきものだからね……』
そんな言葉で手紙が締めくくられる。
「……この人は、一体何がしたいのかしら」
無意識に眉間に寄っていた皺を指で解きながら、私はため息を吐く。
「いくつか傾向のようなものは見られるね」
背後からアーロンさんの声が響く。
特等席で見守らせてもらうとか何とか言って、エドマンドさんと話している時からずっと背後に立っていたのだ。
「この手紙の差出人は、宛先の人物に対してひどく同情的な態度をとっている。被害者が悪いのだと、殺害を行う方に正義があるのだと言わんばかりだ」
「自分では手を下さず、自分の尺度で気に入らない人間を殺させているってこと?」
苛立ちも顕に言葉にすると、アーロンさんの方から鼻で笑う音がした。
「話がそう単純ならいいのだけど」
「……どういう意味?」
「隣国で狼男と呼ばれた殺人鬼のジャン少年も、はじめは犬殺しからはじまったそうだよ。そのうち手にかけるものが動物から、人間に変わった」
アーロンさんの言葉を反芻しながら、私は眉間に皺を寄せた。
「犯人の行動は、これからエスカレートする可能性があるってこと?」
「さあね。でも実態人間は欲の方へと流れやすくできている。毎朝早起きしようと思っても、一日サボれば、二日、三日とやらない日が増えるように。一線を超えたあとは、坂を転がるように欲望に引っ張られるものだ」
「欲望に、引っ張られる……」
呟きながら、私は便箋に綴られた字を指でなぞる。
人を唆すことで満足できなくなった犯人は、いずれ誰かをその手で殺すのだろうか。
自分が断罪したいと願う、誰かを。
「私には、分からない」
ぽつりと呟く。
「復讐したいと思う気持ちが。エドマンドさんの気持ちも、真には理解できない。大切な人を殺されるって、どんな気持ちなのかしら。……家族がいたことがないから、理解できないのよね、きっと」
「本当に?」
いつの間にかアーロンさんがそばに来て、私を見下ろしていた。
いつの間に、なんて言葉はアーロンさんの瞳の冷たさにかき消される。
「本当に、君には家族がいたことがないのかな?」
「……何が言いたいの?」
「そのままの意味だよ」
アーロンさんの顔に、いつもの面白がるような笑みは浮かんでいない。
「ルル、君は自分が生まれた時からあの孤児院にいるとでも思っているのかい?」
「そんなわけないじゃない」
「なら、いつ? いつ君はあの孤児院に足を踏み入れた?」
口を開けても言葉が出てこない。
こんな単純な問いに、私は答えられない。
「分からないなら教えてあげよう」
アーロンさんの瞳の奥が揺らぐのを、どこか他人事のように見つめる。
「君があの孤児院に引き取られたのは八歳の時だ。それ以前は、君は両親と一緒に暮らしていたんだよ」
耳の奥に心臓があるかのように、拍動の音がうるさい。
耳鳴りがする、足元が不安定になる。
「ルーシー・アシュフォード」
アーロンさんの声が冷たく響く。
「君は何を見て、何を忘れた。失われた記憶の中で、君は何を守っているんだ」
――
「……そして、オペラ座首切事件は、父親による復讐という結末で幕を閉じたのであった」
……やたらと、私も芝居がかった書き方になってないかしら?
書き終わった日記を眺め、思わず顔を顰める。
あの手紙に影響されたとしたら、あまりにも気分が悪い。
夏といえども夜は肌寒い。
肩にかけたショールの端をいじりながら、私は物思いに耽る。
人は楽な方へと、欲の方へと流れていく。
これからもそういう人が増えていくのだろうか。
それとも……。
窓に不安げな自分の表情が映る。
私もそうなのだろうか。
楽な方に流された結果、私は何か大切なことを忘れたのだろうか。
耳鳴りがするほど静かな空間の中、世界に切り取られたような気持ちで、私は窓の外の闇を見つめていた。
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オペラ座首切事件 fin.




