第四十話
ボックス席を出て、制止する係員の声を振り切って廊下を走る。
階段で一階まで降りて、関係者以外が立ち入らないように張られたロープを飛び越えた。
そのまま走れば、技術通路へと行き着く。
舞台はもうすぐそこだ。
舞台袖から舞台の上へと飛び出した。
刺すようなライトの光に目が眩みそうになりながら、舞台上を見渡す。
舞台の上の者は皆、まだ惚けたように立ち尽くしているか、腰を抜かして座り込んでいる。
床の真ん中に転がるそれに、私はゆっくりと近づいた。
純白のドレスが血を吸って真っ赤に染まっている。
生暖かく粘っこい、錆びたような匂いが鼻の奥にこびり付くように香った。
全てが作り物の舞台の上で見れば何とも現実味のない光景だが、ここまで近づけば間違いようがない。
舞台に転がるそれは、首なしの死体だった。
誰が指示したのか、ゆっくりと幕が下りる。
「"白き谷の歌姫"の舞台は終わった」
硬質な靴音とともに背後から聞こえてくる声に振り返る。
「ここからは君の舞台だよ、名探偵」
芝居がかったキザなセリフも似合う美貌の男は、歌うように告げて微笑んだ。
――
「うわぁ」
ぞろぞろと舞台に入ってきた警官のうち、一人がこちらを見て露骨に嫌そうな顔をする。
「またあなたたちですか。なんだっていうんですか。凶悪事件の現場コレクターか何かなんですか」
「好き好んで来てるわけじゃないわよ」
頬を膨らませると、警官……マルクさんは肩を竦めた。
「だってねぇ、実際のところ遭遇率高すぎなんですよ、おたくら。あれですか? 実は裏で全ての事件の糸を引いていたりとか……」
「するわけないでしょ」
呆れたように返答するも、マルクさんの興味はすぐに私たちから逸れたようだ。
舞台の上で一際存在感を放つそれに、マルクさんは躊躇いもなく近づいていく。
「ご遺体はこれですか。首なし死体とは恐れ入りますね」
平然と屈んで首の切断面を覗き込むマルクさん。
「警察の人って、こういうの見慣れてるの?」
「まさか! 首のない死体なんて、生まれて初めて見ましたよ」
しげしげと眺めていたかと思えば、マルクさんは立ち上がってキョロキョロと辺りを見渡す。
「それで、肝心の首はどこに?」
「あそこよ」
舞台上の昇降機を指さすと、マルクさんは半開きになっていた扉から中を覗き込んだ。
「おお、本当だ」
昇降機の中には生首が側頭部を下にする形で転がっているはずだ。
先程見た光景を思い出して、私は目を逸らす。
見開かれた目から血を流した生首は、そうそう忘れられるものではない。
しばらく夢に見そうだ。
マルクさん以外の警官は淡々と動きつつも、顔色が悪かったり顰め面をしていたりする。
やっぱりこの人、ちょっとずれてるんだわ。
「マルク」
不意に背後から聞こえた声に振り返ると、渋い顔をした年配の警官が立っていた。
ガタイの良い男性で、眉間に深く刻まれた皺は緩みそうにない。
「警部殿」
マルクさんがはっとして立ち上がる。
珍しくしゃんと背筋を伸ばして立つマルクさんを眺めていると、警部と呼ばれた男性の目がこちらを捉えた。
「……なぜ現場に民間人が? 捜査の前に民間人の誘導を行うのは、基本中の基本のはずだが」
「ああ、いえ、そのう……前に話した私立探偵というのが、こちらの二人のことでして」
マルクさんは気まずそうな顔をして、私たちを手で指し示す。
「ほう、ではあなたが?」
男性の視線がアーロンさんの方を向く。
「いえ、私はただの保護者で、探偵は彼女です」
アーロンさんはにこりと微笑んで、私の肩を押した。
「……お嬢さんが?」
複雑な表情を浮かべながら、警部は私をちらりと見た後、アーロンさんに視線を戻す。
「話はマルクから聞いております。先の事件では大変お世話になったと。しかしながら、事件現場に民間人の立ち入りを許すわけにはいきません」
ゴホン、と警部が咳払いをすると、マルクさんは背筋を震わせ縮みあがった。
「マルク、舞台関係者同様、別室にお連れしなさい。立場のあるお方だ、対応を心得るように」
「はい!」
マルクさんは大きく返事をして、軍隊の行進のようなぎこちない歩き方で私たちを舞台から連れ出した。
――
「……何をお調べになったのかは分かりませんが、私はもう子爵家の人間ではありませんよ。ただの参考人として扱ってください」
廊下を歩きながら、アーロンさんがつまらなそうに眉を下げる。
「そういう訳にはいきません。上司の命令ですから」
「私が一人の人として、貴方が私を特別扱いしないことを好ましく思っているとしても?」
アーロンさんの言葉に露骨に媚びるような甘さが滲み出る。
この人、本当こういうことばっかり得意なんだから。
私からすればいつもの甘ったれた態度でしかないのだが、マルクさんには効果てきめんだったようだ。
眉間に皺を寄せて唸ったあと、ため息混じりに口を開く。
「……とにかく、一度別室で待機してください。警部のことは、私が何とかしてみます」
「ありがとう、期待しているよ」
アーロンさんがにこりと微笑むと、マルクさんは私の方を見て恨めしそうな顔をした。
そんな顔をされても、私に責任はない。
私は明後日の方を見て、マルクさんと目を合わせなかった。
――
通されたのは演者用の控え室だった。
先程舞台に出ていた演者たちが勢揃いしている。
特に部屋の隅で呆然としている女性の周りに人が多く集まっていた。
着替えてはいるものの、その髪にはまだ血の汚れがこびりついている。
先程血飛沫をもろに浴びて、いの一番に叫んだ女性だろう。
アーロンさんと目配せして、会話の内容が聞こえるような位置にそれとなく陣取る。
「……やっぱりさ、これってセシリアの……」
「滅多なこと言うもんじゃないわよ!」
「でも……」
呆然と床を見つめる女性を取り巻くうちの一人が何事か言いかけ、もう一人が窘める。
「だってあの舞台で、あのタイミングでなんて偶然が過ぎるわよ。事故なんて言うけど、リハーサルのときだって何も起こらなかったじゃない」
どうやらあの昇降機自体はリハーサルでも使用されていたらしい。
その時は何も起こらなかったとすると、女優の首が切れた理由はなんだろうか。
うぅんと唸ると、アーロンさんが自分の眉間のあたりをトントンと叩いた。
考えすぎて眉間に皺が寄っていたようだ。
「いい加減にしなさいな。捜査は警察の仕事でしょう。ここで私たちがあれこれ言ったって何にもならないんだから」
女性らの会話は、少し年嵩の女性の不機嫌そうな言葉で鳴りを潜めた。
それからはめぼしい会話もなく、ほとんど静寂に近い状態で時間が流れる。
時計の針が一つ進む頃に、ようやく警官が現れた。
これから演者たち一人ひとりに話を聞くらしい。
私たちはどうするのかしらとぼんやり考えていると、マルクさんが顔を出す。
「アーロンさん、それからルーシー嬢。こちらに」
呼び出され、廊下へと向かう。
歩きながら、マルクさんは不満混じりに言葉を紡ぐ。
「いいですか? 警部に頭を下げて、舞台裏までなら見ていいことになりました。でも舞台はダメですから!」
「分かったわよ」
渋々頷く。
と言っても、こんなこともあろうかと、警官が来る前に舞台上はあらかた探っておいた。
怪しいのは昇降機なので、舞台裏を探れるなら上々だ。
まずは舞台袖へと向かう。
こちらは事件にはあまり関係ないと思われているのか、警官の姿がない。
「気になるのは、やっぱり昇降機よね。あれってどうやって動かしているのかしら」
「詳しくは知りませんが、この奥にある階段を降りると奈落と言われる舞台下の空間に繋がっていて、そこで操作しているとか」
「舞台下は行ってもいい?」
私の言葉にマルクさんは低く唸る。
「もちろん大丈夫だろう? 舞台裏の範疇だからね」
追い打ちをかけるようにアーロンさんが続けると、マルクさんはげっそりした顔で肩を落とした。




