第三十九話
二階の階段を上がってすぐ左側のボックス席に案内された。
木製のドアを開くと、中には舞台に向いた椅子の他に、簡易的な荷物置き場が備えられている。
モントローズ伯爵のボックス席は舞台正面より少し斜めに位置していて、劇場全体をよく見渡すことができた。
一階の平土間の座席には既にパラパラと観客の姿がある。
身を乗り出して右手側を見ると、二階から三階を貫くようにして作られた大型のボックス席が目に入る。
モントローズ伯爵が用意したボックス席が五人程度で観劇することを想定したものだとすれば、その大きなボックス席は、ゆうに十人は入れそうな造りになっていた。
「あれってもしかして、王族のための席かしら」
私の言葉に、横に並んだアーロンさんが頷く。
「そうだね。ロイヤルボックス席といって、王族、もしくはそれに類する特別な客のための席だ」
「すごく目立つ席ね」
「この舞台を誰が見に来ているかというのは、そのまま舞台の評価に繋がるからね。あの席もひとつの見世物みたいなものさ」
なるほど、と小さく呟いて、私はロイヤルボックス席を眺める。
まだ誰も座っていないようだが、今日は誰がこの席に座るのだろうか。
平土間の席がほとんど埋まった頃、ロイヤルボックス席に人影が現れた。
着座したのは複数人の男性だった。
知らない顔だが、流石に王族でないことは分かる。
「あれは誰?」
「隣国の要人と外交官だろう。要人の方は流石に知らないが、外交官の方には見覚えがある」
チラチラと盗み見るようにしてロイヤルボックス席を見る私とは対照的に、アーロンさんは堂々とロイヤルボックス席に視線を送った。
周囲を見渡すと、他のボックス席の人たちもロイヤルボックス席を見て、何事か話し合っているのが目に入る。
中にはオペラグラスを使って、堂々と他のボックス席を眺めている者すらいた。
オペラグラスの先を辿れば、若い令嬢の姿がある。
うへえ、と辟易しながら、私は目を逸らした。
やがてオーケストラの演奏とともに、舞台は開幕した。
現れたのは純白のドレスの女優だった。
頬を紅潮させ、誇らしげな様子で彼女は歌う。
白き谷の奥、誰もいない森の中。
私は歌い、祈る。
誰の耳に届かないとしても――
白き谷の奥深くに住む善良な少女は傷ついた兵士と出会う。
少女は毎日兵士の手当をし、彼の傷が治るよう神に祈りの歌を捧げる。
やがて傷が治った兵士は、彼女に必ず礼をすると誓い、王城へと戻る。
帰還した兵士を、城中の者が泣いて歓迎する。
実は兵士は身分を隠した王子であった――というところで、第一幕は閉幕した。
他の観客席からの盛大な拍手に負けないように手を叩きながら、私は横に座るアーロンさんを見上げる。
「オペラって初めて観たけど、面白いわ! 同じ物語でも、本とは別の楽しみ方ができるわね」
私の言葉にアーロンさんが目を細める。
涼やかな漆黒の瞳が柔らかくなった。
「伯爵のようにボックス席とはいかないけれど、また面白そうな公演があれば来ようか」
「ええ!」
頷くと、アーロンさんは目を細めたまま立ち上がった。
「飲み物と、軽い食事でも持ってこよう。ご希望は?」
「そうね、シャンパンでもいただこうかしら」
澄まして答えると、アーロンさんは声を上げて笑った。
「場の空気に飲まれて背伸びするのはいただけないね」
「してないもーん」
つんとそっぽを向くと、はいはいとおざなりに答えて、アーロンさんが背後の扉から出ていく音がする。
一つ伸びをしてから、改めて舞台に視線を向ける。
ここからだと距離は離れているが、余すところなく舞台上を観察することができる。
舞台の床にはいくつかの仕組みがあるようだ。
大きく回転したり、舞台の一部の床板を剥がすと、下から仕掛けがせり上ってきたりする装置が仕組まれているらしい。
どんな構造になっているか気になるところだが、流石に行って見せてもらうわけにはいかないだろう。
今度伯爵のツテで見学させてもらえないか聞いてみようかしら。
そんなことを考えているとトイレに行きたくなってきた。
ボックス席を出て、近くにいた係員に声をかけると、すぐに御手洗まで案内してくれる。
道中何人かのご婦人やご令嬢のグループとすれ違ったが、皆一様にこちらを見てひそひそと噂話に興じていた。
家出した元貴族とその養女のペアが、モントローズ伯爵のボックス席で観劇しているのだ。
噂話もたいそう盛り上がるのだろう。
お手洗いを出る頃には、第二幕が開幕しようとしていた。
まだバラバラと廊下に残る客を、係員が誘導している。
誰もが忙しそうで、声をかけづらい。
一人で席に戻ろうにも、ぐるりと馬の蹄のような形をした劇場の構造と、同じ造りをしたドアのせいで、モントローズ伯爵のボックス席がどれか判別できなかった。
辺りをキョロキョロと見渡しながら歩いていると、不意に近くのボックス席の会話が耳に入る。
「聞いた? 前の主演女優の話……」
「ああ、あの……自殺したんだって?」
「公爵がいらした公演で、大失態を犯したとか……」
下世話な噂話に顔を顰める。
どうにも貴族という肩書きの人たちは噂話が好きなようだ。
人の粗を探していると、自分が立派になれたような気持ちになるのだろうか。
などと胸中で文句を言っているうちに、モントローズ伯爵のボックス席へと戻ってきた。
扉を開けると、先に戻っていたアーロンさんがこちらを振り返る。
「遅かったね。ちょうど今しがた開幕したところだよ」
慌てて座席に座り、舞台を見下ろす。
ちょうど回転床の仕掛けとともに主役が姿を表すところだった。
テーブルに置かれたシャンパングラスを手に取り、一口飲んでみる。
レモネードだ。
横目で睨むと、隣の美丈夫は声を殺して笑った。
第二幕は王子が白き谷を探すところから始まった。
道中には恐ろしい山賊や、霧から現れる怪異が行く手を阻む。
しかし王子は難なくそれらを撃退し、歌声を頼りについに少女と再会を果たす。
王子は誓いの通り、少女に礼をするため王城へと招待する――
そこで一度舞台の照明が落ちた。
薄暗闇の中、役者たちが舞台袖にはけていくのがぼんやり見える。
テーブルに置かれた一口サイズのケーキを食べながら、場面転換を待つ。
数十秒後に再び舞台が照らし出された。
王城を表現するための煌びやかな書き割りの前で、役者たちが今か今かと少女の登場を待つ。
舞台中央の床板を外した穴から、四角い箱のようなものがゆっくりとせり上がってきた。
人ひとりは入れる大きさだ。
針金状の網で出来た壁は目が細かく、中が見えなくなっている。
きっとあの中から主役が登場するのだろう。
使用人役の男性が恭しくお辞儀し、箱の正面の閂を外し、扉を開く。
どさり。
箱の中のものが重たい音を立てて倒れる。
その衝撃とともに赤い飛沫が舞台の床を濡らした。
どろりとしたそれは、倒れた物体から溢れ、舞台の床にじわじわと広がっていく。
静寂。
誰も口を開かなかった。
倒れたそれが何かを即座に理解できるものが、誰もいなかったのだ。
観客は皆、それを舞台の演出だと思ったに違いない。
現に私もそう思っていた。
真っ赤な飛沫を浴びた役者のひとりが、耳をつんざくような悲鳴をあげるまでは。
「いやぁぁぁああああああ!!!」
扉の手前に立っていた女性は、自らの手についた真っ赤な液体を見て、次いで床に倒れたものを見て、文字通り絶叫した。
その動揺は次第に伝播して、劇場内を悲鳴が包む。
平土間の観客達が我先にと席を立ち、扉へと向かうのが見えた。
舞台にいる者は呆然と立ち尽くし、床に倒れたそれを見つめている。
「え……嘘……本当に……?」
「演出とかじゃないの……?」
ボックス席からは困惑したような声が上がる。
この位置からでは遠すぎて、何が起こったのか正確に把握できない。
「アーロンさん」
名前を呼ぶと、アーロンさんは頷いた。




