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第十八話

 小雨が窓を濡らしている。


 近頃ようやく春らしい暖かな陽気になってきた。

 小雨と柔らかい晴れ間を繰り返す春特有の不安定な気候が、植物をどんどん芽吹かせている。


 淡い新緑と花壇に咲いたチューリップが雨に濡れるのを眺めながら、私は微睡んでいた。

 午睡の誘惑に負けまいと欠伸を咬み殺しつつ、手元の手紙を引き寄せる。


 手紙。


 記憶に新しい二件の事件では血なまぐさい意味を持ったそれだが、今手にしているのはそういった類のものではない。

 差出人の名前はしっかりと、それでいて特有の丸みを帯びた字で綴られている。


『ベアトリス』


 懐かしい名前を指でなぞると、つい口元が緩んでしまう。

 その名前は、私が育った孤児院を運営しているシスターのものだ。


 聖ジュード修道孤児院。

 修道院と併設して建てられたこの孤児院で、私は幼少期から十六歳までを過ごした。


 孤児院の運営は厳しいものだったと思うが、ベアトリスはいつも知恵と愛情をもって私たちを育ててくれた。

 母代わり、と呼ぶには歳が離れすぎているが、両親の顔も名前も知らない私にとっては、幼少期に求める愛情の全てを注いでくれた大切な人である。


 彼女の手紙は丁寧な季節の挨拶からはじまり、もうすぐイースターであること、今年も孤児院でイースターのお祝いをすることが記されていた。


 ――久しぶりに、あなたの元気な顔が見たいです。良ければ養父の方にも、改めてご挨拶させてください。


 という言葉で、手紙は締めくくられている。


「イースターのお祝いかぁ……」


 眠気に抗うように何度も瞬きしながら、私は過去に思いを馳せた。

 友人たちと聖歌を歌い、ご馳走を食べ、エッグハントをして遊んだ思い出の日々……。


 コンコン、と控えめなノックの音で現実に引き戻され、私は扉に目を向ける。


「はぁい」


 返事をすると、躊躇いなくドアが開かれた。


「やあルル、少しいいかな」


 現れた見慣れた美貌に、ついため息が出る。


「なんだ、アーロンさんか」


「おや、私じゃ不満かな?」


 形の良い薄い唇が意地悪く吊り上がる。


「不満ってほどでもないけど……お客さんかと思うじゃない」


「君のところに? まさかぁ」


 心底おかしいとでも言うように笑うアーロンさんを、むっとして睨みつける。


「これでも、殺人事件を二件も解決した探偵なんだけど?」


「うんうん。そういうセリフは一人で解決できてから言うものだよ」


 そう言って、アーロンさんは腕を組んで目を細めた。


 ぐうの音も出ず、私は閉口する。

 確かにこれまでの事件を振り返って、アーロンさんの手助け無しに自力で解決したと胸を張って言える事件はひとつもない。


「それで、何の用なの」


 憮然とした態度で話を変えると、アーロンさんはくすくす笑ったあと首を傾げた。


「朝言ってたあれ、やっぱり私も行こうかな」


「本当!?」


 その言葉に勢いよく立ち上がる。

 勢い余って背後で椅子が倒れ、大きな音を立てた。


「少し落ち着きなさい」


 アーロンさんは呆れたように言うが、これが落ち着いてはいられない。


 あれ、と言って、今の状況で意味する言葉はひとつしかない。

 ベアトリスから招待されたイースターのお祝いのことだ。


「せっかくお呼ばれいただいたからね。わざわざイースターの日に髪を切りに来るような物好きもいないだろうから、仕事も都合がつく」


 倒れた椅子を直す私を眺めながら、アーロンさんは肩を竦める。


「絶対ベアトリスも喜ぶわ!」


 嬉しさに小躍りしそうな心境で、私は机の上の手紙に目を落とす。

 真っ白な便箋の上に、窓を伝う雨の雫の影が落ち、生き物のように蠢いた。


 ――


 きたるイースターの日。


 もう何度目になるか分からないほど覗き見た姿見をもう一度覗き込み、自分の頭の先からつま先までじっくりと観察する。

 皺のないオフホワイトのワンピース、寝癖のない髪、汚れのない靴。


 完璧だ。


 一点の曇りもない淑女に仕上がった私は、鏡の前で胸を張る。

 孤児院時代に服を泥だらけにして怒られていた少女とは思えない。


 きっとベアトリスもびっくりするに違いないわね、とほくそ笑む。

 まだ孤児院を出て二ヶ月程だが、今日はうんと成長した姿を見せて、ベアトリスを驚かせてやるのだ。


 コンコン、とノックの音が響く。

 返事を待たずにドアが開けられた。


「おや、もう準備万端だね」


 そんなことを言いながら、アーロンさんが部屋に入ってくる。


「どう? どこからどう見てもお淑やかなお嬢さんじゃない?」


「そうだね。うっかり転んで泥まみれにでもならない限りはね」


 わざと意地悪なことを言うアーロンさんをじとりと睨みつけてから、私はお土産の入った紙袋を抱え上げた。


「もう出発でしょう?」


「ああ」


 私の言葉に軽く頷いて、アーロンさんはさりげなく私の手から紙袋を預かる。

 手馴れた仕草がいかにもモテる紳士然としている。


「それじゃあ、行こうか」


 心做しか上機嫌なアーロンさんに連れられ、私は部屋を後にした。


 ――


 馬車は川沿いを北東に進んでいる。

 孤児院からアーロンさんの家へ向かった時とは逆走するルートだ。


 しかし懐かしさに浸る余裕もない。

 かれこれ一時間ほど馬車に揺られっぱなしで、そろそろお尻が痛くなってきた。

 腰を伸ばすために革張りの座席の上でエビのように反る私を、アーロンさんが怪訝な目で見つめる。


「確認だけど、悪魔に取り憑かれたわけではないよね?」


「そんなわけないでしょう」


 剣呑に言葉を返しながら、椅子に座り直す。


 確かに今のは淑女としてあるまじき行為だった。

 密かに反省しながら、窓の外に目を向ける。


 霧の中、燻んだ赤茶色の煉瓦造りのテナメントハウスがいくつも立ち並ぶ住宅街が目に映った。

 道端では痩せた子供たちが裸足で駆け回り、酔っ払っている風の男性が地面で寝こけている。

 あちらこちらの窓から紐が貼られ、無造作に干された洗濯物が風に揺れているのがぼんやりと見える。


 東区。

 この街で最も治安の悪い地域で、私が生まれ育った孤児院があるところでもある。


 私には馴染みのある景色だが、元貴族のアーロンさんの目にはどう映っているのだろう。

 気になってチラリとアーロンさんの顔を盗み見て、私は目を見開いた。


 今まで見たことがないほど冷たい瞳で、アーロンさんが外を見つめている。

 冷えきった黒の瞳は黒曜石のようで、迂闊に触れれば怪我をしそうだ。


 声をかけるのもはばかられて閉口していると、私の視線に気づいたアーロンさんがこちらを向く。


「どうかしたかい?」


 私と視線を合わせると、途端にアーロンさんの瞳が柔らかくなった。


「ううん、何でもない……」


 小さな声で答えて、私は窓に視線を戻す。


 窓の外の風景はますます見慣れたものになっていた。

 もう間もなくすれば、東区の外れ……聖ジュード修道孤児院に到着するだろう。


 懐かしいはずの道なのに、テナメントハウスの影に隠された暗闇が、どうしてか今はひどく恐ろしかった。

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