第十話
遠くから響く鈍い鐘の音に意識が覚醒していく。
微睡みの中、最初に感じたのはひんやりと冷たい空気と、対照的に暖かい布団の中の温度だった。
私は、ずり落ちた毛布を首元まで上げて、しばしの間布団の温もりを楽しんでいる。
そうこうしているうちに、動き始めた街の喧騒が耳に忍び寄ってきた。
馬車のタイヤと蹄が道路と奏でる硬い音に、行き交う人々の朝の挨拶。
ぐっと伸びをして布団から抜け出し、窓を開ける。
途端に、部屋の空気よりも更に冷たい風に頬を撫でられ、思わず身震いした。
春になっても、朝の風はまだまだ冬の気配がする。
霧と煤でほのかに霞んだ街並みからは、石炭の匂いと焼きたてのパンの香りが漂ってきた。
窓を開けたままベッドに腰掛け、一つ欠伸をしてから思案する。
美食家殺人事件と名付けた先日の事件から一週間がたった。
事件を解決しても、私の生活に劇的な変化は無い。
日がな一日、本を読んだり散歩したりして時間を潰している。
当然ながら探偵の仕事はない。
それはもう、悲しいほどないのだ。
事件を一つ解決したとて、結局は犯人による自供としか報道されないのだから、仕事が増えるはずもない。
つまりは、ずっと暇を持て余している。
「今日は何をしようかしら……」
ぼんやりと天井を眺める。
アーロンさんに引き取られてからずっとこんな生活を繰り返している。
何か役に立てないかと家事を担当することを申し出たこともあったが、一度料理に挑戦してキッチンを惨劇の舞台にした日から、アーロンさんに一切何もするなと言いつけられてしまった。
せめてこの件についてアーロンさんの小言の一つでもあれば気が楽なのだが、こういう時に限ってあの意地悪な美丈夫は文句を言わない。
ただ意地の悪い笑みを薄らと浮かべて、
「君がこの街で一番の名探偵になってくれれば、それで満足だよ」
などと、無理難題を宣う。
「一番って、何をもってして一番なのよ」
ぶつぶつと小言を呟いているうちに、階下から紅茶の香りが漂ってきた。
アーロンさんが淹れる朝の紅茶の香りだ。
私の分はいつも通り、砂糖とミルクをたっぷり入れたロイヤルミルクティーにしてくれているに違いない。
ぐうと鳴ったお腹を擦りながら、私は考え事など忘れて階下へと向かった。
――
「中央広場の方に、移動式のフリークショーが来ているそうだよ」
口に入れた瞬間に卵がじゅわっと蕩けるふわふわのオムレツや、黄金色に輝くバターをたっぷり塗ったほかほかのパンにかぶりついている私に、不意にアーロンさんがそんなことを言った。
「ふひーふほー?」
咀嚼しながら聞き返すと、アーロンさんは眉間に皺を寄せる。
「口に何か入れたまま話すのはよしなさい」
慌てて飲み込むと、アーロンさんは待っていたように話し始めた。
「フリークショーというのは、サーカスみたいなものだよ。生まれつき特異な体質を持つ人間がショーをするんだ。異食の者とか、双頭の者とか、あと人魚とかね」
「人魚って実在するの?」
問いかけながら、私の頭にアンデルセンの人魚姫のお話が浮かぶ。
親切な誰かが孤児院に寄付してくれた本の中に、アンデルセンの人魚姫があった。
内容は共感しかねるものだったが、あれは一途な愛情や信心深い姿勢を称えるものなのだと、孤児院を運営していた老齢のシスターが教えてくれた。
シスターは厳しい運営状況の中でも子供達への教育を怠らない人だった。
本以外にも、学者先生を連れてきて難しい学問の話をさせたり、マジックランタンのショーを見せてくれたりと、貴重な経験をいくつもさせてくれたものである。
「さあね。先天的、あるいは病気で皮膚が鱗のように見える人をそう呼んでるだけかも知れない」
自分から話を切り出したくせに、アーロンさんは興味も無さそうに紅茶のカップを傾ける。
「アーロンさんはフリークショー、見たことがあるの?」
重ねて問いかけると、アーロンさんは少し遠い目をした。
「ああ、まあ……物珍しさというか、人生経験の一環としてね」
アーロンさんは窓の外に視線を向け、ますます遠くを見るように目を細める。
「あれを面白いと思うかは、個人の感性に委ねられるだろうね。興味もないサロンに強引に呼ばれて、聞きたくもないゴシップを聞くよりはずっとマシな娯楽だけれども」
大きく一つため息を吐いて、アーロンさんは気を取り直すようにこちらに向き直った。
「興味があるなら行ってみようか」
「いいの? お店は?」
「ショーが始まるのは夜だから問題ないよ」
アーロンさんは時計をチラリと確認する。
「そうだね、夕食後に行こうか」
「はぁい」
気の抜けた返事をしながらも、私は胸を弾ませていた。
実在の人魚姫、一体どんな姿をしているのかしら。




