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ゲルイーター  作者: 禍福
エピソードⅠ 秘密
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7話 片瀬と桐村

 階段を、五人は静かに上っていた。

 先頭を歩くのは片瀬と剣崎。その後ろに藍川、桐村、最後尾に天沢が続く。


 桐村の視線。

 それは、前を歩く藍川の背中へ吸い寄せられていた。


 彼女のストレートヘアの先端が淡く揺れるたびに、胸の奥がざわめく。

 触れたい、撫でたい。

 日常で、こんなに近くで歩けるチャンスはなかった。この混乱の中であれば、自分のものにできるかもしれない。そんな歪んだ欲求が、理性の鎖を緩めていた。


 桐村は自分を有能だと思っている。

 俺は頭が回る。こんな場面こそ計算高く振る舞える。誰よりも早く安全を確保する方法を思いつける。なぜなら俺は特別だから……本気で、そう思っている。

 しかし現実は異なる。彼は凡人で、思考は渋滞していた。


 彼は口下手だ。その自覚はあった。

 営業成績なら語れる。会社の愚痴ならいくらでも出てくる。だが、笑わせる冗談も、自然に気遣う言葉も、どうすればいいのかわからない。だから代わりに覚えた。他人を見下し、自分を大きく見せる術を。


 そうすれば優位に立てる。見下されずに済む。

 けれど、その方法では誰も心を開いてくれない。

 そのことも気付いている。だから苦しい。


 どうして自分は片瀬のように人を気遣えないのか。

 どうして藍川のように、恐怖の中でも自分を貫けないのか。

 答えは見つからない。高すぎる自尊心が、その問いから目を逸らさせていた。


 藍川は、前を見て歩いている。

 視線の先には、いつも片瀬がいる。

 いつも。いつだって。

 決して、自分ではない。

 その現実が、胸の奥を焼くように痛んだ。


「おい……藍川」


 歩幅を少しだけ広げる。藍川と肩が並ぶ。

 距離はたったの三十センチ。

 彼女の整った鼻筋から顎にかけてのラインがすぐそこにある。

 非常時の緊張が、抱き締めたいという淫らな興奮と混ざり合う。

 指先でネクタイを整える仕草など、所詮は上辺を繕った演技にすぎない。


「あの刑事さんとは、知り合いなのか」

「はい。父の古くからの友人で、幼いころから知っているんです。父は長野県警の刑事でしたから」

「長野?あの刑事さん、わざわざ長野から来てたのか?」


 これまで桐村は、藍川とプライベートな話をする機会があまりなかった。

 この稀有な機会を利用して、自分になびかせたかった。


「あ、違います。剣崎さんは数年前に配属が都内に移ったんです」

「へぇー……」


 会話はそこで終わった。

 続けたい。もっと話したい。

 何か言わなければ。

 なのに、言葉が続かない。

 相手と会話を楽しむ方法だけは、どうしても分からなかった。


「あっ!」


 急に発せられた声に、桐村の肩がびくっと跳ねる。

 声の主は、背後にいた天沢だった。


「藍川さん!昨夜の居酒屋で片瀬君と一緒にいたよな。まさか同じ会社の人だったとは。俺のこと覚えてる?」

「もちろんです。片瀬さんと、すごく楽しそうにお話しされてましたよね」


 天沢は照れくさそうに頭をかいた。


「いやぁ……ちょっと熱くなりすぎたかなって反省しててさ」


 苦笑しながら桐村へ目を向ける。


(こいつは、藍川さんを強引に連れ出そうとしていた男だな)


 天沢には猪突猛進なところはある。

 それでも三十代後半という年齢と、テレビ業界の経験から人付き合いにおける適切な距離感は心得ていた。

 桐村は確かにストーカーのような行為をしていたが、ついさっき二人は普通に会話はしていた。なので自分がとやかく詮索するべきではないと、その話題を避ける選択をとった。


「そういや、さっき四階でいち早く異常に気付いたんだって?さすが刑事の娘さん、素晴らしい直観だな」

「いえ、たまたま外が気になっただけで、ただの偶然ですよ」


 天沢と藍川の弾むような会話。

 それは桐村にとって、自分にはできない自然なやりとり。

 まるで見知らぬ言語で話されているような疎外感があった。

 しかし、天沢が「刑事の娘」と言った瞬間に、頭の中で火花が散る。


(使える。これは確実に使えるネタだ!)


 彼女の注意を引ける。

 同時に、厄介者の片瀬を貶めれる。

 絶好の材料が手に入った。

 胸に高鳴る快感。

 優位に立つことへの飢えが、興奮へと昇華した。


「なあ、藍川。あの刑事さんが片瀬を任意同行させようとしてたのは、知っているか?」


 藍川が驚いたように振り向く。


(やったぞ!藍川が俺を見た)


 目が合った。

 それだけでゾクゾクするような快感があった。

 片瀬の評価を下げれば、相対的に自分の評価が高まる。そう目論んだのだ。しかし。


「余計な話をするな」


 剣崎に制された。

 だが意中の女の前で怯むわけにはいかない。


「ただ事実を話したまでですよ。実際に刑事さんは片瀬を……」

「しつこいぞ」


 怒鳴ったわけではない。

 しかしその重低音は反論を許さない。

 ベテラン刑事の押しつぶすような威圧があった。

 桐村は逆らえなかった。

 それは一般人であれば誰であっても同じ、それほどの重みがあった。


 場は、水を打ったように静まり返る。


 失敗した。思うようにいかなかった。

 藍川の視線は桐村を通り過ぎ、遠くの片瀬の背中へと戻っていった。


 また。

 また片瀬だ。

 藍川の目はいつも片瀬ばかりに向く。

 自分には向かない。主役にはなれない。いつも脇役。

 会話の中心から滑り落ちていく。

 この繰り返しが、自分を無価値な存在だと証明しているようだった。


(俺を見ろ)


 切実な叫び。

 そんな想いは藍川に届くはずもなく、頭蓋骨の内側にこだましている。


「……行きましょうか」


 穏やかな声。

 沈黙を破ったのは片瀬だった。

 その一言で、止まっていた一同の足が再び動き始めた。


 片瀬は自分を責めていた。

 彼は、過剰なほどに責任感が強い。

 些細なことでも自身を責める傾向がある。

 自分が警察に不審がられたせいで、周囲にぎこちない空気を生んでしまった。

 そんな風にさえも考えていた。


 隠し持つ能力のせいで、周りに迷惑をかけるかもしれない。

 常々、そんな不安が付きまとうからだった。


 片瀬と桐村。

 二人は、相反する価値観を持っている。

 桐村は自分を尊重すれば、他人からも尊重されると思っている。自信ある振る舞いこそが、価値ある人間として認められると信じている。


 片瀬は違う。

 他人を尊重するという土台がなければ、自分自身のことを認められない。一種の脅迫観念が根底にあった。


 この違いに、正解はない。

 ただその答えに向き合い、受け入れて行くのは二人自身だ。


 誰かを守ろうとして、自分を責める。

 自分を守ろうとして、誰かを傷つける。

 二人は同じ階段を上っていても、歩く先は、まるで違っていた。




 五階に到着した。

 片瀬が指差す。


「あそこが社長室です。中に一番大きな窓があります。そこから外の状況を確認しましょう」


 誰も返事をしない。十数歩。それだけの距離が、ひどく長く感じられた。

 社長室の前へ立つ。

 ドアノブに触れ、蝶番のきしむ音で全員の動作が止まる。

 ゆっくりと、ドアを押し開けた。


 五人は一斉に息を呑む。

 窓の外。

 そこにあったのは。

 日常から乖離した。

 絶望の世界だった。

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