6話 生存者達
正面玄関の二重ドア。
屋内側の観音扉も施錠し終えた片瀬は、冷たい壁に背を預けていた。
心臓の鼓動が止まらない。全速力で走ったかのような息切れもある。ガラスのドアを隔てた死との狭間。恐怖が追い立て、膝は痙攣していた。
外では建物を猛烈な破壊音が絶え間なく続く。対照的にロビー内は静かだ。
非常灯の光が断続的に閃き、観葉植物の鉢からこぼれた土が大理石の床を汚し、底知れぬ不安を蜜のような重さで満たしていた。
『繰り返します。ただいまより避難を開始してください。屋外の来客用駐車場へ』
再開された放送が、薄紙のような静粛を打ち破った。
停電していても、非常電源は生きていたらしい。
片瀬は、はっと顔を上げた。
まだ震えの止まらない膝を軽く叩き、自分を奮い立たせる。
(……まずい)
この放送を聞けば、まだ上の階に残っている人たちが外へ避難してしまう。
それだけは止めなければならない。
恐怖は消えていない。今すぐここから逃げ出したい気持ちもある。
それでも、自分が動かなければ誰かが死ぬ。
その思いだけが、震える足を前へ押し、受付の奥にある放送室へ向かって走り出させた。
「待ってくれ!」
天沢が泣きそうな声で後を追おうとしたが、片瀬は振り返らない。
「ここで見張りをお願いします!」
短く言い残し、そのまま駆けていく。
剣崎はまだ玄関の向こうを見つめていた。田辺が消えた場所から、一度も視線を動かしていない。ベテラン刑事でさえ、この非現実を受け止め切れずにいた。
◇
放送室を照らす光は、非常灯だけ。
その片隅で、受付担当の小野美咲が立ち尽くしている。
営業職とは違い、受付には制服がある。胸元のリボンは曲がり、マスク越しに覗く大きな瞳は不安に揺れていた。両手で抱えたマニュアル帳は、小刻みに震えている。
「小野さん、大丈夫ですか?」
怖がらせないよう、片瀬は膝をつき、目線を合わせた。
「片瀬さん……あ、あのっマニュアルでは放送担当は最後まで残る決まりで」
「状況が変わりました。続きは私がやります」
小野は両手でマニュアル帳を抱え込んだままだった。逃げたい。けれど持ち場を離れたら責められる。その二つの恐怖の間で、唇が震えていた。
「マイクを貸してもらえますか」
小野が感じている恐怖は地震のような揺れからの、停電と破壊音のみ。それでも十分に恐るべき事態だった。
片瀬の声や仕草は優しく、凍えた心にそっと触れる湯たんぽのようだった。
すると保護願望を抱き、守ってもらえると安心した。
『緊急放送です。屋外は危険です。外には出ず、全員ロビーに集合してください。繰り返します――』
片瀬はマイクに向かって力強い声を出した。
三度同じ内容を放送すると、すぐにマイクを置く。
「小野さん。まずはロビーへ行ってください」
「……はい」
返事を聞くや否や、片瀬は走り出した。
ロビーへ戻ると、そのまま窓際へ向かう。
ブラインドの紐を掴み、一気に引いた。
カラカラカラ――。
羽根が降り、外の景色を少しずつ隠していく。外から中を見られないように。何よりも、あの惨劇を、これ以上誰にも見せたくなかった。
「手伝う」
低い声が背後から聞こえた。
剣崎だった。
まだ顔色は悪い。田辺を失った衝撃は隠しきれていない。それでも刑事としての本能が、少しずつ思考を現実へ引き戻し始めていた。
二人はロビーのブラインドを一枚ずつ閉めていく。
細く残っていた隙間も丁寧に調整し、外から中の様子が見えないよう羽根を揃えていく。
ロビーはさらに薄暗くなった。
「――片瀬さん!」
ここで階段から聞き覚えのある声。
片瀬は一瞬、呼吸を止めた。
この声は藍川だ。
胸の奥から熱いものがこみ上げ、知らずに握り締めていた拳が緩む。
(生きていた……良かった)
ストレートヘアを汗で額に貼りつけた藍川が息を切らせ、階段から降りてくる。彼女の後ろには、営業部長の権藤正男、課長の世古浩二、そして、桐村康の姿もあった。
「すみません」
息を整えながら藍川が言う。
「避難するのが遅れました。四階の北側の窓から、何か変なものが見えて……」
まだ息は乱れていた。それでも言葉は切らさない。
「最初は見間違いかと思ったんです。でも、どうしても嫌な感じがして……部長たちにも、一度様子を見ませんかって……」
「ったく!」
権藤が苛立たしげに吐き捨てる。
「非常時に小娘の戯言へ付き合わされる、こっちの身にもなってみろ!」
額へ脂汗を浮かべ、乱れた呼吸を整えながら睨みつける。
いつもは女性社員に近づいて卑猥な距離感を楽しむのだが、今はただ、駆け足で階段を使わされた苛立ちをぶつけていた。
「部長のおっしゃる通りです!藍川君の軽率な判断で我々の避難が遅れるなど、本来あってはならないことですよ!」
世古は権藤へ同調する。しかし藍川は反論しなかった。怖くないわけではない。それでも、自分が感じた違和感だけは間違っていなかったと信じていたからだ。
「一九ちゃんか」
ふいに掛けられた剣崎の親し気な呼び声。
藍川一九は驚いた表情で振り向く。
「え?おじさん!?どうしてここに?」
「ちょっとな」
短いやり取り。それだけで二人が近しい間柄であることが伺い知れた。
だが剣崎は再会に和むよりも、片瀬の動向が気になって仕方がない。
(こいつ、さっきはなぜ外が危険だと知っていた?)
直感にしては、迷いがなさすぎる。刑事としての嗅覚が、きな臭さを感じていた。
「あの……」
遠慮がちな声。
小野だった。
皆の表情を恐る恐る見回しながら、小さく尋ねる。
「外は……そんなに危険なんですか?」
ここで一度、剣崎が場を整えるように咳払いし、警察手帳を示して重々しく告げる。
「刑事の剣崎だ。結論だけ言う。外には正体不明の生物がいる。外に出れば、死ぬ」
「なにを曖昧な!正体不明の生物だと!?もっと具体的に説明しろ!この状況でそんな抽象論を並べられてたまるかっ!」
権藤に詰め寄られた剣崎はブラインドの紐を掴み、わずかに引き上げる――カラリ、と軽い音がして、ブラインドが腰元くらいの高さまで捲り上がった。
「見ろ」
一同が身を屈め、外を覗き見る。
向かいのビルの外壁を、巨大な半透明の生物が這い上がっていた。
頭部らしきものはない。目も、口も見当たらない。それでも、生き物であることだけは理解した。
幾本もの触手が壁面へ吸い付き、伸びるたびに粘液が糸を引く。
その巨体は、ビル三階ほどの高さにまで達していた。
誰もが息をすることすら忘れる。
ソレは、路上に散らばる肉片に触手を伸ばしていた。
赤黒い水溜まりの中に転がるそれは、人間の成れの果て。
認めたくても、一目で分かった。
「あ、あれは……人間、ですよね?」
小野はその場にへたり込む。
ぎゅっと目を閉じた。見なければ現実ではない。そんな幼い願いに縋る。
権藤も言葉を失う。
唇だけが「まさか……」と繰り返す。それしかできなかった。
誰よりも崩れたのが世古だった。
乱れた髪から頭皮が露わになっても構わない。膝を折って「嘘だ……こんなの嘘だ……目を覚ませ……目を覚ませ」と現実から逃げていた。
「刑事さん!あれは何なんだよ!?警察だろ、あんたが何とかしろよ!」
桐村はパニックに陥っていた。
理性の糸が切れかかっている。
普段の計算高さは消え失せて、剣崎の胸ぐらを掴もうと手を伸ばす。
「落ち着け!」
剣崎はその腕を払いのける。
「半透明のゼリー状の生命体だ。それ以上のことは俺にも分からん」
そこで藍川が口を開く。
「私も……四階から少しだけ見ました。」
皆の視線が集まる。
「クラゲみたいな、でも明らかに私たちが知っている生き物じゃない。そんなのがどんどん増えていって、それで部長たちを引き止めたんですが、すぐ粉塵で視界が悪くなってしまって」
藍川が避難が遅れた理由を説明する。
それに、剣崎も合わせる。
「そいつらは触れたものを飲み込んで消す。俺が分かっているのは、それだけだ」
「それだけで済むか!」
権藤が怒鳴った。怒りというより、恐怖の行き場を失っていた。
「お前らの仕事はなんだ!警察なら責任もって何とかしろ!」
「部長!今は誰かを責めている場合じゃありません!」
藍川が割って入る。いつになく強い声だった。
権藤は睨みつける。
「何だと?」
「ここにいる誰も、この状況を予想できませんでした。だから今は、生き残ることを考えましょう」
声は震えていた。それでも、目は逸らさなかった。
責任を誰かへ押し付けようとする権藤。
現実から目を背け続ける世古。
恐怖で暴走しかける桐村。
理解が追いつかない天沢。
平静を保とうと努める剣崎。
震えながらも踏みとどまる藍川。
守られることしか考えられない小野。
それぞれの恐怖が、それぞれ違う形となって表れていた。
その様子を見渡しながら、片瀬だけは別のことを考えていた。
(まずは情報だ)
何が起きているのか。敵は何なのか。どこまで広がっているのか。何も分からないままでは動けない。
「一つ、提案があります。見晴らしのいい最上階へ行きませんか。社長室の窓からなら、街全体の様子が見えるはずです」
静かな声だった。
この提案に、まだ冷静さを欠く権藤が文句をつける。
「バカが!停電でエレベーターは使えんのだぞ!さっき降りてきたばかりで、また階段を使わす気か!」
「まったくですよ」
肥満体の権藤にとって、階段の昇降は苦痛でしかない。それに世古が同調した。
「……いや。一理ある。情報がなければ、この先どう動くかも決められん」
剣崎が口を開く。全員が振り向く。
そのまま周囲を見回し、視線は酷く怯えている小野で止まった。
「君はここへ残れ」
小野はびくりと肩を震わせた。
「今は無理に動かないで良い」
「……は、はい。」
小さく頷く。
剣崎は続けた。
「行くのは俺と片瀬、天沢、それから、一九ちゃん」
最後に桐村を見る。
「……そこの君も来てくれ」
桐村は戸惑ったものの、小さく頷いた。
誰も異論は挟まなかった。それぞれ黙って頷く。非常灯に照らされた階段は薄暗く、上階へ続く踊り場は闇の中へ吸い込まれているようだった。
誰も口を開かない。靴音だけが静かなビルに規則正しく響く。
五人は一段ずつ、最上階へと向かった。




