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膠喰体《ゲルイーター》  作者: 禍福
エピソードⅠ 秘密
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5話 日常の崩壊

 会議室。

 入室した片瀬たちが席に着こうとした直前、スマホから強烈な電子音が鳴り響く。


『緊急警報。直ちに安全な場所へ――』


 恐怖を煽る不協和音の警報は、ビルの防災スピーカーからも流れている。

 剣崎は即座にスマホを取り出した。

 液晶画面には回線混雑の表示。


「くそっ」


 舌打ちし、部下の田辺に指示を飛ばす。


「田辺!」

「はい!」

「車の無線を使え!本部へ連絡だ!」


 彼の声は渋く、鋼のように力強い。

 部下の田辺が即座に返事をするが、その言葉を遮るように、世界を砕くような揺れが起こった。


 ――ガタガタガタッ!

 会議室の壁に亀裂が走る。

 天井の照明は明滅し、断ち切られたかのように消えた。

 四人は反射的に机の下に身を伏せる。


「な、なんだこれぇえ!?」


 天沢の声が上ずる。

 窓の外は濃密な粉塵に覆われ、昼間とは思えないほど暗い。

 外からは大事故でも起こったような破壊音や爆発音が連続する。

 ビル全体は揺れ、衝撃が走り、床は波打っていた。


「地震か?いや、違う」


 不規則な振動と轟音は激しさを増し、ビル全体が軋み声を上げる。

 そこへ天井のパネルが、ゆっくりと傾き始める。


「やめろ。やめろっ!」


 天沢が無意識に自分の頭を抱え込む。


 ――!

 突然、全ての音が遠のいたように感じた。

 轟音は続いているはずなのに、耳の奥で鈍く籠るだけ。

 剣崎が口を動かしているが、天沢には声が届かない。


 天井のLED灯は消えた。停電だ。

 窓ガラスは粉塵で覆われ、光は差し込まない。


 やがて揺れは穏やかになっていく。

 片瀬が窓の外に目をやれば、濃い粉塵の奥から、隣のビルの輪郭がぼんやりと映った。


(あれは?)


 粉塵の中に、浮遊する複数の光点。規則正しく脈動するそれらは、明らかに自然現象ではない。何かが移動していた。

 嫌な予感が膨れ上がる。そこへ、ビルの館内放送が割り込んだ。


『只今より避難を開始します。屋外にある来客用駐車場へ集合してください。エレベーターは使用せず、階段をご利用ください』


 女性のアナウンスが流れた。しかしそれはすぐに途切れる。

 再び起こった爆発で、天井から軽い建材の破片が降り注ぐ。

 剣崎が片瀬の肩を強く掴む。

 刑事の掌の熱が、スーツの布地越しに伝わった。


「避難するぞ!」


 四人は会議室を飛び出した。




 廊下は別世界だった。

 赤い誘導灯だけが不気味に点滅し、非常灯の白い光が床をかすかに照らしている。


 恐怖。

 それを振り払うように前に出れば、細かく割れたLED灯の破片が足元で砕ける。まるで薄氷の湖を歩いているようだった。


 社員たちは階段に殺到していた。

 咳き込み、肩をぶつけ合いながら、正面玄関へと流れていく。


「田辺!天沢さんを頼む!」

「了解!」


 よろめく天沢を支えるよう身振りで指示を送った。

 四人はそのままロビーに向かい、避難の流れに加わろうとした時だった。

 ガシッと、剣崎の腕が掴まれる。

 振り返る――片瀬だった。強く上腕を掴んでいる。


「待ってください!」

「何だ!」

「外に出てはいけません!」

「根拠は!」


 その一言に詰まる……言えない。

 彰の未来視。侵略者。能力。

 全部、本当のことなのに、なに一つ説明できない。片瀬は拳を握った。


(頼む……信じてくれ)

「嫌な予感がするんです」


 ようやく出た言葉だった。


「外は……もっと危険な気がします」

「勘だけで人の命を危険に晒すな!」


 剣崎が怒鳴る。

 その時、階段から避難してきた中年社員が叫んだ。


「おい君たち、早く逃げろ!次の余震でビルが崩れるかもしれないんだぞ!」


 片瀬は反射的に、避難する社員たちの前に立ちふさがった。


「皆さんも待ってください!外はっ」

「いい加減にしろ!」


 剣崎が猛然と片瀬を壁に押しつける。

 その力は熟練の刑事そのものだった。


「避難を妨げるような真似をするな!」


 片瀬は何も言い返せない。説得できる材料がない。あるのは、彰を信じたい気持ちだけ。

 結局、群衆はそのまま正面玄関へ流れていく。

 片瀬は止められなかった。

 その背中を、見送ることしかできなかった。


 残されたのは片瀬たち四人だけ。

 そこへ田辺がはっと何かを思い出したように顔を上げる。


「車の無線で本部へ連絡します!」


 剣崎がうなずくと、田辺は先に走り出す。

 正面玄関の二重ドアを抜け、外へ出る。

 そして数メートル先で立ち止まり、振り返る。


「剣崎さん!」


 右手を大きく伸ばす。


「車のキーを投げてくださいっ」


 剣崎はポケットへ手を入れた。キーを取り出す。腕を振りかぶる。

 その瞬間――時間が引き延ばされたかのように、スローモーションになる。


 田辺は不思議そうな顔をしていた。

 視線が、ゆっくりと頭上へ向く。

 困惑。理解。そして――恐怖。


 その表情の変化だけが、異様なほど鮮明だった。

 剣崎も釣られて、視線を上げる。


 空から、何かが降ってきていた。

 巨大な。

 半透明の。

 クラゲの触手にも似た異形。


 ――バンッ!


 凄まじい破裂音。


 肉と骨が潰れる、生々しく明確な音。

 はじけるように血しぶきが舞い上がった。

 まるで、悪夢の花が咲いたように。

 視界が赤く染まっていく。


 田辺という一人の人間は、そこから消えた。

 叩き潰された。


 剣崎の手から、キーが、床に滑り落ちる――カシャン。

 乾いた金属音がロビーへ響いた。


「…………」


 誰も声を出せない。

 触手がゆっくり持ち上がる。

 その下には、黒いスーツの切れ端。

 血だまり。

 それだけ。

 何も残っていない。

 人の形は、どこにもない。


「な、なんだ、あれぇ」


 誰かが息を呑んだ。それは天沢のかすれた声だった。

 膝が砕けるように地面につき、口元によだれが垂れていることにも気づかない。


 剣崎も動けない。刑事として数え切れない死を見てきた。

 事故も。殺人も。凄惨な現場も。

 だが、これは違う。

 理解できない。理解してはいけない。

 常識そのものが目の前で踏み潰された。

 顔から血の気が引いていく。


「あれは……何だ」


 掠れた声。返事をする者はいない。触手は再び持ち上がる。

 一本だけではない。

 灰色の粉塵の向こうで、幾本もの巨大な触手が、生き物のようにうねっていた。


 その先に、さっき避難した社員たちがいたはずだった。

 だが今はもう、人影はない。

 あるのは、道路へ飛び散った赤黒い血痕だけ。


 屋外に避難した者は、もう、誰一人としていない。

 誰も、生き残っていない。


 ガラス越しに広がる地獄。

 玄関の隙間から流れ込む鉄臭い血の匂い。

 それらが、今見ているものは現実なのだと、残酷なほど突き付けてくる。


 剣崎は呆然と立ち尽くしたまま、かすれた声で呟く。


「……なんだ……何なんだ……これは……」


 片瀬だけが動く。

 正面玄関へと走る。

 停電で開いたままになっていた外側の自動ドアを、力いっぱい引き寄せて、ガラス戸を閉める。そして震える手で、鍵を回した――カタン。


 小さな金属音が、静まり返ったロビーに、やけに大きく響いた。

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