4話 Jアラート
――ピピピッピピピッ。
枕元のスマホが鳴る。片瀬はまぶたをこすりながら液晶画面を覗き込み、天沢晴の表示に眉を上げた。
『片瀬君!起きているか!』
「今、起こされました」
『よかった!』
「よくはないです」
寝起きでぼやけた耳に、興奮がダイレクトに突き刺さる。
『光学迷彩の数値解析が完了したんだ。衛星画像と赤外線の不一致率から計算すると』
「今、何時ですか?」
反射的に出た言葉だった。
半分夢の中の頭は、社交的なフィルターが外れていた。
『え?六時二十三分だよ。それよりも聞いてくれ。二〇〇七年の宇宙開発プロジェクトで行われた極秘実験と類似点があってだね』
紙をめくる音がする。天沢はすでに資料を広げているらしい。
片瀬はベッドへ腰掛け、小さく息を吐いた。
「……まず、結論からお願いします」
思考よりも先に言葉が滑り出る。彼はいつも丁寧な対応を心掛けているが、朝だけはそれに綻びが入り、素の部分が出る時間帯だった。
『実は今、各所から問い合わせが殺到しててな。局長からトンデモ学者呼ばわりされて』
「それ、私に言われても」
前髪をかき上げながら、ぼんやりと思ったことをそのまま口にする。言ったあとで少しだけ苦笑した。
(……朝は愛想が悪いな、俺)
そんな自覚はある。だが眠気には勝てない。
『いやいや、君の協力がどうしても必要で。とにかく今すぐ会いたい!君の職場に行きたい!』
「今日ですか?」
『もちろん!あと縄文式気象観測器のレプリカも持っていくから、ぜひ友として語り合おう!っと、いや待て、今はそれどころじゃないか。残念だが仕方ない、こっちの解析結果をっゲホゲホッ』
「一旦、深呼吸しましょうか」
『してる!毎日十回はやってる!あ、しまった』
ビチャッと何かがこぼれる音がした。
『コーヒーこぼした。いや、これは竜巻の前兆か!?』
「ただコーヒーをこぼしただけですよね」
普段なら「もったいないですね」と返すところだが、寝起きの片瀬は容赦がない。
『君には分からないだろうが液体の流動は気象学において……』
電話口の向こうで、今度はガチャリとドアが開く音がした。
『あ、局長……いえ、竜巻は発生してません。ただの物理現象です……はい、お騒がせしてすみません。はぃ……はぃぃ』
――。
数秒の沈黙。
「天沢さん?」
「んっンン!」
天沢は威厳を示すように喉を鳴らす。
『片瀬君。君はどうしてあの浮遊体の存在を知っていた?』
急に口調が変わり、芝居がかった低い声になる。
片瀬は欠伸を噛み殺した。
「偶然ですよ。雲の動きが変に見えただけで」
『君は昨晩、とある筋からの情報と言ってなかったか?』
そうだったような気はする。でも、低血圧で頭の働かない片瀬は「あっえーと、そうでしたっけ?」と適当に濁した。
『ふむ、まぁいい。とにかく、午前中には必ず行く!では失礼!』
電話が切れた。呆然とスマホを見下ろす。
今日は十月二十五日。時刻は六時半だった。
「……朝から元気だなぁ」
昨夜は帰宅が遅かった。
寝不足のままコーヒーを淹れる。
テレビを点けると、画面には季節外れの台風情報。
未確認浮遊体については、一切報じられていない。
湯気の立つマグカップを手に取り、一口飲む。自然と左腕へ手が伸びた。袖の下に隠れた古い傷跡を、親指でそっとなぞる。考え事をすると、いつも無意識に触れてしまう癖。
窓の外では、変わらない朝が始まっている。
腕時計へ目を落とす。秒針は今日という日を正確に刻んでいた。
◇
下町のオフィス街。
低層ビルが並ぶ通りを、出勤途中の会社員たちが足早に行き交う。
A&G商事本社。
五階建て自社ビル前。いつも通り、始業時間の三十分前に到着した。
自身の職場があるエレベーターのボタンには、各階がテープで表示してある。
●【5F:役員室/大会議室】
●【4F:営業部オフィス】
●【3F:コーポレート部オフィス】
●【2F:社員食堂/売店/休憩室】
●【1F:ロビー/小会議室】
営業部に所属する四階オフィスフロアに到着した。
すると、背筋を歪めて歩く桐村と目が合った。
青白い顔の先輩社員は幽霊を見たかのように目をそらし、進行方向を変え速足で去っていく。
(桐村さん、挙動不審じゃないか)
「おはようございます!」
背後から藍川が颯爽と歩み寄ってくる。
肩までのストレートヘアが朝の光にきらめいていた。
「……タクシーの件、私、まだ納得いってませんからね」
「ごちそうしてもらったから、俺も何か返したくて」
「そんなだから、お人好しって言われるですよ」
藍川は少しだけ頬を膨らませたが、すぐに桐村の背中へ視線を移した。
「桐村さん、なんか急いでましたね。また何か言われたんですか?」
「いや、特に何も」
まるで桐村がいつも絡んでくるかのような言い方。いかんせん八割方は事実なので、そう思うのも仕方がない。
「なんだか避けてるみたいでしたね」
「俺もそう思った」
二人は並んで営業部へ向かう。
「そういえば天沢さん、今朝はテレビに出てませんでしたね。てっきり片瀬さんから聞いた話を盛って、やっぱりあれはUFOだ!って騒ぐと思ってたのに」
八重歯を覗かせて笑う。
片瀬も思わず笑みを浮かべた。
「プロデューサーに釘を刺されたのかもしれないな」
「あ、それ絶対そうです」
二人は顔を見合わせ、小さく笑う。
それからは、もし本当に宇宙人がいたら。そんな他愛ない話題をしているうちに、始業チャイムが鳴り響いた。
◇
午前十時過ぎ。
営業部へ一本の内線電話が入る。
「片瀬さん、一階ロビーにお客様です」
(……天沢さんだろうな)
苦笑しながら席を立つ。その時。
ブゥゥン。
スマホが震えた。
彰。
画面を見ただけで、内容を察した。
地球外生命体からの襲撃。
酔いが冷めた頭で考えれば、ますます現実味がない。
彰を信用はしているが、どこかのタイミングでドッキリだったとか冗談で済ませそう。そんな気がまだ拭えないまま、通話ボタンに触れた。
「もしもし」
『兄貴、襲撃は間もなく始まる。屋外には出るな。奴らは感知した人間を徹底的に狙ってくる。それと奴らは強風時には活動しない。外に出るチャンスは台風が来たとき、それまでは会社のビルからは絶対に出るな』
早口でまくし立てるので、強引に口を挟んで話を切り出す。
「待て、それだけでは」
『悪い、時間がないんだっ』――プッ!
ものの数秒で、あっけなく通話は切られた。
(……まさか、本気なのか)
だって馬鹿げている。エイリアンの襲撃など、映画のようなことが現実に起こり得る筈がない。
ただ彰は間違いなく本気だ。しかも警告内容はあまりにも具体的だった。
自然と手に力が入る。
スマホをきつく握り締めると、腕時計の秒針が大きく揺れた。
片瀬はエレベーターへ乗り込む。大きく深呼吸を一つ。
最悪の事態を想定した。それが片瀬なりの、覚悟の決め方だった。
エレベーターが静かに一階へ到着する。ドアが開く。
ロビーには、予想どおり天沢晴の姿があった。だが、その前に二人の男が立っている。
黒いスーツ。左胸には金色のバッジ。天沢はその背中越しに声を張り上げた。
「あんたら、ちょっと待ってくれ!」
天沢が黒スーツの男たちに抗議するが、足早に寄ってきた二人組は片瀬の正面に立つ。年長者の男が、懐から漆黒の警察手帳を素早く開いた。
「刑事の剣崎だ。この者は部下の田辺」
剣崎の眼光は、刑事特有の鋭さを帯びていた。
まず片瀬の表情を読み、全体像を測り、左腕の袖口へ視線を落とす。
古傷を隠すように伸びた布地を見てから、最後に目を見た。
これは現場で磨かれた刑事特有の癖だった。
後ろに立つ若い男、田辺も無言で警戒しながら周囲を見回している。
「片瀬義人だな、少し話がある」
「何のご用でしょうか?」
片瀬の落ち着いた返事に、剣崎は眉間の皺をより深くした。
「外で詳しく。車まで同行してくれ」
「それは、ちょっと……よろしければ社内の会議室で話しませんか?勤務中に外に出るのは私も都合が悪いもので」
警察が職場に訪れたのなら、やましいことがなくとも不安を感じるのはなんらおかしな話ではない。しかし片瀬は冷静さを保つ。もちろんこのような状況は想定していなかったが、エレベーター内で覚悟を決めた最悪のケースよりもずっと平和的に感じられたから、落ち着いていられた。
だが、その落ち着きこそが仇となる。
(この男……まったく慌てないな……肝が据わっているのか。それとも)
ベテラン刑事の勘が囁く。
あまりにも自然すぎる態度が、剣崎にはかえって不自然に映ったのだ。
この男は怪しい、何かある。そんな警戒心を一層強めさせた。
「了解した。三十分だけ時間をもらおう」
方針が決まると、天沢が軽く頭を下げる。
「片瀬君。突然すまなかった、まさか尾行されているとは思わなくてな」
「と言いますと、今朝の件ですか?」
「そうなんだが、詳しくは移動してから話そう」
先導する片瀬に続き、天沢が歩き出す。
剣崎と田辺がその後ろに続く。
四人は、ロビー奥の小会議室へ向かった。
◇
この様子を、桐村が盗み見ていた。
刑事が片瀬を訪ねたのは、昨夜の空き瓶の件だと思い込んで、暴行罪で訴えられるかもと焦っていた。
だが耳を澄ませば、片瀬を怪しんでいる様子だった。
薄い唇が歪む。
(さてはあいつ……なにかやらかしたな)
片瀬は一年後輩。
昔、片瀬から仕事の功績を奪ったが、敵意どころか嫌味のひとつも言われなかった。それがいけ好かない、気に食わない。本音を見せない行動が、取るに足らない相手と見下されている様で、我慢ならなかった。
(偽善者が)
腹の底では見下してるくせに。そう思うたび、胸の奥がざわついた。だからこそ、さっきの警察に詰め寄られている様は痛快だった。
(やっと尻尾を出したな)
桐村はすぐさまエレベーターへ乗り込む。
◇
営業部に戻るなり、桐村は周囲へ声を潜めた。
「なあ、大変だ」
近くの社員が顔を上げる。
「どうしたんですか?」
「ここだけの話だぞ」
桐村は周囲を見回し、さらに声を落とす。
「片瀬が警察にマークされてる」
「えっ?」
「さっきロビーで任意同行されそうになってた」
ざわり。空気が揺れる。
「何かやったのか?」
「詳しくは知らないが……ただ……」
桐村は意味ありげに言葉を切る。
「昨日、居酒屋で酔った片瀬に強引に腕を掴まれてな……」
わざとらしく手首をさすった。
「俺は止めただけなんだよ。藍川が困ってたからな。まさか暴力沙汰になるとは思わなかった」
周囲からどよめきが起こる。
その時。藍川の、仕事の手が止まる。
(……また嘘)
かっと熱くなった。昨夜、騒ぎを起こしたのは桐村だった。
止めに入っただけの片瀬が悪者にされるのは、見過ごせなかった。
(この人、本当に――)
勢いよく立ち上がる。椅子が音を立てた。
「ちょっと待ってください!昨日は……」
偶然、窓の外の景色が目に入った。
ビル群の向こう。最初は陽炎かと思った。空気が揺らいでいるだけだと。しかし違う。歪みはゆっくりと輪郭を持ち始める。
半透明の塊。
ゼリーのような身体の奥で、無数の淡い光が明滅していた。
それは巨大なクラゲにも見えた。
「……え?」
大気そのものを泳ぐ異形。
触手のような器官をゆっくり揺らしながら、街の上空を静かに降下してくる。
次の瞬――触手が一閃した。
何が起きたのか理解するより早く、ドゴォォンッ!!と地鳴りのような轟音が響いた。
ビルの向こう側から黒煙が噴き上がる。
粉塵が津波のように街を飲み込み、視界を一気に灰色へ塗り潰した。
「な、何……?」
営業部がざわつく。
社員たちは初めて窓へ振り返る。しかし、もう何も見えない。ガラスの向こうには、立ち込める粉塵だけが渦巻いていた。
直後。
――ウゥゥゥゥン!!
Jアラートが鳴り響く。
『緊急警報。直ちに安全な場所へ避難してください』
一拍置いて、機械音声が冷たく告げる。
『これは訓練ではありません』




