46話 残酷な秘密
高架下のトンネル内。
電力の失われた闇の中へ、ボロボロの黒いセダンが雨風を避けるように滑り込んだ。
「振り切れたみたいだな」
トンネルに入るとすぐ、天沢が懐中電灯で後方を照らしながら言った。
光の輪の中に小野の姿はない。
藍川はハンドルを握る手の力を緩め、アクセルから足を離す。
一同から緊張が抜け、車内に深い安堵の吐息が広がった。
エンジン音がトンネルに低く反響している。
ここでミラーに目をやった藍川が、息を呑んだ。
「片瀬さんは!?」
トランクに乗せたはずの人影がない。
藍川と天沢は慌てて下車した。
そこで目にしたのは、びしょ濡れになった空っぽのトランクだけ。
気づかなかった。そのことに、今さらながら愕然とした。だが、それだけ誰にも余裕はなかったのだ。
「天沢さん、乗ってください、すぐに引き返します!」
「おう!」
藍川は即座に運転席に乗り込み、天沢が続くのとほぼ同時にギアを力強く入れ直す。
トンネル内は、普通車がすれ違うのが精一杯の狭さ。通常なら複数回の切り返しが必要な旋回を、藍川は一気にハンドルを切る。
タイヤがコンクリートの砂利を軋ませ、鋭く旋回。
ヘッドライトが壁をなぞり、瞬間的にトンネルの狭さを浮き彫りにさせる。
後輪が壁すれすれに滑りながらも、微妙なアクセルさばきで車体は見事に方向を変えた。一気に加速。だがその時、トンネルの出口付近で異常を目にする。
「止まれっ止まれっ止まれっ!」
剣崎が叫ぶ。
巨大な膠喰体が強風で飛ばされ、トンネル出入口を塞ぐようにコンクリートに激突した。
粉塵が舞い上がる。
それは四足歩行のトカゲ。いや、口先の尖ったワニのような形状をしていた。
強風に飛ばされないよう、トンネル内に逃げ込もうとしている。
動きは乱雑で、コンクリートを端から崩壊させていた。
「バックしろ!」
剣崎から指示が出される前に、藍川の指先はシフトレバーに飛ぶ。だが間に合わない。逃げ場を求めるように伸びてきたワニ型の口先がボンネットに直撃。
「くっ!」
ハンドルを切り、口先を振り払おうとする。
車体を、わずか数センチの壁際に押しやった。が、トンネルは狭い。
避けるべき空間も、駆け引きの余地もない。ワニ型が伸ばした下顎は無情にも車体を捉え、車体はカチあげられた。
「――きゃあっ!」
車は横転。勢いのままアスファルトを滑る。
屋根が地面を削るたびに火花が散り、焦げた臭いが充満する。
軋む金属音が耳をつんざき、何とかぶら下がっていたサイドミラーは砕けた。
――ドンッ!
衝撃と共に車体は壁に激突。静止した。
逆さまになった車内からは、何かが滴る音がする。
「みんな無事か!?」
天地が逆になった車内。
天沢の声に反応した桐村が「無事な訳あるか」と返し、鈴音を抱えた亜香里を守ろうと覆いかぶさっていた。
シートベルトに吊られた亜香里の腕は窮屈そうに捻られていた。
彼女は必死に娘を庇いながら、桐村の助けを借りて外に出る。
天沢も割れた窓枠から這い出てた。
幸い、後部座席にいた四人はすぐに脱出できた。しかし。
「剣崎さんがっ!」
藍川の悲痛な声に一同が駆け寄る。
助手席にいた剣崎は変形した鉄板に足を挟まれ、身動きが取れない。
溶解した右手はさらに傷つき、血が滴っていた。
「早く出さないと!燃料が漏れています!」
亜香里が指さした地面には、ガソリンが帯のように広がっていた。
エンジンルームからは白煙が立ち上り、焦げた臭いが鼻を刺す。
火花一つで終わる。
「手を貸せ!」
桐村が剣崎の腕を引っ張る。天沢も鉄板に肩を押し当てる。
「せぇぇぇのッ!」
二人が全身の力を込めた……動かない。
食い込んだ鉄板は、びくともしなかった。
剣崎は自分の右脚へ目を落とす。
太腿から先の感覚が、もう無い。
血だけがじわじわと流れ続けている。
(駄目か)
苦く息を吐いた。
「……もういい」
誰もが理解していた。
この鉄板をこじ開けるには専用工具が必要だ。無理に引き抜けば動脈が断裂する。
助ける術は、もう残されていない。
トンネルの向こう側では、今もワニ型の膠喰体が入口を広げようと暴れている。
「……逃げるぞ。刑事さんには悪いが、時間がない」
表情を強張らせた桐村が、打ちひしがれる亜香里と鈴音の背を押す。
よろける身体を支え、三人は先にトンネルの奥へと避難していく。
剣崎を見捨てる。そうする他ない、他に選択肢などないのだ。
誰かが、明確な決断を下さなければならない。
剣崎が動けない今、それが出来るのは自分だ。天沢は、自分が導かねばと奮い立つ。
「藍川さん、もう無理だ。行こう」
「何を言ってるんですか!諦めるなんて!」
藍川だけが諦めない。
必死に剣崎を引っ張り続けた。整備士の手は油と血で滑り、何度も掴み直す。
「一九ちゃん」
身動きのできない剣崎の声は弱々しい。
彼は親友の良春の面影を探すように、藍川を見つめていた。
決して諦めない。
困っている人を見ると、自分の命まで後回しにする。
誰かを置き去りにするくらいなら、自分が傷付く方を選ぶ。
その姿が、剣崎には遠い昔の親友と重なった。
「君は本当に……父親とそっくりだ」
苦しそうに笑う。
「最後まで、人を見捨てられないところまでな」
「こんな時に何を言ってるんですか!絶対に諦めないでください!」
やりきれない、悲痛な声。剣崎は苦しげに息をつき、血の気の引いた唇を動かす。
(本当はこんなこと、言いたくない……)
良春が命を懸けて守りたかった娘の心を、壊すことになるかもしれない。
それでも、親友の娘が不幸になるとわかっていれば、見過ごすことはできなかった。
「……二つの未解決事件がある」
「やめてください!今はそんな話をしている場合じゃない!」
弱々しい剣崎の姿に、藍川は勇気づけようと必死だった。
諦めて欲しくない。
変形した鉄板を、手が傷だらけになるのも厭わずこじ開けようとする。
その手は疲労、寒さ、恐怖で震えていたが、それでも助け出そうとした。
「ガソリンの臭いが強くなってる!もう限界だ!」
「邪魔しないで!」
藍川は天沢に肩を強く握られたが、激しく振りほどいた。
八重歯で唇を噛み、懸命に剣崎を引っ張り出そうとする。
「誰も死なせたくない!お父さんのような別れは、もう嫌なの!」
ドゴォン!トンネル天井の一部が陥落する。稲妻のように広がった亀裂から、コンクリート片が豪雨のように降り注いできた。
ワニ型は口から溶解液を噴き出して暴れていた。
壁面を腐食させつつ確実に距離を詰めてくる。
余命は、砂時計のように目に見えて減っていた。
「君の父親は、八年前に、月川村で殉職した」
力の無い声が、藍川の耳に届く。
ここで、ふと手が止まった。
――片瀬とあの日、居酒屋で笑い合って、一緒に行こうと約束した場所。
彼の実家は、長野の月川村だった。
何かが、つながる。剣崎が紡ぐ話を、無視できなくなっていく。
「死因は、全身を捻じり切られたことによる出血性ショック」
父の葬儀の日。父の遺体はずっと布で覆われていた。
黒い喪服に包まれた母は、棺の前で泣き崩れた。
「一九ちゃんには、お父さんを見せられない」
葬儀に列席した剣崎は、そう言った。
「あれは、あんな状態の遺体は、普通はあり得ないんだ」
剣崎にはもう、痛みも寒気も感じなくなっていた。ただ力尽き、閉じそうな瞼を、気力だけで支えていた。
彼が長年追い続けてきた事件のピースは、ようやくはまっていた。
親友であり、藍川の父でもある良春の死。全身が捻じり切られたという、あり得ない傷痕。工業用油圧機械によるものと断定されたが、現場にはそんなものはなかった。
答えを探し続けた。
人力では不可能な傷。凶器も見つからない。
この矛盾に結びつく力。
それを目の前で見た。
犯人を必ず見つける。
あまりにも無惨な良春の遺体の前で、棺の前で、そう誓った。
あの日から八年。答えだけが見つからなかった。
だが。
小野の膝が、何も触れていないのに捻じ切られた瞬間。長年追い続けた事件が、繋がった。
「片瀬の、あの力を目にするまでは……」
「片瀬さんはそんなこと!」
血と油汚れがついた指先が、剣崎の黒いスーツを掴む。
その胸元からは拳銃が覗いている。
「あの力を見て、俺は確信した」
「やめて!もう、何も言わないで!」
「俺は、お前だけは守りたい。だから、聞いてくれ」
剣崎は最後の力を振り絞った。
必死に、藍川の擦り傷だらけの手を握りしめる。
「やはり奴を、片瀬を、信用するな」
「……っ!」
すぐ傍までワニ型が迫っている。
天沢は懸命に懐中電灯で注意を逸らしているが、もう限界だった。
「藍川さん!走ってくれ、逃げるんだ!」
天沢の声に剣崎は反応した。
声に力を乗せて振り絞る。
これから彼女の心を傷つける。
それでも、この選択をしなければならない。
殺人犯。
そんな男に、恋をするような真似だけは、させられなかった。
「俺の親友を、君の父親を殺したのは……片瀬義人だ」
――。
藍川の内側で、何かが崩れ落ちていく。
片瀬の優しい笑顔が、血塗られた仮面に変わる。
あの温もりは演技だったのか、騙していたのか。
何もわからない。
現実を受け入れられない。
全身から力が抜けていく。
「君は生きろ!笑って、生きろ!」
その一言は、親友が幼い娘へ願っていた言葉だった。
剣崎は藍川を突き飛ばす。
「天沢ぁああああ!」
それは命を燃やし尽くす、最期の雄たけび。
天沢は即座に反応した。
へたり込む藍川を抱え込む。
藍川の体が浮く。
かつてラグビーで鍛えられた天沢の胸元で、彼女は子供のように小さくなった。
剣崎は霞む視界で、懐から出した拳銃を構える。
――パン!
銃声と同時に、炎が舞い上がった。
ガソリンに引火した爆発の衝撃波が、トンネル内を揺らす。
藍川は天沢に抱えられながら、背中越しに炎上する車と、炎に巻かれた膠喰体を見つめていた。
剣崎の姿は、見えない。
藍川の肩が、全身が震える。
(……違う)
私は知っている。
笑い合ったこと。
抱き締められた温もり。
唇の柔らかさ。
(嘘だよね……?)
山小屋で一緒に家具を作ろうと約束した、のに。
心の中で問い掛ける。
(おじさんは、嘘を付く人じゃない……)
信じたい。
信じられない。
二つの想いが胸を裂き、全身から力が抜けていく。
疑念だけが胸に残る。
愛した男が、自分の人生を狂わせた。
最も、憎むべき敵かもしれない。
藍川は膝から崩れ落ちた。
炎の熱風が髪を揺らす。
信じたもの、愛したもの、守りたかったもの。
父を奪った憎しみと、片瀬への想いが心を引き裂く。
(どうすればいいの、お父さん……教えてよ……)
わからない。
答える人は、もういない。受け止め方が、わからなかい。
トンネルの天井が崩落した。
侵入した巨大な膠喰体は炎に巻かれ、暴れている。
天沢は藍川を引きずり、奥へと逃げる。
「行くぞ!」
天沢は藍川の返事を待たなかった。
返事など、もう返ってこないと分かっていた。
茫然として、支えられながら進む。
父の仇と、愛した男が同じ人物だという現実に、心が壊れそうになる。
トンネルの出口が近づく。
雨はまだ激しい。
雷光が、暗闇を引き裂く。
藍川が求める答えは、どこにもなかった。




