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ゲルイーター  作者: 禍福
エピソードⅠ 秘密
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45話 届かない言葉

 雨風が、火照る身体の熱を冷ます。

 大粒の雨音は、暴れる心臓の鼓動と同期していた。


 満身創痍。

 窓ガラスの割れた車に寄りかかっている片瀬の右腕は傷つき、ワイシャツは血で滲み、痛みが神経を揺さぶっている。


 雨に溶けるゼリー状の粘液の匂いと共に、異形と化した小野が近づいてくる。


 ここで緑色の微弱な光を目にする。

 車は、鍵が刺さったままだ。

 ダッシュボードでランプが点滅している。


(ヘッドライトがつけば、目くらましになるかも)


 バッテリー残量は、命の燈火。一か八かの賭けに出る。


 触手が廃車のボンネットを叩き付けた。即座に動く。

 片瀬は割れたサイドガラスから運転席に身を乗り出す。

 キーを捻ってスイッチを叩く。


 光の刃が暗闇を切断した。

 小野の充血した目がぎくりと見開かれ、まるで眩しいという感情でもあるかのように顔を背けた。


(効いた!)


 沸き上がる歓喜をぐっと飲み込む。

 片瀬は光に目をやられた小野に、体当たりをかます。

 傷んだ右腕から、脳髄に向かって激痛が走った。それでも、力は緩めない。

 体当たりをまともに受けた小野はうつ伏せで水溜りに叩きつけられた。


 素早くジャケットを脱ぐ。

 小野の視界を塞ぐために。


 背の触手が暴れる。

 酸の飛沫が袖を溶かし、皮膚の表面を焼く。

 ジャケットを顔に巻いて、袖から、ぎゅっと締め付けて、素早く離脱。


 布越しに、小野のもがく顎の動きがわかる。

 こんな状況なのに、片瀬はまだ後ろめたさを感じていた。


(ごめんな)


 もはやそれが小野ではないと、頭ではわかっている。

 それでも。

 攻撃するたびに、胸が痛むのだ。

 簡単に割り切れるほど、彼女との時間は短くない。


 雑念を振り払うように頭を振う。

 触手を警戒し、一歩二歩と後ずさる。


 ずっと、狂ったようにもがいている。

 水を吸った上着は簡単には外れない。しかも触手では人の指先のような繊細な動きは出来ていなかった。


 小野の背から伸びた触手の根本から、ビー玉サイズの核が現われた。

 宿主の視覚を失った焦りから、自らの核を外部に露出させ、周囲の敵意を探るように、触手の粘液の中を動いている。


 これを待っていた。

 疲労で震える膝を押さえつけ、路肩にあったブロック片を掴む。


 核はギョロギョロと慌ただしく動き回るが、片瀬を捕捉すると止まった。

 明確に視認し、狙いを定めたのだ。


「どつきあいだ」


 片瀬は、生身の肉体をさらけ出している。

 膠喰体も、弱点の核をさらけ出している。

 どちらも、まともに食らえば一撃で終わる。


 膠喰体が槍のように触手を伸ばす。

 その一撃が突進する片瀬の腰を掠めた。肉を裂いた。

 それでも、勢いは止めない。


 横たわる小野の、まだ人間の形を残した肩を「暴れるな!」と強く踏みつけた。

 触手は母体を守らんと、のたうち回る。

 酸の飛沫が雨粒と混じり、アスファルトをジュッと溶かして白煙が立ち上る。


 核が、片瀬を見た。

 片瀬も、その核を見据えた。

 雨音だけが世界を満たす。

 一瞬だけ、互いの動きが止まった。


「これで!終わりだ!」


 ブロック片を頭上に振りかぶる。

 首筋に向かって、一本の触手が伸びる。

 首の肌を、かすめた。

 焼き鏝が掠ったような痛み、皮膚の焦げる臭い。

 それでも、振り下ろす軌道はぶれない。

 ドスッと、全力でブロックを核に叩きつけた。


 核は、砕けた。

 火にくべられた炭のように割れた。


 小野の身体が弓なりに反り返る。

 四肢から生えていた粘体が泡立ち。

 そして、崩れ始めた。


 核の崩壊と共に、粘液が揮発していく。



 ――深く混濁していた、小野美咲の意識。


 最期に、鮮明さを取り戻せた。


(……ああ、これで、終わるんだ)


 自分という境界が、曖昧になっていた。

 痛みはもうずっとない。

 代わりに、冷たくて重い何かだけが身体を満たしていた。

 それで良かった。これでもう、一人じゃないと思えたから。


 走馬灯のように、過去が巡る。

 中学受験。大学。就職。


 気づけば人生は、いつも親が決めた道の上にあった。

 自分で選ばなければ、失敗しても誰かのせいにできる。

 だから彼女は、自分で決めることから逃げ続けてきた。


 それでも、最期だけは違った。


(ごめんなさい。迷惑、かけたね)


 誰に向けた言葉なのか、彼女自身にもわからなかった。

 でも、もういい。

 それが自分で選んだ、初めてで、最期の言葉だったから。


 その言葉と共に、彼女の身体からすべての力が抜け落ちた。

 触手は揮発して消えた。

 今は、生身の身体が雨に打たれているだけ。

 膠喰体としての生命は、完全に停止していた。


 ――。

 片瀬はバランスを崩し、受け身すら取れずに倒れ込んだ。

 核を打ち砕いたとき、飛び散った粘液を浴びた。

 あの、剣崎の指を溶解した強酸の粘液だ。


 運頼み。

 破壊された核は、急速に揮発して酸性を失う。

 加えて雨による水の膜が、一瞬の接触を防ぎ、酸による負傷を免れていた。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 横殴りの雨風はやまない。

 今なお、目の前では突風が瓦礫を巻き上げ、頭上では雷鳴が轟いている。

 だが、それでも、疲労困憊の片瀬の耳には届かない。深い静けさを感じていた。


(終わった)


 まるで他人の体のようだった。

 思うように力が入らない。

 道路で大の字になって横たわり、沼に沈むような脱力感が全身を支配していた。


 今まで気づかなかった、夜の匂い。

 雨に洗われたアスファルトの鉄臭さ、濡れた土埃の匂いが鼻腔を満たしていく。


 小野は四肢を失っていた。

 かつて腕と足があった場所は、骨の断面さえも溶けたように滑らかで、まるで生まれつき手足がなかったかのように修復されていた。


 戦いの最中で感じてやまなかった、傷つけたことへの罪悪感。

 顔は上着できつく縛られたまま、輪郭すらよくわからない。

 あの怖がりだった同僚を、このまま終わらせて良いはずがない。

 せめてもの償いとして、人間らしい顔を見せてやりたい。


 残された気力を振り絞り、腹ばいで小野の傍に寄った。

 寒さと疲労で震える指を伸ばし、小野の顔に絡みついた上着の端を掴む。

 びしょ濡れの布は、肌に張り付くように固まっていた。

 ねじれた布地をほぐし、結び目を解く。


 やがて、彼女の顔が露わになった。

 そこにはもう、異形の面影はない。苦痛の表情もない。

 まるで何かをやり遂げたような、安らぎをたたえていた。


 彼女が最期に何を思い、何を選んだのか。片瀬には知る術がない。ただ、彼女がもう苦しんでいないことだけが、せめてもの救いだった。


 ここで、ある記憶が蘇った。

 一年ほど前。オフィスで、小野が差し出してくれた缶コーヒーだ。


「片瀬さんどうぞ。あと、もしよかったら、このあと一緒に帰りませんか?」


 あの時、片瀬はまだ仕事が残っているからと曖昧に断った。

 受け取っただけで終わってしまった。


(あの時、少しでも隣に座って話していれば……)


 過去の記憶が遠ざかっていく。

 現実の雨音が耳に流れ込んでくる。

 小野の冷たくなった頬、涙のような雨を拭うように、そっと触れた。


「小野さん、あなたはただ誰かといたかったんだよな。ひとりになるのが、怖かったんだよな」


 かすかに残っていた小野の体温が、冷たい雨によってあとかたもなく奪われていく。


 小野は最期に、自分が選んだ言葉で謝ることができた。

 片瀬はどうなのか。罪を、告白することができるのだろうか。告白する勇気が、彼にはあるのかだろうか。


(想いを伝えられず、秘密を抱えたままの最期が、どれほど寂しいものか)


 片瀬にとっての秘密とは、この能力に起因する、殺人の罪。


 誰もが何かしら秘密を抱えて生きている。

 そう言い聞かせ、今まで自分を欺き、目を逸らしてきた。


 だが、秘密を抱えたままでは、想いは届かない。

 伝えたいことがあるのなら、秘密から逃げてはいけない。


 傷だらけの身体を、じんわりと起こす。

 感覚の無い右腕を左手で抱え、血の混じった雨水がズボンの裾から滴る。


(藍川さんに会って……伝えないと)


 膝を立て、なんとか立ち上がった。

 話さなければならないことがある。

 藍川の父親の名前を聞いたとき、まさかと思った。


(……良春よしはるさん。あなたは、藍川さんの父親だったんですね)


 これは運命の皮肉か。因果の巡り合わせか。

 藍川の父と、どの様な関係だったのか打ち明けるべきだった。

 でも、できなかった。良春との関係性を明かすことは、秘密を暴かれることに直結するから言えなかった。

 それに藍川に惹かれていた。だからこそ、あの純粋な瞳を曇らせたくない、傷つけたくなかった。


 いや本当は、自分が傷つきたくなかったんだ。

 嫌われたくなかったんだ。

 彼女の自分を見る目が変わるのが、怖かったんだ。


 だから、言えなかった。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 荒い息が白く霞む。廃車に掴まり、寄りかかる。藍川たちが去った方向へ身体を向ける。風が強まる。傷口がじんじんと疼く。喉の奥が熱くなる。

 もっとも強くこみ上げてくるのは、今まで打ち明けられなかった罪の記憶だ。


 一歩、前に足を出そうとする。だが、足元がふらつき、視界がちらつく。それでも、前に出ようとする。

 ガクンっと膝が折れた。アスファルトにぶつかる衝撃が全身を走る。鼻血が出ているらしい。鉄の味が口に広がった。


(藍川さん……俺は、こんな自分でも救われる気がした。愛される気がしたんだ……でも……違うんだよな)

「ごめん……な……」


 掠れた声は、雨音に沈む。


(全部……俺のエゴだった)


 身体の感覚が希薄になっていく。それでも、片瀬は前方に手を伸ばす。指先が痙攣し、地面を掴む。這いずるようにして前進する。


(もう……少し……)


 声は出ない。

 伸ばした手が、地面に落ちる。

 雨の音が遠のき、嗅覚が鈍り、視界が狭くなっていく。


(すまない……君が父親を失ったのは……全部、俺のせいなんだ)


 暗闇の中、藍川の幻影がちらつく。

 ただ、声は発せず……意識は、途切れた。


 雨はなおも激しく降り注ぎ、横たわる片瀬の身体を打つ。

 遠くで雷鳴が轟き、闇夜を照らす。

 その閃光に、路上に横たわる二人の姿が浮かび上がった。


 一人は永遠の眠りに就き、

 もう一人は真実を胸に抱えたまま、深い昏睡に落ちていく。


 片瀬が祖父から譲り受けた形見の腕時計が、零時を指す。

 世界は新しい日を迎えていた。


 それでも、嵐はまだ終わっていない。

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