44話 追跡者
雨に濡れた路上。
小野の腕から伸びた触手は、昆虫標本を針で打ち付けたように廃車寸前のセダンを天井からアスファルトまで貫いた。
フレームが歪んだ車体。
変形したルーフに溜まった雨粒が、衝撃の余韻でぱらぱらと弾け飛ぶ。
スリップで空転するタイヤが、悪あがきのように回り続けていた。
そこから、触手が天井を引き剥がす。
捲れた裂け目から、青白い顔が車内を覗き込む。
濡れた黒髪が垂れ下がり、血と粘液と雨水が混じった液体が車内へと滴り落ちる。
その異形の首は根元から曲がり、あたかも真後ろから生えているかのようにねじれたまま、ぎょろっとした眼球で桐村を凝視した。
「ひぃっ」
桐村が叫ぶ、一呼吸前。
片瀬はすでに動いていた。
トランクの縁に両手をかけ、後ろ足で小野を蹴り飛ばす。
蹴りは小野の頬骨に直撃。首はさらに捻じれて一回転。
小野は車外に飛ばされ、天井から突き刺していた触手はズボッと抜けた。
抜けた触手はもがくように暴れ、片瀬の肩を打ちつける。
衝撃で身体は宙に浮き、異形と化した小野と共に車から放り出された。
背中からアスファルトに叩きつけられた片瀬は、雨の冷たさよりも激痛に意識を揺さぶられる。
車内では、天井から触手が抜けた瞬間、剣崎が「今だ!行け!」と指示を飛ばす。
幸運にも触手が貫いたのは、後部座席中央の床板。走行に必要な駆動系や燃料系統は損傷を免れていた。
エンジンは力強く唸りを上げる。
セダンは、水しぶきを上げて加速。
藍川の視界には、豪雨によって爆発的に広がる水煙のみ。スピードメーターの針が八十キロを超える中、バックミラーには闇へ沈む道路しか見えていなかった。
片瀬は路上に残された。
置いて行かれた喪失感はない。むしろそんなことよりも。
みんなが逃げられた安堵の方が強かった。
しかし、それを緊張感が上書きする。
異形と化した小野から、一挙一動を見逃してはならない。
背の触手で軽々と起き上る元同僚に、戦闘態勢を解く余裕などなかった。
小野は捻じれた首を両手の触手で固定。グキッと強引に正面に向き直させる。
首筋から不自然な角度で飛び出した骨の突起が、皮膚を突き破っていた。
それでも彼女の顔は無表情のまま。血の涙を流す眼球だけがぎょろり動いて、片瀬を捉えた。
「小野さん!目を覚ましてくれ!」
これまで何度も声は掛けて来たが、一度として返答はなかった。
表情もなく、生気も感じられない。
(やっぱり、もうどうしようもないのか)
小野が元に戻ることはないのだと、決意を固める。
ふわっと上昇気流が発生。
雨粒が浮き上がる。念動力を最大出力に近づけている余波だ。
「――ッ!」
先に動いたのは小野。
背肉が波打つ。
複数の触手が雨粒を切り裂き、毒牙のような三本の先端が喉元、胸、腹部を狙う。
それを片瀬は、横っ飛びで躱す。
薄皮一枚の回避。
だが攻撃は終わらない。
躱した直後。
触手がアスファルトを叩きつけ、コンクリートの破片が跳ねる。
鞭のように振り下ろされる。
引かない。
不可視の障壁で防御しながら、距離を詰める。
(ここで終わらせる。皆を、絶対に追わせない)
片瀬の全身から、青白いオーラが迸る。
濃密に、周囲の雨粒をパッと弾き飛ばす。
オーラが安定すると、無数の雨粒が空中で静止。
そこから雨水が集まり、渦を巻きながら一つの水塊へと凝縮していく。
水流だった。
それを鉄槌のように骨の髄まで押しつぶす勢いで放出。
小野の胸部を貫く。
「がぼぉっ!」
肺に残された酸素が吐き出される。
小野の胸部を貫いた水流は、その背後にある廃車をも押し飛ばす威力だった。
そこで腕の触手は、ぐんっと伸びる、
路傍の電柱に絡まった。
そこを中心に弧をかいて、水撃の勢いを逃がす。
触手で地を蹴り上げて加速。
弾丸のように片瀬へ迫った。
――ズキン!こめかみを差すような痛み。
念動力のエネルギー消費は限界に近かい。
能力の反動によって歪む視界の中で跳躍。
廃車の屋根へ飛び移った。
追ってきた触手はその車体を易々と貫く。
小野は雨粒が眼球に当たっても瞬きすらしない。
充血した眼球で片瀬の動きを追う。
車体から触手が引き抜かれた。
外れた衝撃でドアが宙を舞う。
念動力でそれを引き寄せ、盾代わりに構えた。
(触手にさえ触れなければ、溶かされない)
――バコンッ!
触手の一撃。
盾にしたドアは弾き飛ばされた。
雨空へ回転しながら舞い上がる。
小野の視線が、浮いたドアへ吸い寄せられた。
(今だ!)
片瀬は廃車の屋根から飛び降り、渾身の蹴りを顎へ叩き込む。
衝撃で小野の背骨はぐっと反り返った。が、背から生えた触手が仰向けにならないように支え、押し戻した。
何の感情も宿していない赤い目が、間近で片瀬を見据える。
歯をむき出しにして、起き上がる勢いのまま、首筋に食らい付こうとする。
(……っ!)
弾けるように飛び引く。
そこで片瀬は、小野の異変に気付く。
膠喰体は、核が視覚や聴覚の役割を担っていた。
だが寄生された小野は違う。
核は出現せず、小野自身の目で動きを追っている。
(視覚を使っている……?)
高速に思考が巡る中、小野の充血した眼球はせわしなく動く。
身を隠そうとしていた片瀬を捕捉。
右腕から伸びた触手が片瀬の頭を、
(やばいっ!)
首を傾けて回避。風圧で髪が逆立つ。
続けざまに左腕の触手が振るわれ、廃車のボンネットを引き裂いた。
次々と繰り出される攻撃。
瓦礫で防御し、盾にしたコンクリートの塊が砕け、破片が顔をかすめ、頬に裂傷。
止まらない連撃だ。
徐々に念動力の制御が乱雑になっていく。
「はぁ、はぁ、はぁ」
肺が焼けそうな息切れ。
死に直結しそうな一撃を回避するたび、体力は消耗する。
そこへ致命的な隙が生じた。
――バチンッ!
攻撃を躱そうと捻った片瀬の身体が、コマのように回転。
ついに避けきれず、触手の先端が右腕を打ち付けた。
路面を転げるも、何とか体勢を整えた。
右腕のスーツの袖を溶かし、肌にじりじりとした熱が伝う。
「っつぅ……」
激痛。
さっきは念動力の障壁で防ごうとしたが、ダメだった。
連戦で使いすぎた念動力が、ついに限界を迎えた。
小野の背から伸びた触手が、アスファルトを舐める。
今度は確実に致命傷を狙ってくる。
片瀬は後退り、廃車の陰に身を隠す。
超能力だけではない、体力そのものも限界。
体調も酷い。視界はチカチカと白く染まり、耳元で血潮が騒ぐ。
念動力に意識を向けても、掴んだ砂が指の間から零れ落ちていくように集中が定まらない。脳裏に走る鋭い痛みが、念動力の発動を阻害した。
「はぁ、はぁ、はぁ……くっ、くそっ」
傷ついた右腕から血が滴り、水溜りを薄く赤く染める。
その赤がじわじわと広がっていく様は、命そのものが地面に吸い込まれていくようだった。
窓ガラスの割れたボロボロになった廃車へ、背を預ける。
仲間たちは無事に逃げられたはず。藍川の運転なら、きっと大丈夫。そう思ったとき、八重歯をのぞかせて笑う彼女の笑顔が浮かぶ。
指で唇に触れれば、あの短いキスの温もりがまだ残っていた。
(約束、したからな)
ぐらつく足で立ち上がる。
無意識に左腕の古傷を撫でた。
何年経っても消えない痕が、今でも疼く。
念動力は、もう使えない。だが、体一つで戦う術はまだ残っている。
「……来い」
かすれた声で挑む。
雨に濡れた前髪の隙間から、決意で滾る瞳が光っていた。




