43話 カーアクション
片瀬は五階から飛び降りた。
念動力による無形の力が、重力の奔流を緩和する。
落下の勢いは抑えられ、彼の身体はまるで水底を漂うかのような浮遊感に包まれていた。
着地と同時に、立ち昇っていた雨粒は空中に留まる。
雨の一粒一粒がヘッドライトに反射して輝き、まるで時間が止まったかのように揺らめいた。
「片瀬さん?」
藍川の声には、信じられないという驚きと再会の喜び、そして今にもドアを開けて飛び出したい衝動に駆られていた。
「待たせたな」
そう口にした途端。
片瀬は本能的な危険を察知して顔を上げた。
上空から、小野が落下してくる。
「!?」
異形の触手へと変貌した両下肢は、粘液を滴らせながら地面へと蛇行。二十メートルの自由落下だ。その物理的暴力に生身の構造など耐えられるはずもない。弾性限界を超え、生体組織は爆発的に崩壊する。
――グシャッ!
肉と骨、そしてゼラチン質が混ざり合って潰れる。
アスファルトに半透明のゲルが跳ね、鮮血のような軌跡を描いた。
ひしゃげて飛散した組織は、未だに蠢く。
無数の細い触手が空を掴もうとしているかのように痙攣していた。
衝撃でめくり上がった小野のスカートの下に、人間の脚はない。太腿の断面は、粘液を垂らす触手の根元がむき出しになっている。
それでも、小野の顔は無機質だ。
呼吸の跡さえ感じられず、もはや生きた人間と呼べる代物ではない。充血した眼球は焦点を定めず、まつ毛に引っかかった雨粒さえ瞬きで払わず、まるで感情という回路そのものが切除されているかのようだった。
「っ!」
ここで迷わず、両手を前に突き出す。念動力による衝撃波だ。
――パンッ!
渦が空間を歪め、破裂音が響く。
小野が宙に浮く。吹き飛ばされる。
異形の身体はアスファルトを転がり、数十メートル先の放置車両に激突。
ボンネットはベッコリと凹み、フロントガラスは粉々に砕け散った。
「片瀬さん!トランクに乗って!」
藍川の呼びかけ。
車に向き直った片瀬は膝を深く曲げ、アスファルトを蹴る。身体が宙を舞った。
その跳躍は重力法則を嘲笑うかのように、優雅な軌跡を描く。
スローモーションのような滞空時間が、幻想的に映った。
小野が、その幻想を打ち砕く。
触手をバネにし、背にした車体を蹴って弾丸のように迫る。
片瀬は着地する直前に、閉まっていたトランクの蓋を念動力で吹き飛ばす。
鋼鉄の板は高く舞い上がる。
宙でその蓋を捉えると、両手でしっかりと掴み、全身の回転を乗せ、小野の進路に放り投げた。
高速回転しながら空気を切り裂く。
その軌跡は完璧な水平の円を描き、雨粒を切り裂くたびに細かな水煙を巻き上げる。
鋼鉄の刃と化したそれは、狙い違わず小野の胴体へと迫った。
それを、無造作に伸ばした触手で迎え撃つ。
重いトランクの蓋は、触手の一撃でガシャンッ!と真っ二つに折れ曲がった。
(あれでも止まらないのか……!)
わずかな足止め。でもそれで十分だった。
一瞬の隙を利用し、荷台へ飛び移る。
着地の衝撃が車体に伝わったのを皮切りに、藍川はアクセルを床まで踏み込んだ。
黒いセダンは猛発進。水溜りを跳ね上げながら道路へ飛び出す。片瀬は風圧と慣性で浮き上がりそうになるが、車体にしがみついて堪えた。
力強くハンドルを握る藍川の目には、瓦礫で埋まった道路が迫る。
放置車両、崩れた看板、倒れた電柱。
それらを避けるため、右に急ハンドルを切り、倒れた電柱をギリギリで回避する。
左にスピン、横転した車の隙間をくぐり抜ける。
減速することなく、右へ、左へ、スラロームのように車体を躍らせた。
鈴音は宇宙柄の靴をばたつかせ、「わああっ!」とアトラクションのような歓声を上げた。亜香里は娘を抱き締めながらも、目を輝かせて「すっごい運転!」と興奮気味に呟く。
「おっおおー!このスピン!プロ級だぞ!」
天沢も運転技術に興奮していた。
一方で剣崎は苦悶の表情で車酔いを堪えつつ「落ち着いて運転しろ」と弱々しく抗議するが、誰の耳にも届いていない。そして後部座席の中央にいる桐村は、白目で全身を硬直させ「死ぬ、死ぬ」と呟いている。
それでも減速しない。
水溜りにハンドルを取られそうになりながらも、アクセルを緩めずに完璧なコントロールを続けた。
「後ろだ!」
片瀬の警告に、一同が振り返った。
小野だ。小野が追ってきた。
彼女の両腕は、伸縮する鞭のような触手になっている。
電柱や廃車に絡ませては身体を引き寄せ、縮んだ触手がバネのように解放。
カタパルトのように飛来してくる。
念動力で空中の小野を押し戻そうとする。しかし、無理だった。
道路は瓦礫だらけ。
横転したバスや崩れたコンクリートブロックが、行く手を阻み、ステアリングを切るたびに車体が傾いて、トランクに乗る片瀬のバランスは定まらない。
小野の触手が路肩のブロックを掴む。
投擲だ。
割れたリアガラスに向かって、片瀬が吠える。
「左に寄れ!」
藍川がハンドルを切った。
右のサイドミラーが粉砕されると同時に、鈴音の悲鳴。
凹んで裂けた天井の隙間から雨風が吹き込む。
「加速しきれない」
エンジンの唸りが途切れかける。
道路には障害物が多すぎて、速度を上げられない。
しかもミラーに映る小野は、どんどん距離を詰めてくる。
「……っ!」
片瀬は振り落とされないように、念動力で車体に吸い付くように固定。
なおかつ、両脚で踏ん張り、さらに集中を深めた。
念動力の精度を、極限まで高める。
小野の触手が次に掴もうとする瞬間を狙う。
触手の先端が路傍の電柱に絡まろうとした。
それを見逃さず、念動力を働かせる。
無形の力が、触手の軌道をわずかに押し流す。
しなっていた触手は、空虚な空間を掴んだ。
狙った電柱の傍らを、すり抜けた。
宙で支えを失った小野。推進力を得られずにバランスを崩す。
そのまま勢い余ってアスファルトに叩きつけられた。
水飛沫を上げながら濡れた路面を転がる。
「しゃぁあっ!」
天沢が思わず勝利を噛みしめた。
安堵もつかの間、小野は足から伸びた触手で地面を蹴った。
宙で背中から触手がうねり出る。すると、蜘蛛の足ように触手を広げた体勢で立て直した。
「あり得ない!ずるいだろ!」
勘弁してくれ、天沢が絶望で頭を抱えながら叫ぶ。
小野は再び、周囲の瓦礫を掴んだ。
無差別ではない。
車体の進路を塞ぐように、狙い澄ました軌道で投げ放ってくる。
それを藍川は、見事なハンドルさばきで躱す。
だが次は砂利が投げ込まれた。
小石が車内に飛び込み、星座模様のスーツの袖をかすめた。
ミラー越しに、藍川の目が鋭く光る。
「掴まって!」
ここでサイドブレーキを引きながらの、急ハンドル。
車体が百八十度スピン。
道路脇の傾斜を利用し、車を反転させたのだ。
予測不可能な車の動きに、小野の追撃は一瞬だけ、止む。
セダンは急加速。異形と化した小野に向かい合う。
アクセルを全力で踏み込む。正面衝突を狙う――刹那。
「あっ!」
小野は後方頭上にある高架橋の鉄骨に向かって跳躍。触手を絡めた。
まるでサーカスの空中ブランコのように、その身体は弓なりに反る。
振り子のように下がり切ったところで、触手は鉄骨を放す。
雨粒がその軌跡に沿い、螺旋を描く。
――ドゴォン!
ルーフに着地。
金属の悲鳴と共に天井は大きく凹む。
この衝撃で藍川は反射的に急ブレーキ。
車体が傾き、雨に濡れたタイヤが空転する。
慌ててカウンターステアを切るが、バランスを崩した車体は回転を始めた。
「くっ!」
完全に制御を失った車体。
片瀬が念動力で支えようとするが、重い。支え切れない。
小野は手の届く距離にいるのに、対処できない。
ルーフに張り付く小野の一つの触手が、先端を鋭く尖らせた。
それは金属の槍の如く、車体の天井めがけて振り下ろされる。
鋭く尖った触手が、ズドン!と後部座席の真ん中に突き刺さった。
座席を貫通し、アスファルトにまで達する一撃。
車体全体が跳ね上がるほどの衝撃で、スリップしていた車体は急停止した。
「は?」
桐村の顔が青ざめた。触手の槍は、ちょうど彼の両膝の間を貫いていた。
数センチの差が、生死を。いや、彼の息子の未来を分けた。
「……あっぶねぇ」
それを見た天沢は自分の下腹部がキュッと締め付けられるのを感じ、「ひゃっ」と股間を押さえる。桐村もハッとして、慌てて自分の股間を両手で覆うのであった。




