42話 命運
前触れもなく、パンッと破裂するような音した。
雨に濡れた路面に衝撃が伝わり、水たまりが巨大な波紋を描く。
それは非常階段からアスファルトの地面に叩きつけられた、ナニか。
「なんだ!?」
車内から天沢が懐中電灯を当てる。
光の届く範囲には何も映らない。
ただ、ザザザ……と水音。
這うような、動きの音。
光の届かない闇の奥で、得体の知れない何かが起き上がろうとしている。
「どこだ?見えない!」
桐村の声によって、より一同の息が浅くなる。
ガリ……ガリ……。
爪でアスファルトを引っ掻くような音。
時折、粘り気のある何かが地面を這う音が混じる。
剣崎の右手は、無意識に拳を握る。
溶解した皮膚が引きつる痛みすら忘れるほど、全神経が集中した。
風向きが変わったのか、エアコンから腐敗臭が車内に流れ込む。
死魚と鉄錆を混ぜたような、吐き気を催す悪臭だ。
「あれ!」
鈴音の怯えた声と同時に、懐中電灯の光の端が、何かしらの輪郭を捉えた。
――権藤だった。
否、上半身は人間のまま、腰から下は無数の触手が蠢く異形。
ギリシャ神話のスキュラを彷彿とさせる、真の怪物。
「……部長?」
桐村がそう言うと、怪物の瞳孔がカッと見開かれた。
「……き、きり……むらぁ……」
まだ生きていた。
膠喰体は彼を半ばまで喰い込んだまま、完全には捕食していなかった。
下半身から生えたように伸びている触手。
彷徨うように、うねっていた動きがピタリと止まる。
そして狙いを定めたのか、向き直って、動く。
強風をものともせず一直線に迫る。
軽量なはずの膠喰体が風雨で吹き飛ばされないのは一目瞭然だった。
権藤の肥満体が錘となり、動きを安定させたのだ。
これまで、人を道具のように扱ってきた権藤。
部下を、同僚を、弱者を。自分の目的のために利用し、用済みになれば捨てた。その代償として、今、彼自身が膠喰体の錘として、道具として利用されていた。
「……っ!」
藍川は即座にギアを入れ、アクセルを踏み込む。
閃光のような反射神経でハンドルを切り、黒いセダンは素早く旋回。タイヤが水溜りを蹴り上げ、車体は横滑りしながら異形の権藤の突進をかすめた。
後部ミラーに映った権藤。
信じられない速度で追ってくる。
動きは異様だ。
脚変わりになった八本の触手は、一本一本が独立した意思を持っているかのように、それぞれ別々のリズムで地面を叩き、蹴り、身体を前に押しやる。
アスファルトを舐めるように這い、肥えた腹は地面に擦れ、皮膚が捲れ、肉を削りながら突き進む。
距離が詰まる。
そこへ八本の触手が深く曲がった。
それは溜め。
触手の筋肉が膨れ上がり、アスファルトが砕けるような蹴りで跳躍。
車までの距離を一気に縮める。
――ドンッ!
ルーフに着地。衝撃で車体が沈む。
「上にっ、天井にいるぞ!」
天井が陥没。ドン!ドン!触手が鋼板を容赦なく連打する。
まるでハンマーで叩きつけられるような衝撃だ。
「きゃああっ!」
鈴音の悲鳴。幼い喉が引き裂かれんばかりに車内を駆け巡る。
亜香里は娘を抱きしめた。
天沢は咄嗟に変形した天井を押し戻そうとする。
理性を保つ糸が切れそうだった。
鈴音の悲鳴も、エンジン音も、全てが遠のく。
――ガシャン!
触手がリアガラスを叩き割った。
割れたガラスの向こう側で、権藤がのぞき込む。
眼球は片方が脱落しかけていた。
その表情は、人間性を憎悪で塗りつぶしている。
「お前らも、道連れにしてやる」
権藤の唇が動く。それは声ではなく、唾液の泡立つ音だけ。だが、少なくとも桐村には伝わった。彼に向けられたその目には、見捨てられた報復、裏切られた屈辱、去り際の憐みの目。それら全てが怨恨となって凝縮していた。
「みんな掴まって!」
藍川は臆することなくハンドルを握りしめていた。
八重歯で下唇を噛み、刹那に状況判断を下す。
仲間を守るため、ぐっとアクセルを床まで踏み込む。
エンジンが咆哮を上げた。猛然と加速。
「行きます!」
宣言と同時に、ハンドルを思い切り右へ切る。
同時にサイドブレーキを一瞬だけ引き上げた。
右前輪を縁石に乗り上げると、車体は四十五度に傾く。
絶妙なバランスを保って片輪走行へと移行。
壁面ぎりぎりを、タイヤのサイドウォールを削りながら疾走していく。
運転技術に驚愕した天沢は星座模様のスーツの袖を握りしめながら、「マジかよ!」と絶叫。思わず前方の助手席にしがみつく。
「壁にぶつかる!」
狙いは明快だった。
天井にいる権藤を加速や急ハンドルで怪物を振り落とすのではなく、窮地を逆手に取った物理的な排除。
片輪走行をするセダン。
そのままビルの側面コンクリート壁に、猛スピードで接近。
車体が壁と、ほぼ平行になる。
藍川はハンドルを微調整し、天井が壁面に激しく擦れ合う角度を確実に作り出す。
権藤が張り付いている車の天井が、ビル外壁面に激しく擦れた。
鋼鉄とコンクリートが激しく軋み合い、轟音が車内を揺るがす。
――ギャリギャリギャリ!!
壁との狭間で、押し潰されていく。
金属の歪む音、肉の潰れる鈍音、コンクリートが剥がれる砂嵐のような音、それら全てが耳の表面で爆発的に混ざり合う。
ほんの数秒が数分にも感じられた。
コンクリートに骨肉がすり潰される衝撃は、風雨の唸りに混ざり合っていく。
――グシャアアアアッ!
断末魔のような、何かがひしゃげる音が炸裂。
触手が壁に抉られ、権藤の巨体が車体から剥がれる。
いや、剥がされたのではない。削り取られたのだ。
壁面との摩擦で、触手は千切れ飛び、溶けた肉片が硝煙のように舞い散る。
八本あった脚のうち、半数が壁にへばりついたまま、びよんと伸びきって千切れていた。
体重を支える触手を失った怪物は、空中でバランスを崩す。
ドサリと鈍い音を立て、アスファルトへ叩きつけられた。
水溜りが弾け、黒い液体が飛び散る。
壁面に削り取られた触手は、なおもしばらく痙攣していた。
権藤はまだ息をしている。
「……た、助……」
助けを求めようと伸ばした指先に、届くものはない。
権藤の下半身へ絡みついていた触手は、一斉にほどけた。
未練など微塵もない。
壊れた道具を捨てるように、半透明の粘液は権藤の身体から離れていく。
「……ぁ」
権藤は理解した。
最後まで利用されていただけ。
錘としての役目を終えた今、自分にはもう価値がない。
使えない者は切り捨てる。最後に切り捨てられたのは、自分だった。
雨が、物言わぬ肉塊を洗い流していく。
ドシンッ――。
遅れて、車体が地面へと戻った。
フロントガラスに血の川が横切った。
藍川は鋭くハンドルを切り戻し、車体を安定させる。
そのままセダンは水しぶきをあげてUターン。ヘッドライトの光を、アスファルトに転がる権藤の残骸へと向けた。
光に照らし出されたのは、すでに動きを止めた怪物の成れの果て。
権藤の上半身は原型をほとんど留めていない、ぐちゃぐちゃの肉塊と化している。
残された触手は、強風に攫われ、夜の闇へと消えていく。
権藤だった肉塊からは黒い液体が雨に流され、周囲のアスファルトを染め広げていく。
ただ風雨に晒されるまま、有機物としての役目を終えていた。
「おっ、おっしゃぁあああ!」
天沢がガッツポーズで雄叫ぶ。
鈴音は濡れた宇宙柄の靴で床を踏み鳴らし、「藍川さん、すごいっ!」と声を弾ませた。亜香里は抱き締めていた娘の肩を解き、震える唇で独り言をつぶやく。
「これが自動車整備士の運転なのね」
「んな訳あるか」
桐村の突っ込みがすぐに続いた。
ほっと胸を撫で下ろしていると、不思議な現象が起こった。
アスファルトの水溜りに、無数の波紋が生まれた。
周囲の雨粒は落下速度を緩め、銀色の細い糸となる。
やがてそれらは重力に逆らうように、一斉に浮き上がった。
雨粒が浮遊している。
ヘッドライトに照らされて、水滴がきらめいている。
無数の光の粒がゆらめくその様に、誰もが見惚れた。
バンッ!
非常階段の上から何かが落下した。
車内の空気が凍りつく。
新たな怪物の出現を予感したのだ。
しかし、それは美しかった。
懐中電灯が反射する。
浮き上がる雨のカーテン。
舞い上がる雨粒。
逆巻く風。
その中央に、一人の男が膝をついて着地していた。
「片瀬さん?」
雨に濡れた黒髪。
裂けたスーツ。
息は荒い。
それでも彼はゆっくり立ち上がる。
「待たせたな」
口元が、ほんの僅かに緩んでいた。
周囲を舞っていた無数の光る雨粒が、一斉に降り注ぐ。
まるで天からの祝福のように。路面に吸い込まれていった。




