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ゲルイーター  作者: 禍福
エピソードⅠ 秘密
42/48

41話 十八年前

 トランクから荷物を放り出し、雨に濡れた前髪から覗く、意志の強い眼差し。

 そんな藍川一九は、剣崎にとって幼い頃から知っている、親友の娘だ。


(……まったく)


 苦笑が漏れた。

 こんな風に無茶をする人間を、剣崎は知っているから。


(本当に……良春にそっくりだな)


 遠い昔の記憶。




 十八年前。

 長野県のとある警察署。

 事件を一つ片付けた刑事たちが、ようやく慌ただしさから解放され始めた頃だった。


「藍川ぁ!」


 刑事課に怒鳴り声が響く。


「はいはい」

「はいはいじゃない!」


 当の本人は、悪びれる様子もなくカップ麺を片手に歩いてきた。

 課長が机へ、一枚の紙を叩き付ける。


「まただ!」

「えぇっまたですか」

「そうだ!まただ!」


 課内から小さな笑いが漏れる。そのやり取りだけで、何のことか誰もがわかっていた。

 良春は紙を手に取る。そこには大きく『始末書』と書かれていた。


「今回の理由は、何かわかるか!?」


 良春が首を傾げる。

 課長は額に青筋を浮かべた。


「逃走中の犯人をほっぽり出して、河川へ飛び込んだろ!」

「ああ、それ」

「ああ、それ、じゃない!」

「子どもが溺れてたんですよ」

「消防を待て!」

「間に合わなかったらヤバいと思ったんで」

「だからって飛び込むか普通!」

「助かったから結果オーライ?」

「そういう問題じゃない!」


 課内の刑事たちが肩を震わせる。


「また課長に怒られてる」

「毎回あれだな」

「藍川も慣れてるし」


 すっかり恒例行事だった。

 課長は深いため息を吐く。


「……これで何枚目だ」


 良春は真面目に考える。


「三枚?」

「四枚目だ!」

「あ、増えてた。」

「増えてたじゃない!お前、暫く謹慎だからな!」

「えっ休みですか!」

「嬉しそうにするな」


 ついに課長は頭を抱えた。


「お前は刑事なのか、レスキュー隊なのか、どっちなんだ!」


 良春は少しだけ考え込む。


「刑事です」

「なら犯人を追え!」

「追いましたよ」

「じゃあ飛び込むな!」

「でも子どもが」

「結局、子どもは自力で這い上がったんだろうが!」

「そうなんですよ!よかった、よかった」

「よくなーい!」


 課内はとうとう笑いに包まれた。

 その様子を、少し離れた席から剣崎が腕を組んで眺めていた。


「また始まった」


 誰にともなく呟く。

 隣にいた壮年の刑事が苦笑する。


「剣崎、お前の同期だろ、止めなくていいのか?」

「止めても無駄ですよ。あいつは昔からああでしたから」


 良春は困っている人間を見ると、自分の命も規則も後回しになる。何度注意しても直らない。だから剣崎は、もう諦めていた。いや。本当は違う。諦めたのではない。放っておけなかった。

 無茶をするあいつの隣には、誰かがいなければならない。だから今日も、結局は自分が付いて行った。それが親友というものだ。


「おい、良春……どうせ始末書で帰りは遅くなるんだろ、飯行くぞ」


 剣崎が声を掛ける。

 課長が呆れ顔で二人を見た。


「反省してるのか、お前ら」


 良春は始末書を畳みながら笑った。


「ちゃんと書きますから」

「そこじゃねぇ」

「じゃあ飯食いながら反省します」

「反省する気あるのか!」


 課内にもう一度笑いが起こる。

 良春はカップ麺のスープを飲み干し、剣崎の隣へ並んだ。


「今日は、お前の奢りな」

「始末書を書く奴が言う台詞か」


 空は茜色に染まり始めていた。

 仕事終わりの車が行き交い、街には夕飯前の慌ただしさが漂っている。

 良春は背伸びをしながら大きく欠伸をした。


「腹減ったなぁ」

「さっき署でカップ麺食ってただろ」

「あれはおやつ」

「三十代のおっさんが言う台詞じゃねぇな」

「まだ二十九」

「どうでもいい」


 二人は並んで歩く。行きつけのコンビニまで、徒歩三分。

 店員は二人の顔を見るなり笑った。


「今日は事件ですか?」

「今日は平和」

「こいつはこれから始末書だがな」


 剣崎が横から口を挟む。

 店員は苦笑した。


「ああ、またですか」

「そうらしい」

「他人事か」


 剣崎は缶コーヒーを

 良春は、おにぎりを三つ。


「食い過ぎだろ」

「一個やろうかと思って」

「いらん、戻してこい」

「じゃあ三つとも食う」

「だから食い過ぎだ」


 会計を済ませると、店の前のベンチへ腰を下ろした。

 夕暮れの風は心地いい。

 事件の緊張だけが、少しずつ身体から抜けていく。

 良春はおにぎりの包装を開けながら笑った。


「今日の課長、怒ってたなぁ」

「お前が怒らせた」

「でも最後笑ってた」

「呆れてただけだ」

「同じようなもんだろ」


 剣崎は缶コーヒーを開ける。

 プシュッという音だけが静かな空気へ溶けた。

 しばらく何も話さない。それが二人には心地良かった。


 その時、道路の向こう側で大きな怒鳴り声がした。

 スーツ姿の男が、高齢の女性へ怒鳴っていた。

 どうやら自転車同士が接触したらしい。買い物袋が破れ、ネギや豆腐が歩道へ散らばっている。老婆は何度も頭を下げていた。


「す、すみません……」

「謝れば済むと思ってんのか!」


 周囲の人は立ち止まるが、誰も間へ入ろうとはしない。

 剣崎は横目で良春を見る。嫌な予感しかしない。


「おい」

「ん?」

「行くな」

「困ってる」

「警察呼ばれるぞ」

「俺、警察」

「お前は謹慎中だろうが」


 良春は立ち上がった。


「それ明日からだし」

「おい!」


 止める間もなく道路を渡る。


「まぁまぁ。落ち着いて」


 怒鳴る男と老婆の間へ自然と入った。


「誰だあんた!」

「通りすがり」


 嘘ではない。

 男はさらに声を荒らげる。


「この婆さんが!」

「怪我した?」


 良春は男ではなく、老婆へ尋ねた。


「痛いとこある?」

「だ、大丈夫です……」

「よかった、よかった」


 今度は男を見る。


「あなたは?」

「俺もねぇよ!」

「じゃあ、よかった」


 男は毒気を抜かれたように固まる。


「え?」

「怪我人いないなら、一番よかった」


 良春はしゃがみ込み、散らばった野菜を拾い始めた。

 豆腐は崩れてしまっている。


「おっ、意外とこれ、まだ食えるんじゃね?」

「ちょっ、おい!」


 男はまだ怒っている。

 しかし良春は怒鳴り返さない。責めもしない。ただ静かに言う。


「怒る気持ちは分かる。でも」


 ネギを袋へ入れながら、一拍置く。


「今日一日を嫌な日で終わらせるのは、もったいない」


 男は何も言えなかった。

 老婆も呆然としている。

 良春は袋を持ち上げた。


「ほら」


 老婆へ返した。


「ありがとうございます……」


 深く頭を下げる。

 男はしばらく黙っていたが、「……もういい」と呟いて自転車へ跨った。


「俺も言い過ぎた」


 そのまま去っていく。

 老婆は何度も頭を下げていた。


「本当にありがとうございます」

「気を付けて帰って」


 それだけ。良春は何事もなかったようにベンチへ戻る。おにぎりはすっかり冷めていた。

 剣崎はため息をつく。


「何でもかんでも首を突っ込むな」

「放っとけなかった」

「毎回それだ」


 良春は笑う。


「うん」


 剣崎は缶コーヒーを一口飲む。

 そして少しだけ真面目な声になる。


「……何でそこまで出来る」


 良春は少しだけ考えた。考えて。照れ臭そうに笑う。


「分かんねぇ」

「は?」

「考えたことない」


 剣崎は呆れ返る。


「本能か」

「どうだろ?」


 少しだけ空を見上げた。

 夕焼けが街を優しく染めている。


「でもさ。困ってる人を見て、助けなかった後悔って、結構長く残るんだよ」


 夕日に照らされた横顔。声は穏やかだった。


「だから俺は、助けて後悔する方を選ぶ」


 良春はニカっと人懐っこい笑顔を見せる。


「だから剣崎、助けて……俺、今月もうお金ない」

「知るか」


 二人は笑いあった。

 この頃の剣崎は、まだ知らない。

 この何気ない日々が、永遠には続かないことを。




 始末書を書き終えた帰り道。二人は住宅街へ入っていた。良春が立ち止まる。


「ちょっと寄って行くだろ」


 門柱には、藍川と表札が掛かっていた。玄関の扉を開ける。


「ただいまー!」


 その声と同時に。小さな足音が家の奥から駆けてくる。


「おとうさーーん!」


 まだ五歳くらいの女の子だった。勢いよく良春へ飛び付く。良春は笑いながら抱き上げた。


「おっとっと」

「おかえり!」

「ただいま」

「今日ね!」


 女の子は一生懸命話し始める。


「ようちえんでね!」

「うん」

「おえかきした!」

「へぇ」

「先生にほめられた!」

「マジか!すっげえな!見せてくれ!」


 良春の姿を見た剣崎は、思わず笑った。


「お前」

「ん?」

「署にいる時と別人だな」

「そうか?」

「顔が緩み過ぎだ」

「そうかも」


 玄関の奥から女性が顔を出した。


「お帰りなさい」

「ほい、ただいま」


 柔らかく微笑む。

 良春は少し照れ臭そうに頭を掻いた。


「今日は遅かったわね」

「大丈夫!明日から暫く休みだから!」

「こいつ、一週間の謹慎」


 剣崎があっさりバラした。

 奥さんは苦笑する。


「またですか」

「……すみません」

「もう慣れました」


 三人とも笑う。その空気が、とても自然だった。温かかった。

 幼い一九は剣崎を見つける。


「あっ!」


 小さな指を向けた。


「けんちゃんだ!」

「誰がけんちゃんだ」

「けんちゃん!」

「剣崎さん、だ」

「だっふんだぁ!」


 どうやら譲る気はないらしい。剣崎は深いため息をついた。


「……まぁいい」


 一九は満足そうに笑う。

 その笑顔を見て、良春も笑う。


「悪いな」

「お前が甘やかすからだ」

「いいじゃねぇか、可愛いだろ」

「ったく」


 奥さんが笑いながら言う。


「この子、本当に剣崎さん好きなんですよ」

「何でだ」

「よく遊んでくれるから」

「遊んでねぇ」


 一九は剣崎の足へしがみ付く。


「けんちゃん、あそぼ!」

「今日はもう遅いから帰る」

「やだ」

「帰る」

「やだ」


 剣崎は困り果てる。

 その様子を見て良春は腹を抱えて笑っていた。


「はははは!」

「笑うな!」

「珍しく困ってる」

「元はと言えばお前の娘だ!」


 家中に笑い声が響いた。

 少しだけ静かになった頃。良春は娘の頭をそっと撫でる。その表情だけは刑事ではなく、一人の父親だった。


「一九」

「なぁに?」

「お父さんな、お前には、いっぱい笑っててほしい」


 一九は意味が分からないまま頷いた。


「うん!」


 その返事だけで十分だった。

 良春はもう一度頭を撫でる。


「それだけでいい」


 剣崎は、その横顔を見つめていた。

 仕事では無茶ばかりする男だ。始末書も山ほど書く。困っている人を見れば、自分の命など考えず飛び込む。呆れることばかりだ。


(……だからか)


 ようやく分かった気がした。

 良春は自分の家族だけではなく、誰かの家族まで守ろうとしている。だから危なっかしい、だから放っておけない。


 そして今。




 目の前にいる良春の娘が、同じ目をしていた。


 風雨の中、トランクから荷物を放り出した。

 雨に濡れた睫毛。

 泥に汚れた指先。

 冷えきって震えているくせに、ハンドルを握る手だけは離さない。


「これで、片瀬さんも乗れます」


 その声には震えがあった。

 けれど、退く気配はどこにもない。

 剣崎は小さく息を吐いた。


(……親子そろって、無茶ばかりしやがる)


 胸の奥に、懐かしくも心地いい痛みが走る。

 良春に文句を言っていた頃と、同じ痛みだった。


「ったく……勝手にしろ」


 口から出た言葉はぶっきらぼう。

 だが、それ以上は止められない。

 止めたところで、この目をした人間は止まらない。

 それを誰よりも、剣崎はよく知っていた。

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