41話 十八年前
トランクから荷物を放り出し、雨に濡れた前髪から覗く、意志の強い眼差し。
そんな藍川一九は、剣崎にとって幼い頃から知っている、親友の娘だ。
(……まったく)
苦笑が漏れた。
こんな風に無茶をする人間を、剣崎は知っているから。
(本当に……良春にそっくりだな)
遠い昔の記憶。
◇
十八年前。
長野県のとある警察署。
事件を一つ片付けた刑事たちが、ようやく慌ただしさから解放され始めた頃だった。
「藍川ぁ!」
刑事課に怒鳴り声が響く。
「はいはい」
「はいはいじゃない!」
当の本人は、悪びれる様子もなくカップ麺を片手に歩いてきた。
課長が机へ、一枚の紙を叩き付ける。
「まただ!」
「えぇっまたですか」
「そうだ!まただ!」
課内から小さな笑いが漏れる。そのやり取りだけで、何のことか誰もがわかっていた。
良春は紙を手に取る。そこには大きく『始末書』と書かれていた。
「今回の理由は、何かわかるか!?」
良春が首を傾げる。
課長は額に青筋を浮かべた。
「逃走中の犯人をほっぽり出して、河川へ飛び込んだろ!」
「ああ、それ」
「ああ、それ、じゃない!」
「子どもが溺れてたんですよ」
「消防を待て!」
「間に合わなかったらヤバいと思ったんで」
「だからって飛び込むか普通!」
「助かったから結果オーライ?」
「そういう問題じゃない!」
課内の刑事たちが肩を震わせる。
「また課長に怒られてる」
「毎回あれだな」
「藍川も慣れてるし」
すっかり恒例行事だった。
課長は深いため息を吐く。
「……これで何枚目だ」
良春は真面目に考える。
「三枚?」
「四枚目だ!」
「あ、増えてた。」
「増えてたじゃない!お前、暫く謹慎だからな!」
「えっ休みですか!」
「嬉しそうにするな」
ついに課長は頭を抱えた。
「お前は刑事なのか、レスキュー隊なのか、どっちなんだ!」
良春は少しだけ考え込む。
「刑事です」
「なら犯人を追え!」
「追いましたよ」
「じゃあ飛び込むな!」
「でも子どもが」
「結局、子どもは自力で這い上がったんだろうが!」
「そうなんですよ!よかった、よかった」
「よくなーい!」
課内はとうとう笑いに包まれた。
その様子を、少し離れた席から剣崎が腕を組んで眺めていた。
「また始まった」
誰にともなく呟く。
隣にいた壮年の刑事が苦笑する。
「剣崎、お前の同期だろ、止めなくていいのか?」
「止めても無駄ですよ。あいつは昔からああでしたから」
良春は困っている人間を見ると、自分の命も規則も後回しになる。何度注意しても直らない。だから剣崎は、もう諦めていた。いや。本当は違う。諦めたのではない。放っておけなかった。
無茶をするあいつの隣には、誰かがいなければならない。だから今日も、結局は自分が付いて行った。それが親友というものだ。
「おい、良春……どうせ始末書で帰りは遅くなるんだろ、飯行くぞ」
剣崎が声を掛ける。
課長が呆れ顔で二人を見た。
「反省してるのか、お前ら」
良春は始末書を畳みながら笑った。
「ちゃんと書きますから」
「そこじゃねぇ」
「じゃあ飯食いながら反省します」
「反省する気あるのか!」
課内にもう一度笑いが起こる。
良春はカップ麺のスープを飲み干し、剣崎の隣へ並んだ。
「今日は、お前の奢りな」
「始末書を書く奴が言う台詞か」
空は茜色に染まり始めていた。
仕事終わりの車が行き交い、街には夕飯前の慌ただしさが漂っている。
良春は背伸びをしながら大きく欠伸をした。
「腹減ったなぁ」
「さっき署でカップ麺食ってただろ」
「あれはおやつ」
「三十代のおっさんが言う台詞じゃねぇな」
「まだ二十九」
「どうでもいい」
二人は並んで歩く。行きつけのコンビニまで、徒歩三分。
店員は二人の顔を見るなり笑った。
「今日は事件ですか?」
「今日は平和」
「こいつはこれから始末書だがな」
剣崎が横から口を挟む。
店員は苦笑した。
「ああ、またですか」
「そうらしい」
「他人事か」
剣崎は缶コーヒーを
良春は、おにぎりを三つ。
「食い過ぎだろ」
「一個やろうかと思って」
「いらん、戻してこい」
「じゃあ三つとも食う」
「だから食い過ぎだ」
会計を済ませると、店の前のベンチへ腰を下ろした。
夕暮れの風は心地いい。
事件の緊張だけが、少しずつ身体から抜けていく。
良春はおにぎりの包装を開けながら笑った。
「今日の課長、怒ってたなぁ」
「お前が怒らせた」
「でも最後笑ってた」
「呆れてただけだ」
「同じようなもんだろ」
剣崎は缶コーヒーを開ける。
プシュッという音だけが静かな空気へ溶けた。
しばらく何も話さない。それが二人には心地良かった。
その時、道路の向こう側で大きな怒鳴り声がした。
スーツ姿の男が、高齢の女性へ怒鳴っていた。
どうやら自転車同士が接触したらしい。買い物袋が破れ、ネギや豆腐が歩道へ散らばっている。老婆は何度も頭を下げていた。
「す、すみません……」
「謝れば済むと思ってんのか!」
周囲の人は立ち止まるが、誰も間へ入ろうとはしない。
剣崎は横目で良春を見る。嫌な予感しかしない。
「おい」
「ん?」
「行くな」
「困ってる」
「警察呼ばれるぞ」
「俺、警察」
「お前は謹慎中だろうが」
良春は立ち上がった。
「それ明日からだし」
「おい!」
止める間もなく道路を渡る。
「まぁまぁ。落ち着いて」
怒鳴る男と老婆の間へ自然と入った。
「誰だあんた!」
「通りすがり」
嘘ではない。
男はさらに声を荒らげる。
「この婆さんが!」
「怪我した?」
良春は男ではなく、老婆へ尋ねた。
「痛いとこある?」
「だ、大丈夫です……」
「よかった、よかった」
今度は男を見る。
「あなたは?」
「俺もねぇよ!」
「じゃあ、よかった」
男は毒気を抜かれたように固まる。
「え?」
「怪我人いないなら、一番よかった」
良春はしゃがみ込み、散らばった野菜を拾い始めた。
豆腐は崩れてしまっている。
「おっ、意外とこれ、まだ食えるんじゃね?」
「ちょっ、おい!」
男はまだ怒っている。
しかし良春は怒鳴り返さない。責めもしない。ただ静かに言う。
「怒る気持ちは分かる。でも」
ネギを袋へ入れながら、一拍置く。
「今日一日を嫌な日で終わらせるのは、もったいない」
男は何も言えなかった。
老婆も呆然としている。
良春は袋を持ち上げた。
「ほら」
老婆へ返した。
「ありがとうございます……」
深く頭を下げる。
男はしばらく黙っていたが、「……もういい」と呟いて自転車へ跨った。
「俺も言い過ぎた」
そのまま去っていく。
老婆は何度も頭を下げていた。
「本当にありがとうございます」
「気を付けて帰って」
それだけ。良春は何事もなかったようにベンチへ戻る。おにぎりはすっかり冷めていた。
剣崎はため息をつく。
「何でもかんでも首を突っ込むな」
「放っとけなかった」
「毎回それだ」
良春は笑う。
「うん」
剣崎は缶コーヒーを一口飲む。
そして少しだけ真面目な声になる。
「……何でそこまで出来る」
良春は少しだけ考えた。考えて。照れ臭そうに笑う。
「分かんねぇ」
「は?」
「考えたことない」
剣崎は呆れ返る。
「本能か」
「どうだろ?」
少しだけ空を見上げた。
夕焼けが街を優しく染めている。
「でもさ。困ってる人を見て、助けなかった後悔って、結構長く残るんだよ」
夕日に照らされた横顔。声は穏やかだった。
「だから俺は、助けて後悔する方を選ぶ」
良春はニカっと人懐っこい笑顔を見せる。
「だから剣崎、助けて……俺、今月もうお金ない」
「知るか」
二人は笑いあった。
この頃の剣崎は、まだ知らない。
この何気ない日々が、永遠には続かないことを。
◇
始末書を書き終えた帰り道。二人は住宅街へ入っていた。良春が立ち止まる。
「ちょっと寄って行くだろ」
門柱には、藍川と表札が掛かっていた。玄関の扉を開ける。
「ただいまー!」
その声と同時に。小さな足音が家の奥から駆けてくる。
「おとうさーーん!」
まだ五歳くらいの女の子だった。勢いよく良春へ飛び付く。良春は笑いながら抱き上げた。
「おっとっと」
「おかえり!」
「ただいま」
「今日ね!」
女の子は一生懸命話し始める。
「ようちえんでね!」
「うん」
「おえかきした!」
「へぇ」
「先生にほめられた!」
「マジか!すっげえな!見せてくれ!」
良春の姿を見た剣崎は、思わず笑った。
「お前」
「ん?」
「署にいる時と別人だな」
「そうか?」
「顔が緩み過ぎだ」
「そうかも」
玄関の奥から女性が顔を出した。
「お帰りなさい」
「ほい、ただいま」
柔らかく微笑む。
良春は少し照れ臭そうに頭を掻いた。
「今日は遅かったわね」
「大丈夫!明日から暫く休みだから!」
「こいつ、一週間の謹慎」
剣崎があっさりバラした。
奥さんは苦笑する。
「またですか」
「……すみません」
「もう慣れました」
三人とも笑う。その空気が、とても自然だった。温かかった。
幼い一九は剣崎を見つける。
「あっ!」
小さな指を向けた。
「けんちゃんだ!」
「誰がけんちゃんだ」
「けんちゃん!」
「剣崎さん、だ」
「だっふんだぁ!」
どうやら譲る気はないらしい。剣崎は深いため息をついた。
「……まぁいい」
一九は満足そうに笑う。
その笑顔を見て、良春も笑う。
「悪いな」
「お前が甘やかすからだ」
「いいじゃねぇか、可愛いだろ」
「ったく」
奥さんが笑いながら言う。
「この子、本当に剣崎さん好きなんですよ」
「何でだ」
「よく遊んでくれるから」
「遊んでねぇ」
一九は剣崎の足へしがみ付く。
「けんちゃん、あそぼ!」
「今日はもう遅いから帰る」
「やだ」
「帰る」
「やだ」
剣崎は困り果てる。
その様子を見て良春は腹を抱えて笑っていた。
「はははは!」
「笑うな!」
「珍しく困ってる」
「元はと言えばお前の娘だ!」
家中に笑い声が響いた。
少しだけ静かになった頃。良春は娘の頭をそっと撫でる。その表情だけは刑事ではなく、一人の父親だった。
「一九」
「なぁに?」
「お父さんな、お前には、いっぱい笑っててほしい」
一九は意味が分からないまま頷いた。
「うん!」
その返事だけで十分だった。
良春はもう一度頭を撫でる。
「それだけでいい」
剣崎は、その横顔を見つめていた。
仕事では無茶ばかりする男だ。始末書も山ほど書く。困っている人を見れば、自分の命など考えず飛び込む。呆れることばかりだ。
(……だからか)
ようやく分かった気がした。
良春は自分の家族だけではなく、誰かの家族まで守ろうとしている。だから危なっかしい、だから放っておけない。
そして今。
◇
目の前にいる良春の娘が、同じ目をしていた。
風雨の中、トランクから荷物を放り出した。
雨に濡れた睫毛。
泥に汚れた指先。
冷えきって震えているくせに、ハンドルを握る手だけは離さない。
「これで、片瀬さんも乗れます」
その声には震えがあった。
けれど、退く気配はどこにもない。
剣崎は小さく息を吐いた。
(……親子そろって、無茶ばかりしやがる)
胸の奥に、懐かしくも心地いい痛みが走る。
良春に文句を言っていた頃と、同じ痛みだった。
「ったく……勝手にしろ」
口から出た言葉はぶっきらぼう。
だが、それ以上は止められない。
止めたところで、この目をした人間は止まらない。
それを誰よりも、剣崎はよく知っていた。




