40話 因果
嵐で鉄格子が軋む。
桐村は力の限り権藤を押さえつけ、藍川たちが階段を降りていくのを見届けた。
すぐ傍には風雨に煽られるクラゲ状の触手がいる。
鼻を刺すのは、鉄を溶かすような腐敗臭。耳には、膠喰体が近づく粘液の音。これら全てが、忍び寄る死の宣告のようだった。
(もういい、やるべきことはした)
権藤ならば仲間たちを後ろから突き飛ばし兼ねない。だから藍川たちとの距離を稼いだ。これだけ離れれば大丈夫だろうと、桐村はふっと力を抜く。
その選択は、いじめられた経験がある者の危機を嗅ぎ分ける勘、もしくは偶然の産物かもしれない。いずれにせよ、その結果は彼らの運命を分けた。
権藤は、桐村が力を抜いた隙を見逃さない。
「――死ねっ!」
壁に押さえつけられていた権藤の巨体が爆発的に動く。
壁を蹴る太腿の筋肉が、スーツの生地を張り裂かんばかりに膨れ上がる。
反動を利用した猛突進。
雨と脂汗で光る顔には、桐村を膠喰体に叩きつけようと、残忍な笑みが浮かべていた。
(次期社長の俺を置いて行くなんて許されるはずがない!お前が身代わりになれ!)
しかし、桐村は既に拘束を解き、脇へと一歩引いていた。
ゆえに、権藤の太い指先が掴んだのは、冷えた雨粒と空気だけ。
「は?」
間の抜けた声。驚愕だった。計算違いだった。
権藤は表情を凍りつかせた。
桐村は既に、手の届かない半歩脇に逸れている。
全力で放った突進は空を切り、巨体は止まらない。
制御を失い、前のめりになった。
目の前の景色が流れていく。
バランスを崩したまま、クラゲ型膠喰体の懐へと倒れ込む。
鉄製の階段に胸を打ち付け、膝は半透明の粘体が受け止めた。
「ぐはっ。くっそ、ふざけるなこのクソガキっ!」
恐怖よりも怒りが勝った。半身で振り返りざまに、桐村のズボンを掴もうと手を伸ばす。が、届かない。空振った。
手摺に絡みついていた触手が、権藤の太腿へまとわりついて、起き上がれなかった。
「桐村ぁああ!この俺を出し抜いたつもりかっ!」
ぬるり。
触手がより深く太腿に絡みつく。
その感触に、権藤の怒りは氷りつく。焦燥が駆け上がる。
咄嗟に、いつもの調子で取り繕おうとした。部下を叱責する時の、高圧的で大げさな口調で言い放つ。
「おいっ、桐村!冗談はそこまでだ!さっさとこの触手をどうにかしろ!お前の評価は今からでも変えられる!左遷は取り消してやってもいいんだぞ!」
これまで、部下は自分のご機嫌取りに奔走した。死んだ世古課長もそうだった。桐村も同じはず。与えれば喜び、奪えば怯える。それが部下というもの。自分の権力は、どんなときにでも通用すると信じて疑わなかった。
触手は緩むどころか、さらに締め付けを強めた。
ズルリと皮下へ侵入しようとする。
「聞いてるのか!?昇進させてやる!給料だって上げる!だから助けろ!」
ブシュッ!
肉が貫かれる。触手は貪欲に権藤の太腿に食い込み、ズルリと皮下へと侵入。脂肪の多い肉体は、膠喰体にとって格好の餌だった。
「ぎゃあああっ!」
半透明の触手が、太腿にもつれるように絡みつく。
かつて小野に対し、太腿を撫でまわしたセクハラ行為。
今まさに、膠喰体から同じ目を受けようとしていた。
(な、なぜだ……!なぜ従わない!俺は権藤だぞ!この会社の次期社長だぞ!お前ごときが!)
混乱していた。餌が効かない。自分の権力が、何の効力も持たない。
この事実に、精神は急速に瓦解し始めた。
「た、助けてくれ!本当に助けてくれ!桐村!俺が悪かった!これまでのことは水に流す!いや、昇進させる!給料も倍だ!頼む、お願いだ!」
皮が捲れ、肉が露出する。
下半身に絡みついた触手が、高級スーツの生地からジュルリと溶かす。
皮下脂肪が黄色い泡を吹き出した。
「あ゛ーーーっ!!」
喘ぐような叫び声。
権藤は絡みつく触手を掴むが、その手は剣崎と同じように、指先から溶解が始まった。高級腕時計の革ベルトが溶け落ち、地上へと落下していく。
(なぜだ!なぜ助けない!この俺が、こんなところで終わるはずがないんだ!)
助けを乞うても、桐村は動かない。
でもどこか冷めた視線もある。そこに、権藤の中の何かが弾けた。
「なんだ、その目はぁああああ!ふざけるなっ、ふざけるなぁあああ!このクソガキが!この下賤な社畜がっ!」
怒りが、恐怖と屈辱を押しのけて爆発する。
自分は選ばれた存在、誰よりも優れている。そう信じて生きてきた。なのに、今、誰よりも惨めに、誰よりも無様に、誰よりも早く死のうとしている。
「畜生!畜生!この裏切り者め!お前のせいだ!お前はクビだ!絶対に許さんぞ!次期社長のこの俺の決定だ!この会社は俺のものだ!社会的にも抹殺してやる!家族もろとも路頭に迷わせてやる!覚えてろ!俺は、俺はこんなところで終わるような男じゃないんだあっ!」
桐村は雨に打たれながら、罵声を浴びせる権藤を冷ややかに見つめていた。
怒鳴り散らし、責任を押しつけ、自分だけ助かろうとする姿。
弱者を虐げ、責任転嫁する。虐げることでしか己を保てず、弱さを隠すために他人を踏みつけ、ひたすら自己保身に走る――そこにはかつての自分がいた。
「この小童がぁああっ!!」
権藤はもがく。もがけばもがくほど触手は深く食い込む。
太腿の肉は溶け、骨が露出する。それでも彼は叫び続けた。己の権力と地位、自分の特別にすがりついて。
(この会社は俺のもの!俺が継ぐんだ!そう決まっているんだ!こんなところで死ぬはずがないんだ!)
助からない。
それでも権藤は、自分だけは助かると信じていた。
いや、そう信じることでしか、自我を保てなかった。
今まさに破滅の瞬間にいても、まだ理解できずにいた。
「じゃあな、権藤部長」
かつての上司が転落する様を、静かに眺めることしかできなかった。
背を向け、階段を降り始める。背後で、肉が引き裂かれる音と断末魔が混ざり合う。それは、かつての自分への訣別でもあった。
権藤の意識に浮かんだのは、兄の言葉だった。
「お前は社長の器ではない。会社を継ぐつもりなら、まず人として学ぶことがあるだろう」
鼻で笑った。
自分を妬んでいるだけだと。
けれど今、自分の周りには誰もいない。金で雇った部下たちは逃げ、取り入っていた者たちは去り、誰一人として手を差し伸べようとする者はいない。
(俺は一体、どこで何を間違えたんだ?)
その問いに答える者はいない。
ただ、半透明の触手が彼の全身を包み込み、高級スーツも、次期社長という肩書きも、権藤家の血筋も、どれも溶かしていった。
◇
桐村は地上で、仲間たちと合流した。
「権藤は?」
「身体ごと膠喰体に掴まった。もう手遅れだ」
剣崎の問いは簡潔に答えた。
桐村の目には憐れみや同情はない。
「そうか……駐車場まであと少しだ、急ぐぞ」
剣崎にとって権藤は相容れない存在だった。
だからと言って、容易に見捨てるつもりはなく、警察としての責務はあった。しかし、仲間の安全を天秤にかけ、膠喰体への突入は危険だと判断し救助を断念した。
異論を出すものはいない。
膠喰体に少し触れただけで、剣崎の右手はあの有様だ。身体ごと掴まれたのなら、最早どうすることもできない。あの溶解液に全身を浸されたのなら、絶対に助けられないことを誰もが嫌というほど理解していた。
一斉に動き出す。
雨はますます激しさを増し、視界はほとんど利かない。
先頭は、剣崎に肩を貸す天沢。
彼の持つ懐中電灯の光が、雨粒に反射してカーテンを描く。
照明が捉えるのは、電柱にへばりつく半透明の膠喰体。
街路樹の枝にぶら下がるゼリー状の触手が風に煽られ揺れる姿は、まるで絞首刑の死体のようだった。
そこへ「ピッ」と電子音。
突風が車体を揺らす中、蛍のように室内灯がついた。
剣崎がワイヤレスキーを握る手には、溶解した傷痕が生々しくある。
「乗れ」
「私が運転します」
藍川はためらわず運転席に乗り込む。誰もそれを止めようとはしない。自動車整備士の資格を持つ彼女の動作には、揺るぎない自信が感じられたからだ。
助手席には剣崎。
後部座席では、亜香里が鈴音を両膝で抱き締める。
そして天沢と桐村が肩を押し付け合うように窮屈に収まった。
藍川がミラーで全員の姿を確認すると、エンジンをかけた。
「非常階段の横に付けます」
さっき自分たちが降りて来た場所、片瀬も降りて来るであろう場所に向かう。
黒いセダンのエンジンが唸りを上げ、タイヤが水溜りを蹴り散らした。
フロントガラスを叩きつける水しぶきがワイパーで払われても、すぐに視界は滲んでいく。
「待て、予定変更だ。片瀬は置いて先に脱出するぞ」
剣崎の宣告に、藍川は耳を疑った。
車で待機して待つ。そう決めていたはずなのに。
「ちょっと待て。まさか片瀬君を置いていくのか?」
剣崎の後ろの座席にいた天沢が身を乗り出す。
そんな選択はあってはならない。そう言わんばかりの勢いだ。
「この車に、もう人は乗れない」
「待ってください。私は反対です!」
「わたしも待ちたい。詰めればきっと乗れるよ?」
亜香里と鈴音も説得する。そこには揺るがない芯がある。
「お願い」
少女の涙まじりの訴え。
剣崎は深く息を吐いた。この選択が非情なものだとは理解している。
刑事としての信念に反する行為だ。そもそも権藤のように、助ける術がなかった状況とも違う。
片瀬は足止めを買って出た。自分たちを逃がすために、一人であの異形とまだ戦っている。まだ生きている。恩義がある。戻ってくるのを待つべき。それは、痛いほどわかっている。しかし、それでも。
「……片瀬義人は、信用できない」
藍川のハンドルを握る力が強まる。
「光学迷彩を事前に知っていた。初動で外に出るのも危険だと知っていた。常に冷静な判断能力を持っていた。そして……」
そこで一呼吸置く。
車内の空気が張り詰める。
無線機のパネルから漏れる微かな光が、剣崎の険しい横顔を浮かび上がらせる。
彼の右手、負傷した掌は微かに震えていた。
「人ならざる、怪物のような力を隠し持っていた」
――ギャリギャリギャリ!
急ブレーキ。
車体は水溜りを切り裂くように横滑りしながら、非常階段の傍で停車する。
「だから何!?私達が片瀬さんにどれだけ助けられたと思ってるの!」
我慢の限界だった。
剣崎の傷。その手に、震えながらも必死に止血帯を巻いたのは片瀬だった。それを知る藍川だからこそ、憤りを止められなかった。
「おじさんの、その傷!あの時、手当してくれた人を、今さら怪物扱いするの!?」
それでも剣崎は考えを覆さない。まるでパズルのピースをはめていくような思考の中。片瀬義人は信用してはならない人物だと、既に確固たる答えが導き出されていた。
それは念動力の存在だ。刑事として長年追っていた殺人事件の真相に、限りなく近づくのだ。
「一九ちゃん、俺がこの会社に来たのは、光学迷彩を見破った片瀬を怪しんだから、それだけじゃないんだ。あいつは……」
「もういい!」
目の前の人物は、立派な刑事だ。
喧嘩をしたいわけではない。それでも剣崎から漏れる片瀬への疑念は納得がいかない。
怒りは声を荒げるよりも、乱暴すぎる動作に現れた。
力任せにトランクレバーを操作して、運転席のドアを勢いよく開けた。すると、横殴りの雨が車内に吹き込む。思わず鈴音が「きゃっ!」と悲鳴を上げた。
「藍川さん!外は危ない!」
天沢の呼びかけは、風雨に消えた。
車外に飛び出した藍川。
豪雨が全身を打ち、ブラウスが肌に張りつく。
視界が滲む中、トランクを開けた。
「何をしてるんだ!」
後部座席の中央にいる桐村が身を乗り出す。
剣崎が「待て!」と制止する。
藍川は濡れた前髪を払い、トランクから機材や工具箱を次々と放り出していく。
一つ一つが水しぶきを上げ、暗闇に消えた。
「あのバカ娘、膠喰体に気付かれるぞ!」
藍川が最後にスペアタイヤを引きずり出すと、ようやく運転席に戻った。
全身ずぶ濡れ。シートに水たまりを作りながら、震える手でハンドルを握りしめた。
「これで、乗れます」
冷たい雨に打たれたせいか、声は震えていた。
剣崎が探るように藍川の顔を覗き込む。雨に濡れた睫毛。その下に宿る瞳には、誰にも止められない決意があった。




