39話 屋外階段
役員室で繰り広げられる死闘と、窓の外で唸りを上げる嵐。
その狭間で、身支度は手早く済ませられた。
「荷物は最小限にしろ。俺の担架は要らん。この程度の傷なら自分で歩ける」
苦しげな息づかいで指示を出す剣崎だが、彼の肩を支える天沢は気遣いを解けない。
「大丈夫なのか?」
「時間が無い、さっさとついて来い」
自力で進もうとした剣崎の膝が、ガクンと折れた。
天沢が支えるまでに、一瞬もかからなかった。
「無理をするな。まだかなりの熱もあるんだろ?」
「……すまん」
悔しそうに目を伏せた。刑事として誰かを支える側だった自分が、今は支えられている。そのもどかしさが、その一語に込められていた。
亜香里はリュックサックを背負う。中には医療用品とわずかな食料。鈴音も小さなリュックを背負い、宇宙柄の靴でじたばたと落ち着かない足取りを見せていた。
「駐車場に警察車両を止めてある。黒のセダンだ。脱出経路は西端の屋外避難階段から、そこからなら駐車場に直結している」
剣崎が車のキーを見せた。
元々想定していたのは担架での移動。
ただそれは意識を失っており、ゆっくりと降りられる状況が前提だった。
今は時間が何よりも貴重。いつまで片瀬が小野を足止めしていられるかわからない。一刻も早くここから脱出する必要があった。
幸い、剣崎は支えさえあれば歩行は可能だ。天沢の肩を借りて移動する方が、狭い階段で担架を扱うよりも安全かつ迅速だと判断した。
方針はすぐに決まった。
その間、権藤は焦り、我先に西側通路へと進み出していた。
肩の傷から滲んだ血が高級スーツを赤黒く染めている。小野に噛みつかれた肩の痛みは、アドレナリンによって麻痺していた。
「サッサと行くぞ!」
彼はこれまで、ここの支配者だった。社長の弟として、次期社長として、誰もが自分に従い、顔色を窺った。それがあるべき姿。時に強引に、時に理不尽に振る舞い、多くの敵を作ってきた自覚もあった。
(それが何だ。俺はこの会社の次期社長だ。お前らとは元々、住む世界が違うんだ)
社長である兄夫婦には子供がいない。
この会社は自分が継ぐ。それを疑ったことなど一度もない。
権藤家の次男として甘やかされ、望めば何だって与えられる環境で育った彼は、自分は特別な人間なのだと信じて疑わなかった。
(俺が未だに部長のままなのは、現場には俺の指導が必要だからだ。兄貴には現場の人間の苦労がわかっていない。俺がいるから会社は回っているんだ)
兄からはこれまで「お前を役員にさせるわけにはいかない」と言われてきた。そんな言葉は聞き流した。兄は嫉妬しているだけ。そう思い込んだ。
しかし社外に出て肩書が消えてしまえば、すべての権威を失う。
損得勘定を何よりも優先していた権藤にとって、負傷している自分は負債でしかない。その感覚が骨身に沁みていた。
(こいつらは、窮地に立てば俺を置いていく)
自分ならそうする。役に立たない者は切り捨てる。だからこそ恐ろしい。今、自分がその「切り捨てられる側」に立っている。その恐怖が、誰よりも前へ出ようとする焦りへ変わっていた。
「開けるぞ!」
言うよりも早く権藤は非常口のドアを開けた。瞬間、突風が吹き抜ける。
外は真っ暗。
雨に濡れた鉄の階段は、危険なほどに滑りそう。
風は獣の咆哮のように唸り、雨は無数の針となって肌を刺す。
ビル外壁を伝う雨水は滝のように流れ落ち、避難階段の鉄格子は震えている。
手摺を打つ雨音は、狂ったようにタイプライターを叩いているようだった。
「ついてこい!」
「待て、子供と女性が先だ」
剣崎が割り込むように言った。しかし権藤は「怪我人の俺が先だ!」と噛みつくように言い返し、我先に階段を降り始めた。
負傷している権藤の歩みは、周りが危機感を抱くほど遅かった。
足が竦み、一段降りるごとに息を切らしている。それでも、階段の道幅いっぱいを使い、一歩も道を譲ろうとしない。
手摺を死に物狂いで握りしめ、階段の中央を塞ぐように進んでいた。
先頭にさえ立っていれば、自分だけは助かる。
頭にあるのは、それだけ。
(俺が何とかしてやらねば、この役立たずどもは生きていけん。感謝しろ、感謝さえすれば、俺はお前らを見捨てずにやってもいい)
現実は、自身が誰かに支えられなければ一歩も前に進めないというのに、その自覚はなかった。
「もう少し速くできませんか!?」
「うるさい!こんな状況で急げるか!」
業を煮やした亜香里の問いかけに、顔を引きつらせて返す。
脂汗が雨と混じって流れ落ちる。肩の傷がまたじわじわと血を滲ませ、赤黒いシミを広げていた。
やむを得ず、一同は権藤の後に続く。
亜香里が鈴音の手を引き、次いで剣崎を支える天沢。その後ろに藍川、最後尾に桐村という隊列だ。
非常階段を降り始め、桐村が四階に辿り着く。そこへバシンと、何かが叩きつけられた音がした。風雨にかき消されそうだったが、近くに居た桐村だけは反応した。
それはいた。
突風にあおられたクラゲ型の膠喰体。
手摺にへばりついていた。
サイズは人間と近く、風に流されているため動きは鈍いが、確実に這い降りてくる様は地獄から忍び寄る悪魔のようだった。
桐村の頬に冷たい雨が伝う。雨の中でもわかるほど緊張で手汗がべとつき、掌は熱を帯びていた。
「おいっ!さっさと進め!」
今最も危険な位置にいる桐村は焦った。
叫びは雷鳴に負けずに響き渡る。その声に天沢が反応した。
「どうした!?」
「膠喰体だ!すぐ後ろにいる!」
捕食者の存在を知った権藤の足は、更にすくむ。いや、完全に止まった。
手摺を握りしめ、動こうとしない。否、動けない。
雨でぬれた階段、吹きつける突風、恐怖に震える膝、痛みがぶり返した肩。それらすべてが障害となって、動きたくても動けなかった。
「く、くそっ。動け、動けっ!」
全身ずぶぬれでズボンは太ももに張り付いている。小野に喰らいつかれた時の生々しい記憶が、五感を逆なでする。
今の彼に、正常な判断能力はない。頭にあるのは、もし先に行かれたら、置いて行かれるかもしれない。そんな恐怖から、通路を幅いっぱいに使って追い抜けれなようにすることだけだった。
「――くそっ!」
ついに痺れを切らした桐村が動く。
まず藍川を押し退け、次に天沢を押し退けた。
人を出し抜く。我先に逃げようとする。
自分だけ助かろうとする。
これも権藤のような、卑怯な男の行為だ。
(違う!)
彼の心臓は高鳴る。鼓動が耳の中で木霊する。
(これでいい!)
「権藤ッ!!」
雨で滑りやすい階段で、彼の革靴はきしむ。
細身の桐村が、巨体の権藤に突進。
体格差は明らか。権藤の方が一回り以上大きい。
それでも桐村は食い下がり、権藤を踊り場の壁際に押し付けた。
「桐村!お前、何を」
「このブタ野郎がッ邪魔なんだよッ」
歯を食いしばる桐村。その声は嗄れ、雨に消えていく。
権藤は狼狽した。
女のようにひょろい男だ。簡単に押し返せる。そう思っていたが、肩の傷がまた裂け、血が滲み出し、竦む恐怖と痛みで、力が入らない。
「放せ!お前ごときが邪魔をするな!」
これまで踏みにじってきた者たち。
弱者として虐げてきた者たちの顔が思い浮かぶ。
リストラした社員、左遷した部下、弄んだ女たち。
誰一人として、逆らう者はいなかった。
(俺は権藤家の人間だ!こんなところで終わるような男じゃない!)
狭い非常階段を占領していた権藤はもがく。
だが、桐村の決意に押される。
取るに足らない下っ端と思っていた男の決意を、甘く見ていた。
「権藤、お前のせいでみんなが危ないんだよ!」
痩せた体から、信じられない力がこもる。
(こんなこと、中学時代の俺が見たら驚くだろうな)
かつての桐村は、弱さを隠すため他人を傷つけた。
心のどこかで、弱さは罪であり、弱者は被害を受けるのが当然で、奪う側に立つのは、虐げられないために不可欠な行為。そう自分に言い聞かせ、免罪符にしてきた。
(今は違う。弱さを認め、それでも立ち向かう。天沢が教えてくれたんだ、それが――フェアプレーだ!)
「亜香里さん!鈴音ちゃん!先に行け!」
狭い非常階段を占領していた権藤は、端に追いやられていた。
「狭いが通れるだろ!行け!」
亜香里は戸惑った。桐村の変化に、ではない。
自分たちばかりが優先される負い目に、だ。
そこへ剣崎が号令をかける。
そこには、刑事としての信頼が満ちていた。
「ここで迷うな!速く行くんだ!」
申し訳なさを引きずる思いで、亜香里は鈴音の手を引き降りて行く。
次に剣崎を支えている天沢。
彼は背後にいる膠喰体と、桐村を見比べた。
雨でぐしゃぐしゃになった桐村の前髪。その隙間から覗く目は輝いて見えた。
「……桐村」
「さっさと行けよ。オカルト学者」
桐村はすれ違い様に笑おうとしたが、頬が痙攣する。
冷え切った筋肉が思うように動かない。
怖いんだ。
あれに襲われるのを想像すると、ガタガタと震えが止まらない。
だがそれ以上に、愚かで惨めな過去の自分が憎かった。
「……少しくらい、汚名返上させてくれ」
風がさらに強まる。
クラゲ型の膠喰体が手摺を伝い、ゆっくりと近づく。降りて来る。
触手の先端から滴る粘液が、鉄の階段を溶かしながら白い煙を上げる。
腐ったような匂い。雨の冷たさの中でもはっきりとわかった。
後ろ髪を引かれる思いの天沢は、目頭が熱くなる。
星座模様のネクタイが風に翻られ、潤んだ目を隠した。
「今のお前は、最高に良い男だ」
桐村は鼻で笑った。
雨が唇に流れ込み、塩っぽい味がした。
(良い、男か)
最後の藍川は、祈るように胸に手を当てていた。
桐村は雨粒が瞼に当たり、目を閉じるのを余儀なくされた。
というよりも、彼女を見る勇気がまだなく、俯くことしかできなかった。
(藍川……お前が、俺みたいなクズを気にする必要はないんだ)
藍川も階段を降り始めた。
靴が水溜りを蹴り上げ、跳ねる水しぶきが暗闇にきらめいた。
「――貴様!いい加減に離さんか!」
桐村は、暴れる権藤を押さえつけたまま残っている。
風雨の中、クラゲ型膠喰体が目前に迫る。
触手が伸びる。桐村の、足元の階段を溶かす。
白い煙が立ち上り、酸性の臭いが鼻を刺した。
(まさかこの俺が、ヒーローごっこする羽目になるとはな……でも、これでいい)
仲間たちが無事に降りていく背中を見届けた。
亜香里が鈴音を抱きかかえ、天沢が剣崎を支え。
藍川は……振り返っていた。
視線が、重なる。
桐村は思う。その目は、力強く、真っすぐだ。
(俺は多分、その目に惚れたんだろうな)
ただ今回は、少し違った。
藍川の目には、自分への気遣いも滲んでいた。
優しさもあった。
そんな眼差しを向けられたのは、これが初めてのこと。
だから、覚悟を決められた。格好をつけ、余裕ある笑みで応え、早く行けと顎をしゃくった。
藍川は申し訳なさそうに会釈し、前を向いて進む。
「さあ来いよ、化け物」
風が彼の声を飲み込む。雷光が、桐村の決意を浮かび上がらせた。
雨はさらに激しさを増す。まるで世界の終わりを告げるように、降り注いでいる。
(なんだこの気持ち……存外、悪くない気分だ)




