38話 誓い
十三年前の遠い記憶が現実へと溶けていく。
「――皆さん、先に逃げてください」
片瀬の声は決意に満ちていた。
「片瀬さん、一緒に行きましょう!」
「無茶を、するな。ゲホッゲホッ」
藍川の震える声。
負傷している天沢は、咳き込みながら立ち上がる。
小野の皮膚の下で何かが蠢く。
肩甲骨から、腕ほどの太さがある触手が四本、一斉に生え出した。
――パンッ!
打ち払われた触手。
それは、念動力によって防がれた。
「長くはもちません、行ってください!」
不可視の力。
誰一人として動けない。状況を理解できずにいた。
「後で説明するから、今は先に逃げてくれ!」
片瀬に余裕はない。
一方的な防戦は消費が凄まじく、あまり長くは持たない。
この間も、触手は踊るように跳ね、動き、障壁を打ち続けていた。
(防戦一辺倒ではまずい)
不可視の壁を展開したまま、左右逆回転の渦をイメージ。
これは片瀬にとって、もっとも殺傷能力の高い攻撃手段。
自分の両親を殺めた、捻じり切る力だ。
小野の膝関節を狙い撃つ。
可視化できるほどの気流の渦が、瞬く間に彼女の膝に収束されていく。
空気が揺らぐ。空間が歪む。
――ゴリッブシュ!
骨が粉砕する音と、筋繊維が裂ける生々しい音。
それらが混ざった螺旋の渦に巻き込まれ、筋肉が剥がれた。
太腿から下が、肉片と骨片の混ざった粘液が飛び散った。
切断面からは、捻じり切られた両膝が宙を舞う。
「あれはっ……まさか!」
剣崎が声を上げる。
驚愕を隠せないでいた。
あの捻じり切られるような外傷には、見覚えがあったから。
しかしそれよりも、小野は倒れない。前傾姿勢で踏ん張っている。
ズタズタに裂けた断面からは、蛆のように蠢く血管が垂れ下がっていた。
下半身から、姿が変わっていく。
黒ずんだ血漿が泡立ちながら触手へと変異する。
新生する肉塊。
無数の毛細血管が地表に根を張るように広がって、支持体となっていた。
動きはまだぎこちない。生まれたての子鹿が立つように、バランスを探っている。
「今だ!逃げろ!」
片瀬の叫びに、剣崎が反応する。
「急ぐぞ!」
天沢が剣崎の肩を支え、桐村が亜香里と鈴音を促す。だが、藍川だけは動かない。
「一九ちゃん!」
「いやです!」
剣崎が呼びかけても、藍川は、片瀬から目が離せない。
いつだってそう。彼は一人で抱え込む。ボロボロになっても、自分たちを守る盾のように振る舞う。それが、たまらなく切なかった。
(こんな別れ方は嫌だ!)
八年前。
何の前触れもなく、藍川の父親は帰ってこなかった。
最後に交わした言葉は「行ってくる」の一言。笑顔で手を振る父がドアを閉めた。それが最後の別れだった。
あの日から、思うようになった。
人が消えるとき、何のサインもないのだと。
「放して!片瀬さん一人だけ残すなんてありえない!」
天沢が藍川の肩を掴むが、激しく振り払われる。
その間にも、触手は床に根を張り、太腿の断面から生えた無数の血管のような繊維が脈動している。
ぎこちなさはもうない。
こちらを獲物として捕捉していた。
小野の身体が沈む。
触手が一斉に縮み、バネのように溜められた力が解放――彼女の身体が爆発的に跳躍。
五メートルはあった間合いが、一瞬で詰まる。
バチンッ!
障壁にぶつかり、弾かれた。
しかし、その速度は先ほどよりも速い。
「くっ!」
片瀬の脳髄は、貫かれるような痛みがあった。
視界はチカチカと白く染まり、耳の奥で血潮が押し寄せる音がする。
それでも歯を食いしばって、再び念動力で小野を拘束しようとする。
「藍川さん、お願いだ。逃げてくれ」
「嫌です!私、耐えられないんです!だって約束したじゃないですか!二度と無茶しないって!なのに、なんで!」
ひしりと、藍川は片瀬の腕にしがみついた。
絶対に離さない。強い意志が込められていた。
その瞳に、片瀬は心を奪われた。
念動力の集中に、ほんの僅かな隙が生じる。
束縛が、一秒だけ緩む。
小野は動く。
触手が床を蹴り、身体が弓なりに反る。
標的は、藍川の背中。
「しまった!」
咄嗟に藍川を抱き寄せる。
片瀬は背中で攻撃を受け止めようとした。
しかし藍川は、片瀬を押しのけた。
握っていたスパナを、小野に向けて投げつける。
だがそれは、伸びてきた触手によって容易に叩き落とされた。
それでも藍川はあきらめない。
両腕を横に伸ばし、自らが盾となって攻撃を受け止めようと向き直る。
(私だって守れる!)
小野の触手が藍川の腹部を狙う。
間一髪。念動力がそれを阻む。
しかし衝撃は殺しきれない。藍川は床を転がった。
「くっそぉおお!」
念動力で重量感のある執務机を浮かせる。
踏ん張り、渾身の力で投げつける。
机は小野に直撃し、下敷きになった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
脳疲労は限界。垂れる鼻血を袖で拭う。
肩で息をしながら、片瀬は倒れた藍川に駆け寄った。
抱き起こした彼女の顔は。涙でぐしゃぐしゃだった。
日頃どんなに辛いことがあっても、きりっとした目で弱さを見せない。そんな人が、鼻をすすって、少女のように嗚咽を漏らしていた。
「片瀬、ざん」
言葉も崩れていた。
大人としての理性も、積み上げてきた強さも、この瞬間は無意味なもの。彼女の中に抑えていたものが、溢れ出す。
「私、……私、本当はあなだのごとが、好ぎなんです。だぶん、ずっど前がら、……だから、だから、死んじゃ、いやなの。もう失いだく、ないの、……離れだく、ないのぉ」
ありのままをさらけ出した藍川。
彼女の頬と胸は、熱くなっていた。
ただ、彼を失うことが怖い。父を突然失ったあの日の感覚を、もう味わいたくない。
もし、また誰かを失うなら、今度こそ自分は壊れてしまう。そんな予感がした。
そこでぐっと、身体ごと片瀬に引き寄せられた。
顎にそっと指かかる。
心臓がどっと高鳴る、次の瞬間。
彼の唇が。
優しく覆った。
柔らかく、
温かい、
唇への感触。
(……え?)
頭が真っ白になる。
唇の感触が、じんわりと広がっていく。
優しく、触れるだけのキス。
それなのに、全身には稲妻が走ったかのような衝撃が駆け抜けた。
心臓が大きく跳ね、呼吸さえも忘れた。
名残惜しそうに、唇が離れる。
言葉が出ない。
雨音だけが聞こえる。
一瞬の出来事が、永遠のように感じられた。
「必ず生きて帰るから」
片瀬が微笑む。
その笑顔は、これまで見たどの表情よりも優しくて、鼓動はますます激しさを増す。
彼のまつげ、口元、目尻の優しい皺、すべてが愛おしくてたまらない。
「だから、今は先に行ってくれ」
片瀬は藍川を立たせ、頬の涙を親指で拭う。
藍川はまだ唇の温もりに酔いしれていた。
(キス、した)
唇の感触は、まだそこにあった。
「約束、いえ。誓えますか。もしはぐれたら、長野で待ってて良いですか?」
息の届く距離だった。
彼と離れたくない。こんな時に、ずるいのかもしれない。でも、何もせずこのまま別れたら、二度と会えなくなる気がした。
「ああ、一緒に家具でも作ろう。それに、藍川さんにはちゃんと話したいことがあるから」
愛の告白をした。それを片瀬は、キスで返した。
まだ言葉はもらっていない。返事を聞きたい。もっと彼の声を聞いていたい。そう思うと、指先が勝手に動いた。彼の手を、指を絡めるように握りしめていた。
工具でできた小さな傷跡がいくつもある自分の手を、彼は嫌がらずに包んでくれた。その温もりが、あまりに心地よかった。
けれどそれは、束の間だった。
絡んだ指先は、物足りない未練を残したまま離れた。
藍川は歩き出す。離れて行く。
最後に一度だけ振り返る。
片瀬は何も言わず、安心させるように微笑んでいた。
その笑顔を胸に刻み、藍川は前を向く。
(片瀬さん……必ず、生きて帰ってきて、返事を聞かせて)
彼女は前を向く。
唇にはまだ彼の温もりが残っている。
その感触を胸に刻みながら、一歩、また一歩と歩き出した。




